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ヘンゼルもグレーテルも出てきません……。
「あらやだ、透子ちょっと太ったんじゃない?」
「太ってないし!」
母の言葉に、リビングで読書をしていた透子は即座に反論した。
昨今の小学生をなんと心得る。
六年生ともなれば、身長体重、ほんの僅かな胸の膨らみまでも気になるお年頃。太った、はもちろん禁句である。ましてや、昨日学校で行われた健康診断で八キロの増量が発覚し、密かにショックを受けている娘に対してなら尚更だ。ちなみに身長は三センチしか伸びていなかった。
「やっぱり太ったわよ。気をつけなさいよ〜。油断するとすぐブクブクのおデブちゃんになっちゃうわよ!」
ふくよかなその身体で自らの言葉を証明しているかのような母は、しかし娘の繊細な心など気にもせずに、デリカシーのない言葉を吐いた。
「特に夜の甘いものはおデブのもとよ!」
母のだめ押しに、透子は読書の傍らせっせと口に運んでいたスプーンを止めた。
スプーンの上にはツヤツヤトロンとしたバニラアイス。透子はじっと見つめた。
『私を食べて』
アイスの声が聞こえる。
『美味しいよ』
知っている。それは心の底から知っている。
『透子に食べられたいの』
なんと刺激的で甘美な誘惑か。
しかし同時に母の柔らかさと包容力を感じさせる体が視界の端にチラチラ入る。
(食べたい。この子を食べてあげたい。でも、でも体重がっ……!)
透子は気づいていない。
そう葛藤した瞬間、世の大半の女性が陥る恐ろしい無限地獄に自分が足を踏み入れてしまったということを。
そこは一度足を踏み入れたが最後、永遠と繰り返される争いの場。勝利を収めた次の瞬間には、倒したと思った敵に嵐の如く襲われる。完全勝利と思いきや、あっという間に形成を逆転される。
その敵の名は食欲、無限地獄は別名ダイエットという。
母の体と目の前のバニラアイスを何度も繰り返し見比べた後、透子はそのまだ幼い顔に苦渋を滲ませながら、手に持ったスプーンを皿の上に戻した。
辛くも一勝である。
しかし油断はできない。透子はこの強敵とこれ以上相対するのは危険と判断し、戦略的撤退をした。つまりアイスから離れるべく自分の部屋に逃げ込んだのだ。
「はぁ。アイスまだ半分以上残ってたなぁ」
我慢をすれば余計食べたくなるは人の性。透子は部屋に戻った後も悶々と残したバニラアイスに思いを馳せた。
「……もう寝よう」
部屋の中もどうやら安息の地ではなさそうだ。透子は早々にベッドに潜り込むことにした。枕の傍らには先ほどまで読んでいた本ーーー『ヘンゼルとグレーテル』を置いて。
透子は横になりながらペラペラと本を捲った。ベッドの横に置いたライトからの柔らかい光を頼りに挿絵を眺める。
透子は幼い頃から読書が好きな子供だった。物心ついた頃には既に絵本が一番の宝物だったし、特に両親が寝る前に読んでくれた童話は今でも大のお気に入りだ。
小学生になり、学年が上がるにつれて読む本は段々と年齢に応じたものへと変わっていったが、就寝前の童話だけは今も変わらない透子の習慣となっている。
透子は本の挿絵を眺めながら、切ない溜息を吐いた。
(やっぱりアイス食べればよかった)
挿絵に描かれているお菓子の家を眺めながら、透子はゆっくりと眠りの世界へ旅立っていった。