怪戦の狼煙
◆◆◆
その夜、仕事を終えた彼女はいつもの時間、いつもの道を通り、自身の暮らすアパートへの帰路に着いていた。
途中、背の低いビルとビルの間にある細い路地を通る。昼間ですら薄暗いその場所を、心許ない街灯が明滅しながら照らしている。
見通しは悪く、人気も無い。薄気味が悪く、一見すると歩く事すら困難に思えるその道を、しかし彼女は何の苦も無く進んで行く。
――それが、彼女の日常であったからだ。
若い女性の一人歩き。更に夜の遅い時間ともなれば、決して近付かないであろう場所。
だが、この路地は彼女の住むアパートと最寄の駅を結ぶ最短のルートであり、初めの頃は警戒していた彼女も、幾度となく通う内いつしか“慣れ”が生じていた。
その路地は入る前と抜けた先の両側が人の多い大通に挟まれ、距離も短い。足を踏み入れた所で、直ぐに反対側へと抜ける事ができる。
仮に、何らかの理由で抜け出す事ができなくとも、少し大きな声を上げれば、その声は表通りを歩く人々の耳に容易く届くことだろう。
その様な認識が、無意識に女性の油断を誘っていた事は間違いない。
だが“動く”事も、まして“声を出す”事も叶わなくなった今の彼女に、果して何が出来るのだろうか。
「ンーーー!! ンンーーーッ!?」
確かに油断はしていた――が、警戒を完全に怠っていた訳でも無い。
だがその日の彼女には、そんな甘い警戒心など軽く覆す程の脅威が、文字通りその身に“降り掛かって”きたのである。
“ソレ”は、前からでも後ろからでもなく、ましてビルに挟まれた左右からでもなく、彼女の頭上から“落ちて”きたのだ。
「ンンーー!! ンッ! ンーーーー!!」
“ソレ”はまるで投網の如く彼女の全身に覆い被さると、瞬く間に身体の自由を奪い、その頭部を一部の隙間無く包み込んでしまった。
頭の上から爪先まで一切の自由を奪われ、視界と聴覚を塞がれ、呼吸は吐く事も吸う事も許されない。
その突然の事態に、彼女の精神は極度の緊張とパニックを引き起こす。冷静な思考など最早できず、自分の身に何が起こっているのかなど理解できる筈もない。
「ンーー! ハッ……」
混乱の最中、肺に残っていた空気を一度だけ吐き出す事を許される。だが彼女には、その際に自身の頸部と胸部を圧迫された事実にすら気づけない。
己を襲った相手に命を請う事も、その目的を問う事もできず、彼女はただ混乱するままにその意識を手放した。
僅か、三十秒にも満たない間の出来事である。
全身の力が抜け、彼女の意識が途切れた事を確認し、“ソレ”はゆっくりと彼女を戒めから解く。
投げ出された四肢、裏返った眼球、口元と目元から零れた体液は細く筋を引いている。
そうして、彼女が完全に無力化された事を再度確認した後、“ソレ”は再び自身の体内に彼女を“取り込もう”と近付き――
「ッ!!」
――突如、横から襲われた衝撃によって“吹き飛ばされた”。
◆
その日の夜、“ソレ”はいつもの要領、いつもの手順に従って、己に課せられた“獲物”の捕獲に勤しんでいた。
事前に指定された地点に赴き、指定された獲物を生きたまま無傷で捕獲し、指定された地点へと連れ帰る。
本来であれば“ソレ”は、獲物の捕獲を目的に創り出されたモノではなかったが、命令とあらば如何なる任務にも対応するのが“ソレ”の存在意義であった。
しかし、獲物を“無傷”で捕らえるという行為は、それで存外難しい。
初めの頃は上手くいかず、拘束する際に獲物の体に傷を付けてしまったり、時には獲物自身が自らの体を傷つけてしまう事もあった。
