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「虫唾が走ります。」
キコは静かに言った。
「ますます馬鹿になって、どうするんですか。」
ニトリで最安値の薄っぺらいカーテンから透ける月明かりが、キコの真珠のような肌を輝かせる。
「……私の脳溢血を治し、あなたの知能は低下した。
どうしてそんな馬鹿な事をしたんですか?」
「だって、死んでほしくなかったんだもん。」
晴は言った。
体育館倉庫で目にしたキコの哀れな姿。
制服を真っ赤にして四肢をぐんにゃりと曲げ、スッと精気の抜けていく表情は何度も目が覚める直前の夢に出てきて、その度にあの時と同じ絶望感に苛まれる。
「まあ、そんなことだろうと思いましたよ。
しかしとんだ骨折り損ですよ。
私、死んでも良かったんですから。」
そんな晴の苦しみとは裏腹に、軽々しく言ってのけるキコの冷静な態度に、晴は肩を跳ねあがらせる。
「どうしてそんなこと言うの?
キコが死んだら、嫌だよ。」
「同情は結構です。」
キコは薄ら笑いを浮かべていった。
「全部嘘だったのは解っているんですよ。」
「嘘じゃないよ。」
晴が否定するのを、キコは片手を上げて阻止する。
「……もう良いじゃないですか。
取り敢えず、私は今日、そんなお馬鹿さんに借りを返すために来たんです。」
「借り、って?」
「勿論、あなたの頭を治すために来たんですよ?」
「……治せないよ。」
「治せます。
――――しましょう。」
キコは言うなり、自分の背中に腕を伸ばし、ワンピースのホックを外した。
闇夜に裂け目が出来た様に、白い身体が瞬時に露わになる。
「ちょ、ちょっと、なにしてんの!!!」
晴はこれ以上ないくらいに眼を見開いて起こっている事態を把握し、
今更靴を脱いで慌てながら部屋に走り込むと、押し入れに丸まっているタオルケットをキコへ全力でぶん投げた。
「……無理だというなら、眼を瞑っていて下さい」
「ええええええ…そ、そう、そういうことじゃないでしょ…」
オバケの様に頭から布を被ったまま言い放つキコの方を見ないようにして、晴は項垂れながら呟く。
「そんなのってオカシイよ。」
「何一つ、可笑しいことなんてありませんよ。」
「だって。もっと、……自分を大事にしてよ。」
晴が言うと、キコは晴の身体を無理やり自分の方へ向き合う形に引き寄せた。
「それは、価値ある人間に言う事です。
世の中には、大事にしなくても良い存在は五万といるんですよ。
責任を感じているんなら、そんなものは放棄してしまいなさい。
私は近日、両親の住む国へ移住しますのでもうお会いすることも無いでしょう。」
「そんなのヤダよ!」
晴が距離を離す様にキコの腕を引き剥がす。
「往生際が悪いですね!!」
キコは逆上して怒鳴り、下着姿のまま晴の髪の毛を掴んだ。
「いったあああああ!!!!!!痛い!頭皮が悲鳴上げてる!!」
「大人しくしていなさい!」
頭を押さえて両手が開いたのを見計らったキコは、晴の肩を押して床に倒す。
「……こんなことしても、無駄だからね。」
晴はキコを見ないように、涙の粒が纏う睫を震わせながら眼を閉じる。
「むだ、とは…?
他者との接触と脳内分泌物の効果で治癒能力が活性化する、と聞いていますが。」
「だって僕。
自分のアタマより、キコの心を治す方を選ぶから。」




