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気づくと、透子は森の中に立っていた。
生い茂る木々の隙間から光が筋となって差し込んでいる。そこらかしこで鳴っているチュンチュンだのピーヒョロだのという鳥の声を聞きながら、透子ははて、と腕を組んだ。
「……夢?」
たぶん夢だな、と透子はぼんやりと思った。だってさっきまで自分の部屋にいたし、と。
しかし困った。夢の中とはいえ、手持ち無沙汰である。
とりあえず歩いてみるか、と透子は森の中を歩き始めた。のんびり周囲を観察しながら歩くと、この森はすぐに透子の興味を引いた。
マスタードのような黄色とクネクネした幹を持つ木や、色とりどりのクラゲみたいな形をした花。中にはマーブル色をしたものもある。何故かニャーと鳴くピンクの兎を見かけたし、蝶々は淡く青い光を纏いながら透子の目の前を悠々と横切った。
(なんだかメルヘンな森だなぁ)
そう思いながら、透子が一際大きな紫のクラゲ花(透子命名)に触れようとした時、ドンッと横から何かがぶつかってきた。
「うわっ……!」
何なの、と透子がよろめきながら振り返ると、そこには金の髪と青い目のとても可愛らしい男の子がいた。ほっぺがリンゴのように赤い。透子より少し年下だろうか。両腕を突き出したポーズのまま、透子を睨んでいる。どうやらこの少年が透子を押したようだ。
「ちょっと、痛いんだけど。あんた、誰?」
透子が文句を言いながら尋ねると、少年は両腕を腰に当ててフンッと鼻から息を吐いた。
「そなた、馬鹿か?」
突然見も知らない少年に馬鹿呼ばわりされ、透子はムッとした。
「誰が馬鹿よ。失礼ね。馬鹿って言う方が馬鹿なんだからね」
透子が言い返すと、少年はより馬鹿にした目で透子を見据えた。
「まるで子供の言い草だな。相手にするのも馬鹿馬鹿しい」
馬鹿ばっかり言わないでよ、そもそもあんただって子供じゃない、と透子は思った。そして再度反論を試みようとしたが、少年の方が一歩早かった。
「そなたが触ろうとした花には強烈な毒がある。触った瞬間に手がもげるぞ。そんなことも知らないのか?紫は危険だと、普通は三歳の子供でも知っていることだがな」
その偉そうな物言いにカチンときたものの、透子は少年の言葉の意味を考えた。
「……つまり、あんたはわたしを助けてくれたってこと?」
「……まあ、そうなるな」
少年の返答に、透子は数秒間、口をもごもごさせたが、結局諦めて素直に口を開いた。
「……どうもありがとう」
『ありがとう』『ごめんなさい』は、母が最も厳しく透子に教えこんだ言葉だ。この偉そうな少年にお礼を言うのは躊躇われたが、母の教育の勝利である。
透子の素直なお礼を聞き、少年は意外そうに目を開いた。そして照れたように目線を外した。
「……いや、なんのことはない」
沈黙。
こそばゆい空気が二人を包んだ。
「わ、わたしは透子!きみは?」
何だかポワンとした気まずい雰囲気に、透子は慌てて自己紹介をした。透子の名乗りに、少年は何故か少し躊躇う気配を見せた後、口を開いた。
「わたしのことはヴィルと呼べ」
それから二人はなんとなく並んで歩きながら話をした。
ヴィルのおかげで、この森がお城近くの神秘の森という場所であることが分かった。「お城!?」と透子は見たい見たいと大はしゃぎだ。そんな透子を尻目に、ヴィルはこの森は王家ゆかりの森であり、許可なく立ち入るのは禁止なのだと透子に語った。
「それなのに、トーコは何故こんな場所に?」
もし衛兵に見つかれば捕まるぞ、とのヴィルの言葉に、
「わたしも分からない」
まあ迷子ってことかな、と透子は適当に答えた。だって夢だしなぁ、とは心の中の言葉である。
「ヴィルこそなんでこんな所にいるの?」
透子の問いに、ヴィルはいくらか逡巡した後、溜息とともに口を開いた。
曰く、ヴィルは家出中であるらしい。
そもそもの発端はヴィルの妹の誕生。