だがそれも何度と繰り返すうち、今では当初の半分以下の労力と時間でもって獲物の意識を奪い、迅速かつ無傷での捕獲が可能となった。
任務の遂行はより確実なものと成り、獲物の捕獲手段も簡略化され、そして効率化されていく。
幾度となく繰り返される任務はやがて“作業”となり、“ソレ”にとっての日常となった。そして其処には、いつしか“慣れ”が生じ始めていた。
故に不足の事態は、突如として“ソレ”の身に襲い掛かる。獲物を捕獲するにあたり、警戒を怠っていた訳ではない――だが其処には、確かに“油断”があったのだ。
だからこそ“ソレ”は、己に向け放たれた衝撃の全てを、余す事なくその身に請け負う羽目と成った。
一つの轟音と一つの閃光によって放たれた衝撃は、一切の躊躇無く女性の傍らに立つ“ソレ”の身に喰らい付くと、“ソレ”を反対側のビルの壁へと叩き付ける。
吹き飛ばされた先は、先程から明滅を繰り返す外灯の下。
今迄、ただでさえ見通しが悪く、外灯の光すら届かない暗がりに身を潜めていた“ソレ”の姿が、今宵初めて弱々しくも確かな光の下に曝け出された。
“ソレ”は――“異形”であった。
壁へ叩き付けられた“ソレ”は軟体――いや、液体と言って良い程の不定形。
名状し難く、生命体と呼べるかどうかすら怪しく、あえて言うなら“アメーバ”や“粘菌”といった微生物の集合体の様にも見える。
だが“ソレ”はユックリと、しかし微生物とは到底思えない速度でもって一箇所に寄り集まると、まるで地面に零れた巨大な水銀の雫の様に、直径一メートル程の半球状へと姿を変えた。
明滅する街灯の明りに浮かぶ、黒の球体。
光の角度か加減のせいか、たまに身震いするかの如く波打つその表面は、時に緑色にも紫色にも、又は赤色にも青色にも見える光沢を放っている。
それは、一級品の宝石が放つ魅了の輝きであり、同時に見る者に生理的な嫌悪を抱かせる、なんとも矛盾した輝きであった。
不意に、黒い球体がその表面をブルリと波立たせる。すると、まるで水面に浮き上がる気泡のように、その内側から二つの紅い球体が姿を現した。
無論、それが何であるのかを知る者は、その場には黒い球体以外に在り得ない。
しかし、その赤い球体を実際に目撃した者は漠然と、しかし奇妙な確信を持ってその正体に気が付く事だろう。
紅い二つの球体が、“黒き異形”の“眼球”であるという、その事実に。
浮き上がったその二つの球体が、固定されたかの様に微動だにしないのは、その“眼球”がある一点を凝視しているが故。
吹き飛ばされる直前に、それまで己が立って居た地点――本来であれば、今の己が立っているべき獲物の隣に堂々と居座り、常に暗がりに身を置く事を心掛けてきた己の姿を、街灯という明りの下へと晒した忌々しき“ソレ”の姿を、“黒き異形”は観察する様に見詰めていた。
……いや、実際に観察していた。
“ソレ”は、倒れた女性の傍らにしゃがみ込むと、首筋に手を当てその脈と息を確認する。
脈が在る事を確認し立ち上がると、次に“ソレ”は“黒き異形”に向け、ゆっくりとその歩を進ませた。
ペタペタと鳴る足音、その手元で輝く“銀の光”を引き連れて、“ソレ”は“黒き異形”と同じく明滅する街灯の下に姿を現した。
“ソレ”は、“人型”であった――だが、唯一それ“だけ”が普通であった。
小柄な体躯。
身長は百三十センチ半ば。
季節外れ、それでいて全くサイズの合わない大き目のダウンジャケットに身を包み、深く被ったフードからは、その表情を窺い知る事はできない。
羽織ったジャケットの下からは、何も履いていない二本の素足が、まるでジャケットから生えるかの様に地面に向けて伸びている。
