3歳~4歳(2)
異世界は、思った以上に異世界だった。
僕と母さんの向かう先にある丘の影からのっそりと大きな生き物が現れた。
「何、あれ」
僕は喜びの声で聞いていたに違いない。
サイとトリケラトプスを足して2で割ったような生き物がのそのそと四つの車輪が付いた籠車を引っ張っている。
籠車の前面が凹んでいて、そこに詰襟の制服を着た男性がすまして座っていた。
「あれはタテツノ。うしろに人が乗ってるのが分かるかい?」
母さんに言われて籠車を見ると、向かい合うように座る形なのかこっちの世界特有の色の後頭部が揺れている。
子供が僕たちに向けて手を振っていた。
「ああやって皆遠くの町からやってくるんだ」
タテツノは器用に地面の起伏を避けて、土煙をあげながら僕の住んでいる町の入口の方に向かっていく。
また、こんなこともあった。
すぐ傍を通った林の草群が揺れたと思ったら白いものがぴょんと飛び出した。
うさぎの耳だった。
クリクリとした赤い瞳と目があった。
何か食べているのかモソモソと動く膨らむほっぺたが可愛い。
もう少し近くで見たいと思っていると、通じたのかうさぎは小首を傾げながら僕の様子を伺ってから、ぴょーん、と。
ベシン。
うさぎは飛んだ。
僕に向かって真っ直ぐに。
そして母さんがいつの間にか持っていた棍棒が恐ろしい速度で振られ、うさぎが飛んだ、仰向けに。
うさぎさーーーーん。
僕の癒しに対して行われた鬼畜の所業に頭の処理が追いつかずあうあうと母さんを見ると、僕の言いたいことがわかってるのか憮然とした表情をしていた。
その時、草群が音を立てて揺れた。
白い塊が飛んでいた。
違う、さっきのうさぎの仲間達が幹や枝を地面と並行になって、またあるうさぎは逆さまになって蹴り、一切地に足を着けることなく本当に飛ぶように逃げていった。
「ちょっとここを見てみ、ラカス」
母さんが手にした棍棒で茂みをかき分けると、そこには30cmほどの間隔に輪切りにされた幹と切り口が新しい切り株が残されていた。
大人が腰掛けられるような切り株には、まるで開封したてのピーナツバターに指2本を突っ込んだような抉れた痕がある。
「あれはトビウサギっていって、あの外見だけど、ラカスの腕ぐらいなら楽々喰いちぎるからね」
そう言われ、マジマジと自分の腕と輪切りの胡瓜のようにされた幹を比べ、うん、癒しより命が大事。
「ああいう野生の動物もそうだし、人間もそう。外見で判断したら痛い目にあうから、気を付けるんだよ」
「はーい」
そんな感じで着いたのは本当に村という感じの村だった。
なだらかな丘に円を描くように中心部に住宅が密集し、周囲を畑がぐるっと取り囲む。
そのせいであの臭いニーヴン草を二回も嗅ぐ羽目になった。
母さんは馬達に鼻を覆う筒のようなものを着けてから村に入った。
村に入ると母さんは何度も来ているのかすぐに人が寄ってきて、あっという間に僕に目が向けられた。
村の人、特に奥さん連中は口々に、息子さんかいお母さん似だねと言ってきて、母さんが下の息子だと紹介しているのを聞いてるうちになんか嫌になってしまい、馬から下ろされると僕はすぐに、この村を少し見てくるとその場を逃げた。
母さんは無理に止めようとせず、迷惑にならないようにするんだよとだけ言って大人達の方に行ってしまった。
なんとも言えない不快感があった。
母さんと僕の間に異世界があった道中はこんな気持ちにならなかった。
それが普通の母子として並ばせられると、いつもお仕着せられた強制力みたいなものが居心地の悪さを用意した。
それでまぁ、母さんが帰る寸前に行けば良いやと思っていたのだけど、見るべき場所なんてあるわけ無く、すんなり一周出来てしまった。
さてどうしようかと思っていると、子供達が遊んでいるのが目に入った。
仲間に入れてもらおうと考えた。
最近家の近くの子供達と遊ぶようになって、昔のことをおぼろげに思い出してきた。
いつの時代でも仲間に入れ甲斐が無い子供というのはいる。
例えば、入れて欲しいのか欲しくないのかはっきりしないやつとか、最初にルールを説明しても聞いてなくて流れを止めるやつとか、ルールが気に入らないとイチャモンつけるやつとか。
そんなやつを持て余すのはどこの世界でも共通だった。
それをしないようにするだけで最初のきっかけは大体いける。
あとは、最初から姑息な手段を使わない。
年下を狙うとか、裏切りなどのトリックプレーの類だとか。
この辺は笑いに出来る自信があるならやると盛り上がるけど、僕にはそういうセンスが無い。
幸い足が速いことを分かっていたのでそれをアピールしてみると、どこにもかけっこ自慢というのはいるもので二三回鬼ごっこを終えた時には拳を交えた番長同士のような友情が芽生えた。
そして僕をたまに馬を貸しに来る女の人の息子だと知ると、子供達はよほど母さんのことを慕っているのか僕にこんなことを言ってきた。
「誰にも言わないなら、俺らの秘密を教えてやるよ」
こう聞かれたらほとんどの人はとりあえず頷くはずだと思う。
ご多分に漏れず僕もそうした。
「ついてこいよ」
何人かの男の子が歩き出すのについて行こうとすると、一緒にいた女の子達もついてこようとする。