ヴィルの実の母親はヴィルが五歳の時に病気で亡くなってしまったらしい。自分の髪と目の色は全て母親譲りなのだ、とヴィルは言った。
そして母親が亡くなってしばらくすると、父親は後妻を娶ることにした。そしてその後妻はヴィルが八歳の時に妹を出産した。
その時から、ヴィルは家族の中で疎外感を感じていたらしい。幸せそうに妹を抱く義母と、そんな義母と妹を笑顔で見守る父親。まだ幼かったヴィルは無意識に母親の温もりを求めるも、自分とは目の色も髪の色も全く違う、似ても似つかない義母。そのせいか、義母の態度もどこか余所余所しい。
では父親は、といえば、父の仕事を継ぐのだと言われて育ってきたヴィルは、父からは常に厳しく接さられてきたために、父と子としての温かい団欒など記憶にない。
それでも、ヴィルは父親の跡を継ぐのは自分だという自負で、その孤独にじっと耐えてきた。
そんな折、ついに恐れていたことが起こった。それは今年の初め、ヴィルが十歳の年。義母が二度目の妊娠で男の子、つまり弟を出産したのだ。
弟の誕生に満面の笑みを浮かべる義母と父親をよそに、ヴィルは心の芯が冷めていくのを感じた。
自分を見る周囲の目に憐れみが見え隠れしているような気がして、それもヴィルの心に陰をさした。
もう自分は用なしだ。
ヴィルは思った。そして家を飛び出したのだ。
「で、勢いで飛び出したはいいけど、この森で迷っちゃったの?」
「……」
透子の言葉に、ヴィルはムッと唇を突き出した。けれどその通りなので反論はしない。
「ヴィルも色々大変なのねぇ」
そのあまりにあっけらかんとした言い方に、話をしていたヴィルは呆れてしまった。そんなに軽い話ではなかったつもりだが、と。
しかし横で能天気そうにウンウン頷いている透子を見て、何だか突然、全てがどうでもよくなった。と同時に、長い間心をしめていた重りのようなものがスッと軽くなるのを感じた。
なんのことはない、透子はこれは自分の夢だと思っているので、ヴィルの話を気軽に捉えているだけなのだが。
しかしそんな心境の変化からか、ヴィルはふと言葉をもらした。
「母上が生きていたら、どうなっていただろう」
それは独白に近かったが、透子は自分への問いかけと思い、うーん、と考えた。
「どうだろ。でももしかしたら、毎日ガミガミ怒られて嫌気がさしていたかもよ。わたしのお母さんも毎日宿題しなさい、とかおやつ食べすぎるな、とか煩いもん!」
言いながら母親のお小言を思い出したのか、透子は途端に渋い顔をした。
そんな透子の様子に、ヴィルはクスッと小さく笑いを漏らした。
(そういえば、母上もお優しかったが、同時に厳しい方だった)
まだほんの幼かった頃、勉強をサボって遊んでは母親にそれは厳しく叱られた。しかし頑張って良い成績を取ると、誰よりも喜んで抱きしめてくれるのもまた母であった。
そんな母親とのやりとりを思い出してヴィルが目を細めていると、透子が「あ、そうだ」と言ってポンと手を打った。
「ヴィルもその人のこと『お母さん』って呼んでみたら?」
「お、かあさん?」
透子の言葉を思わず反芻したヴィルに、さもいい事を思いついたといった様子で透子はこっくりと頷いた。
「ヴィルのその『義母殿』って呼び方、なんか固っ苦しい。『お母さん』って呼べば、その人そのうちヴィルの本当のお母さんになってくれるかもよ?」
「……」
だからそんな単純な話では……とヴィルは思ったが、何故か反論の言葉が出てこなかった。
黙り込んだヴィルと、いい事言ったとご満悦で鼻歌を歌い出した透子。
そんな二人がしばらく森の中を歩いて行くと、突如視界が明るくなった。開けた空間に出たのだ。
円を描くように、木々がその空間だけポッカリと途切れている。上を見上げれば青々とした空と流れる雲が広がっている。
そしてそんな空間の真ん中に、小ぶりな一軒の家が建っていた。
透子は目を見張った。何度目を擦って見ても間違いない。
それは、お菓子の家、であった。