濃緑色のジャケットは汚れ、ほつれ、破け、肘辺りから千切れている右袖は、中身の羽毛が抜け切り完全にしぼんでいた。
その風貌は、幼年の浮浪者といって差し支えない。
まるで存在そのものが違和感の塊りの様な格好――故に、当然の如く疑念が湧く。
何故、この様な場所に。
何故、この様な子供が。
何故、この様な時間に。
何故、この様な格好で。
だが、そんな疑念も、そんな違和感も、全て纏めて吹き飛ばしてしまう程の“異常”が、その人物の右手に握られていた。
それは、矮小な体躯には似合わず、細い腕にはそぐわず、小さな手には明らかに不釣合いな“大口径回転式拳銃”。
研磨され、まるで鏡の様に磨き抜かれたその“銀色の拳銃”は、近くで点滅する街灯の明りをその身に受け、夜の光の全てを跳ね返している。
それは、邪を退ける“退魔の銀”か。
それは、闇を宿した“魔性の銀”か。
街灯に照らし出された“小柄な人物”の姿と、その右手に握られた“銀の拳銃”を確認した“黒き異形”は、その表面を一際大きく波打たせると、まるで立ち上がるかの様にその姿を変化させる。
二つの赤い眼球が押し上げられる様に上へと昇ると、異形は半球状だったその身を二メートル半程の柱状へと変化させ、滑らかだった自身の表面に極端な起伏を作り始める。
ある箇所はへこみ、ある箇所は盛り上がり、その黒い表面に幾つもの影を作り出す。
それはまるで、一流の彫刻家がたった一本の石柱から像を削り出すかの様に、“黒き異形”はその全身を、黒い外套で包んだ長身の人型へと変化させた。
“小柄な人物”と同様、頭部に当たる部分はフードによって深く覆われているも、その奥からは例の赤い二つの眼球が、未だ“小柄な人物”の姿を爛々と注視し続けている。
それは、フードを満たす暗闇に穿たれた、丸い二つの紅い孔。蝿やトンボの複眼にも似た、無機質かつ無感情な視線。
其処に在るのは、ただ見られているという事実のみ――しかし、だからこそその視線は、見られる側の狂気を強制的に掘り起こす。
常人ならば理性を失い、残った本能に突き動かされるままその場より逃げ出すか、理性と本能の両方を失い、一切の思考を放棄させその場に縛り付けてしまうであろう狂気の視線。
人の正気を犯すには、余りに過ぎる視線をその身に受け――しかし、次に“小柄な人物”がとった行動は、そのどちらにも当て嵌まらないモノだった。
“再装填”
“小柄な人物”の右手に握られた銀の銃が、中心からその身を縦二つに折り開くと、剥き出しに成った弾倉から空の薬莢が吐き出される。
僅かな硝煙を上げる薬莢が地面へと落ち、真鍮の高い落下音が路地に響く。
だが、吐き出された薬莢が地面と接する頃には、既に新たな弾丸が弾倉内へと込められ、次の発射に備えていた。
如何に“黒き異形”から狂気の視線を向けられようと、“小柄な人物”の手捌きには何ら淀む処がない。
この異様とも言える状況下に置いてその様な真似ができるのは、一重にこの“小柄な人物”もまた、“常人”の枠から掛け離れた“異常”で在るが故。
そして、空の薬莢が地面へ落ちると同時に“黒き異形”もまた、己に撃ち込まれた弾丸をその体内より吐き出した。
アスファルトに落ちた薬莢と弾丸、その数は共に六つずつ――そう、“六つ”である。
何らおかしな処は無い。本来、銃火器で放たれる弾薬は、“薬莢”と“弾頭”の二つがセットと成っている。
薬莢内に詰められた炸薬に点火する事で、その際に生じる燃焼ガスの圧力を利用し、先端に着いている弾頭が銃身から射出される仕組と成っているからだ。
