鉄輪
やけに蒸し暑い夜であった。私はうんざりして体を起こした。
窓を開けているのに風は無く、ねっとりとした空気がまとわりついてくる。
苦学生である私には扇風機の一台も用意できないので、我慢するしかなかった。
……喉が渇いた。
友人から安く売ってもらった小さな冷蔵庫の扉を開け、水差しを取り出す。
物臭な私はコップに移しもせず、水差しに口をつけラッパ飲みした。冷たくはなかったが、幾分か気が晴れた。
目が冴えた私は、おもむろに窓から顔を出した。
そこに女がいた。
みどりの黒髪を重そうに揺らした若い女が、物憂げな視線をこちらに寄越して、幽霊のように立っている。
その顔には見覚えがあった。昔の女で、もう二月も前に別れている。
「……お前、ヨシ子か」
名前を呼ばれたヨシ子は、緩慢に首を縦に振った。
雨など降っていないはずだが、ヨシ子の髪も服もぐっしょり濡れている。
「こんな時間に、どうしたんだ」
答えはない。
「腹が減っているのか」
今度は無言で否定の仕草をした。
「ヨシ子…」
三度目に名前を呼んだ時、私はようやく気づいた。
ヨシ子は一月ほど前から行方知れずになっていたのではなかったか。
もとより変わった所のある女だったので、私はそれほど心配してはいなかった。
どこか浮世離れしたヨシ子の人間性に、私は心の奥で不気味さを感じていた。
ヨシ子が消えた翌日から、彼女のことを思い出さないようにしていた。
「今までどこに行っていたんだ」
「……貴船に……行っていたの」
消え入りそうな声。
貴船などに何をしに行ったのだろう。自宅を離れてまで留まる理由が、貴船にあるとは思えない。
「とにかく、家に帰れ。みんな心配してる」
「いいの。あたし、あなたに会いに来たから」
「何だって……」
ヨシ子の手が素早く動き、窓枠を掴んだかと思うと、乗り出した身が蛇のように部屋の中に入り込んできた。
私は目を離すことができなかった。
ぎらぎら光るヨシ子の目は、まるでこの世のものとは思えないほどの禍々しさに満ちていた。
メデューサに射竦められたように身が縮む。ヨシ子は女とは思えない力で私の肩を掴んで、なだれ込むように押し倒した。
ばらばら落ちてきた黒髪が影を落として、視界が暗くなる。
「別れようなんて嘘よ。そうでしょ?」
「嘘じゃない、真剣な話だったんだ」
「嘘よ! だって私が貴船に行きたいと言ったら連れて行ってくれたじゃない」
私の脳裏に春の景色が浮かんだ。
貴船神社に行きたいとせがまれ、一緒に足を運んだあの日のことを。
あの日のヨシ子は一体何を願っていたのか。何を聞いても教えてくれなかったが、今になってようやく悟った。
「大好き」
今のヨシ子にあの日の面影はない。今私に向けているのは純粋な好意でなく、気の狂った笑顔だ。
私は目をつぶった。化け物のようなヨシ子に殺されると思ったから。
あるいは、夢なら覚めてくれという希望を願った結果だったのかもしれない。
私の声が天に届いたのか、妙な気配が消えた。鳥のさえずりが耳朶を打っている。
恐る恐る目を開けてみると、もうヨシ子の姿はなかった。窓枠に切り取られた朝の光が、床を照らしているだけである。
ホーッと、胸の中に溜まっていた息を吐き出した。
昨夜の出来事は夢だ。あんまりにも寝苦しかったから、あんな気味の悪い夢を見てしまったのだ。
――いやに手元がざらざらとしている。うっかり目をやってしまい、肝が冷えた。
真っ黒な刺繍糸のような、濡れた長い髪が、そこらに落ちていた。
どう考えても偶然とは思えなかった。女の友人を呼んだ覚えはないし、私の知り合いでこんな髪をしている奴はいない。
この髪の主はヨシ子しかいない。しかし、ヨシ子がどうやってここに来た? あれは夢であった筈なのだ。
困惑する私に追い打ちをかけるように、ジリリリリッと電話が叫んだ。
半ば興奮気味で受話器を取り、応答する。
「もしもし…」
「大変だ、ヨシ子の死体が揚がった!」
「揚がったって……どこから……」
「宇治川だ! ずっと沈んでたみたいで、皮膚がブヨブヨだったって……」
背中に冷たいものが走った気がして、私は荒々しく受話器を置いた。
まさか、行方知れずだった間、ヨシ子はずっと宇治川に身を浸していたというのか?
ヨシ子はおかしな女だったが、そんなことをしたという話は今まで一度たりとも聞いたことはない。
また、電話が鳴った。
その音がひどく恐ろしく思えたのにも関わらず、私は受話器を持ち上げてしまった。
「あたし頑張ったのよ。四十日も水の中にいたんだもの、きっと大丈夫。またそっちに行くからね、待っていてね、きっとよ」
昨日とそっくり同じの、ヨシ子の声だ。
「冷たかった。寒かったの。一緒に来て」
まるで今も水の中にいるような、ゴボゴボと苦しそうな声色の。
私の視界に、ぐっしょり濡れた黒髪が、影のように広がり始めていた。