で、女は来るな、じゃあお父さんに言いつけるから的なひと悶着を終え、結局皆で行くことになり、着いたのは村の裏手にある畑のさらに奥にあるそんなに古くない小屋だった。
しかも裏手の畑にはずっと誰か大人がいるというのでこっそりと横から畑の外に出て回った。
それも僕達が村を出たのと反対側の斜面の畑を今回参加しない子供が筵で滑り降りて大人達の注意を引くという念の入れようだった。
でも、その理由が着いてから解った。
ニーヴン草の臭いに囲まれた小屋には鍵が掛かっていた。
それを無視して裏に回り小屋の下の方の板を触ると、釘によって留められているように見えた板には釘がキチンと刺さっておらず、子供が入るには十分な隙間が生まれた。
小屋の内部は床板が無く、下は地面そのままになっていた。
本来の入口から入ってすぐの地面が急に大人の胸ぐらいまで盛り上がり、少しずつなだらかに下がっていって小屋の奥行一杯で元の高さに戻っている。
その高さの変化に併せて内側をくり抜くように地下への道がある。
大人だったら四つん這いにならないと入れないほどの狭さだ。
壁を触るとコンクリートのような手触りがした。
爪で引っ掻いてみたけど、ほんの欠片も落ちないほどカチカチに固まっていた。
「どうだ。小さいけど迷宮だぜ」
宮という響きから連想するような洒落た門などない。
しかし神話に出てくるような大巨人が気まぐれに地面に腕を突っ込み持ち上げただけのような簡素さが土着的な神秘性を生み、逆に人間の手が入っていない証明のように映った。
案内した子がどうやって見つけたかを話していたけど、それはどうでも良い。
「入れるの?」
僕が聞くと、待ってましたと言わんばかりに自ら入ってみせた。
中腰でこっちを見ている姿に特に何か危険がある訳でもなさそうなので、僕も続いて入る。
ズンと地面が下がった。
そんな感じがしたが、そんな訳は無い。
たった一歩入っただけだし、先に入った子と外にいた僕とで足の高さはそう変わらないはずだった。
にも関わらず、まるでエレベーターで降りていくときのように足裏がどこまでも沈んでいくのをずっと感じているような気持ち悪さがある。
他にも、タバコの煙のような軽い気体がゆっくり動いているのが外との光量の違いで分かる。
「な、面白いだろ」
となりに立つ先に入った子の声が浴室で聞いたかのように震えて揺れて聞こえた。
他の子も入りたいと言うので代わる代わる入ることにした。
地面に立つと、如何に地面というのはしっかりしているのかと実感する。
その後、みんなが入り終わり、興奮冷めやらぬなか今がチャンスと最初にこの秘密を発見した子がその冒険と初めて迷宮に入ったときのことを話し出した。
ここにいる皆が皆、それを後追いながら体験したばかりである。
話に聞き入った。
だから、それははっきりと偶然だった。
ここを見つけるために追跡されたおじさんの形態模写をして皆が笑っていた。
僕はこの村のことをほぼ知らない。
なので、人物名を出されても分からず、かと言って水を差すのも悪いと説明を求めず、なんとなく話に入れずに持て余した僕はなんとなく迷宮の入口を見た。
小さな黄色い瞳と目があった。
とっさに浮かんだのは、トビウサギの赤い瞳だった。
危ない、と思ったが声は出なかった。
ただ迷宮の真ん前にいた誰かを押すのが精一杯だった。
掌から押した誰かの感触が消えるのと腿に熱さを感じたのはどっちが早かったのか。
僕の右足にバレーボールくらいのネズミが前歯を使ってぶら下がっていた。
咄嗟にネズミの後頭部のあたりを押さえたのは大型犬に噛まれた時などに無理に引っ張ると喰いちぎられる恐れがあると、何かで聞いたことがあったからだった。
現状を認識すると、急に右足に力が入らなくなる。
立っていられなくなった僕はネズミの重さもあって右半身から倒れ込む形になった。
衝撃でネズミの歯が傷口の中で回転し、内側から押し広げる。
ただ痛みから逃げるためだけの声が喉の奥から次から次へと出た。
なんとかしたくてネズミを押さえた右手を捻るように自分の腿に押し付けると、枝を折るような感覚を感じ急に手応えが軽くなった。
見ると手の中のネズミの頭と僕の下敷きになった胴体は正反対を向いており、首の皮がブランと垂れ下がっていた。
顎の力が抜けたせいか、下顎はそのまま抜け上顎も持ち上げると簡単に抜けた。
その代わり歯の抜けた穴から赤いものが確実に流れ出し、ズボンを赤黒く染めていった。
その光景はネズミの時よりもはっきりと命の危機を感じさせた。
すぐに上着を脱ぐと腿の付け根をきつく縛り、近くにいた男の子の上着を脱がせて傷口に当て、上から押すように言った。
それぐらいしか浮かぶ手立てが無かった。
周囲では、大人を呼んでくるように叫んでいる。
やることが無くなると急に気持ち悪くなった。
体をひねるようにして吐くと、吐くにはかなり体力がいるようで、吐ききった途端に今度は虚脱感に襲われた。
眠い。
周りの声が五月蝿い。
頭が痛い。
足が痛い。
喉が痛い。
胃がグルグルする。
気持ちの良い睡魔が襲ってくる。
寝ない方が良いんだろうなと思いつつ、痛みから逃げたくてそのまま意識を手放した。