因って、回転式拳銃を使用して“六つ”の弾頭が撃ち出されたのならば、その弾倉内部に“六つ”の空薬莢が残されるのは自明の理、至極当然の話である。
――しかし、だからこそこの人物は“異常”であった。
“小柄な人物”が撃ち出した弾丸は“六つ”。そして、弾倉から吐き出された薬莢も“六つ”である。
しかし先程の射撃の際、先程路地に響いた銃声と、闇を掃った閃光は、その数共に“一つ”ずつ。
撃ち出した“六つ”の弾丸に対し、その銃声と閃光はたったの“一つ”のみであった。
この矛盾した現象に解を出すとするのなら、それは即ちこの“小柄な人物”が、“六つ”の弾丸と共に撃ち出した銃声と閃光を、たった“一つ”に束ね上げる“早撃ち”を行なったからに他ならない。
確かに、ある種の“達人”と呼ばれる者達の中には、複数の射撃をもって一つの銃声とする者も存在する――だがそれも、精々が“二~三度”の射撃が限度である。
“六度”に及ぶ射撃の銃声を一つに束ねるなど、達人とはいえどうやっても真似の出来る技ではない。
それは、人間としての運動能力の限界であると同時に、単純に回転式拳銃の構造の限界で在るとも言えるからだ。
更にこの“小柄な人物”は、その矮小な体躯、か細い腕、大口径拳銃には不釣合いな小さな手でもって、人間としての限界も、そして回転式拳銃の構造という、本来ならば越えられない筈の限界すら超えて、その超高速の“六連射”をやって退けたのである。
最早それは、達人と呼ぶレベルではなく、そもそもが人間に可能な芸当であるかすら怪しい。
ソレこそが、この“小柄な人物”が“異常”で在る事の証拠。
ソレこそが、この“小柄な人物”が常人の枠を超えた一流――超一流の“射撃手”で在る事の何よりの証明。
明滅する街灯の下、常識とは余りに掛け離れた両者が向かい合う。
片や、視線に赤い狂気を宿す、常識から外れた“黒き異形”。
片や、右腕に銀の拳銃を従えた、常識を超えた“ガンスリンガー”。
不意に、大通りに挟まれている筈の路地に、完全な静寂が訪れる。
動く物は無くなり、明滅する街灯だけが時間の流れを知らせる中――先に動きを見せたのは“ガンスリンガー”の側であった。
銀色の銃口を下へ向けたまま、新たな弾丸が込められた弾倉の上に左親指を乗せると、それを勢い良く横に滑らせる。
音の無くなった路地内に、弾倉の回転音だけが奇妙に大きく響き渡る。
――それは、第二戦開幕までのドラムロール。
長く続く回転音から、その銃が余程丁寧に整備されていることが解る。音は淀みなく鳴り響き、まるで止まる瞬間を感じさせない。
ならば、このまま次戦の幕は上がらないのか……否。
開戦の狼煙そのものは、引鉄が引かれた時点で既に上がっている。
故にこの戦いは避けられず、だからこそ、シリンダの回転もいずれ止む。
それは、向かい合う両者共に理解している。
闇に隠された二対の眼球は未だ、お互い揺らぐ事無く相手の姿を捕らえて離さない。
暫くして、漸くシリンダの回転音に僅かな遅延が混ざり始める。
シリンダー特有の歯車の噛み合う音が、徐々にその間隔を広げて行く。
それはまるで、砂時計から落ちる砂粒の様に、蛇口から滴る雫の様に、頭の先端に錘を乗せたメトロノームの振り子の様に、ゆっくりと、その間隔を広げて行き……そして――
「「――ッ!!」」
刹那、夜の狭い路地内に、銃声と咆哮が響き渡った。
もはや常識という世界から切り離され、異界と化した路地から響くその音が、外側の大通りを歩く人々の耳に届く事はない。
夜の街の日常は、今日も崩れる事なく繰り返される。
……“ある一人”を除いて。