とある使用人の平凡だった日々(2)
ハルがこの屋敷に来てから五日が経ったけど、彼女の方向音痴は一向に落ち着く気配がなかった。そろそろ屋敷内の部屋の位置なんかを覚えてもらいたいけど、ハルは方向音痴を加速させて毎日迷子になっている。
「あ、いた! ハルってばどこに行ってたのよ」
「ごめんなさい、オリビアさん。ちょっと迷ってて」
「もう、しっかりしてよ。……って、手に何持ってるの?」
掃除に行ったはずなのに迷子になって戻ってきたハルは、片手に雑巾の入ったバケツを持ったままだったが、もう片方の手には紙の包みを持っていた。
「これ、お菓子です。料理長さんにもらったんです。アリサとオリビアさんと三人で食べましょう!」
ハルは包みを掲げて嬉しそうに笑った。彼女はあまり人見知りしないようで、迷子になるたび色んな人に声をかけて仲良くなっているようだ。
私はお菓子をもらったハルの喜びように笑いをこぼし、でも次にはため息をついて言った。
「はいはい、でもお菓子は休憩の時にね。今は掃除よ」
私はお菓子を預かると、ハルとアリサを連れて屋敷の二階へと上がる。
「この階にはご領主様一家の寝室や私室があるから、掃除もいつも以上に丁寧にね。まずは廊下の掃除から始めるわよ」
そうして三人で掃除を始め、三十分ほど経った時だった。
奥の部屋からご領主様の孫娘――リゼル様が侍女三人を伴なって現れたのだ。リゼル様はハルと同じ歳で、どちらかと言うと綺麗系の顔立ちをしている。だけど少しつり目気味かな。髪はつややかな黒い巻き毛だ。
私が廊下の端に寄って頭を下げると、ハルとアリサもそれに習った。リゼル様はそのまま通り過ぎていくかと思ったけど……
「あら? 見ない顔ね」
ハルとアリサの顔を覗き込むようにして首を傾げ、その場で立ち止まった。
私は密かに苦い顔をした後、二人の事を新しく入った使用人だと説明する。
「へぇ、そうなの。顔を上げて、よく見せて」
ハルはきょとんとして、アリサは緊張気味に顔を上げた。リゼル様は笑みを深めて言う。
「二人ともよろしくね。……ああ、そうだわ。ちょうどお祖父様のコレクション部屋の整理を頼もうと思っていたところなのよ。今からやってくれる? こっちよ」
リゼル様はそう言うと、強引に私たちをコレクション部屋へと連れて行った。だけどあの表情は何か良からぬ事を思いついた顔だと思って、私は小さくため息をつく。
実はうちの使用人が長続きしないのは、ご領主様が厳しいからというだけじゃない。むしろ主な原因はこのリゼル様だ。
暴言を吐いたり暴力を振るったりという事はしないんだけど、リゼル様は立場の弱い使用人を侍女たちと一緒にからかったり笑い者にしたりするのが好きなのだ。その悪趣味のせいで使用人が辞めていってしまう。
私も何度か標的になったけど、あまり酷いことはされなかったから辞めるまでには至ってない。でも若くて気弱な子は傷ついてしまうのだ。
今日は一体何をするつもりなのかと戦々恐々としながら、リゼル様の後をついて行く。
着いたのは、ご領主様が長年かけて集めたコレクションが雑多に置かれている物置のような部屋だ。
ご領主様は時計だったり絵画だったり壺だったり、様々な芸術品を集めるコレクターだけど、この部屋にあるものはそれほど大事なものじゃないらしい。私たちでも掃除のために入っていいと言われているし、価値のあるコレクションは鍵付きの別の部屋に大事に飾ってあるから。
「すごくたくさんありますね」
「ご領主様は収集家なのよ。何でも集めるのが好きなの」
ハルの呟きに、私も小さな声で返す。
「見てよ、これ。この前見つけたのよ」
一方、リゼル様は物が山のように積み重なっているところから、一つのマスクを取り出した。熊の生首みたいな、ちょっと気味の悪いマスクだ。
「面白いでしょ。本物の熊の毛皮でできているみたい。お祖父様ったら何でこんなもの買ったのかしら」
汚いものを触るように指でマスクを摘みながら、リゼル様はけらけらと笑う。
そうしてそのマスクをハルに向かって放ると、こう言った。
「ね、それ被ってみてよ」
「な……!」
絶句したのはアリサだった。確かに獣のマスクを被るなんて屈辱的だし、本物の熊の毛皮って言われると気持ち悪い。
「これを?」
だけどハルは不思議そうにマスクとリゼル様を見て、首を傾げた。そんな事させて何がしたいんだろうと思っているのかもしれない。
「別にいいですけど」
「ハル、私が代わりに……!」
アリサは止めたけど、ハルはその助け舟に乗ることなくマスクを頭から被ってみせた。
「やだ! あはははっ!」
使用人の格好をした熊が立っているみたいで、ハルの姿はおかしくて奇妙だった。リゼル様も侍女たちも涙を流して笑っている。
「本当に被ったわ!」
「ああ、おかしい」
本当に意地が悪いなぁと思う。貴族って暇だからこんな事ばかり思いつくのかしら。
そんな事を考えながら、私はハルを哀れに思った。今頃マスクの下で顔を真っ赤にしているだろう。
ふとアリサの方を見ると、ぎりぎりと歯を噛み締めて顔を歪ませ、リゼル様たちを睨んでいたので、私はぎょっとしてしまった。いくらなんでも怒り過ぎじゃない?
今にもリゼル様たちに殴りかかりそうだったので、私は思わずアリサの腕を掴んで引き止める。
「あははは」
リゼル様たちはしばらく笑い続けていたけれど、だんだん飽きて声も小さくなってきた。
そしてハルがマスクを被ったまま微動だにしていないのに気づき、息をのむ。いつの間にか部屋は水を打ったように静かになっていた。
頭部がリアルな熊の人間って、改めて見るとちょっと怖いかも。笑いと恐怖は紙一重と言うか……。
「ハ、ハル?」
私も思わず確認するように尋ねてしまった。中身はハルで間違いないはずなのに、違う人が入っているんじゃないかという疑念が浮かんできてしまう。
するとハルはリゼル様たちに向かってこもった声を出した。
「もう取ってもいいですか?」
「い、いいわよ……」
リゼル様はすっかり笑みを消して答えた。
ハルはマスクを取ると、乱れた髪を直すこともなく、リゼル様に温度のない瞳を向けて言う。
「面白かったですか?」
口元は少し笑っているふうなのに、どうしてハルにこんなに圧迫感を感じるんだろう。部屋の空気がひんやりと冷えていく気がして、私は身じろぎもできなかった。
リゼル様もハルに気圧されつつ、何とか答える。
「え、ええ……面白かったわ。でも、やっぱりここの掃除はいいわ……。あなたたちは廊下に戻って」
「分かりました。行きましょう、オリビアさん、アリサ」
「あ……うん。リゼル様、失礼します」
ハルに促されて、私は慌ててリゼル様に礼をした。だけどハルとアリサは頭を下げる事なく部屋を出て行く。リゼル様は怒るかと思ったけど、結局何も言わなかった。
「あの人、私の事を笑うためにマスクを被らせたんだね。笑われてから気づいたよ」
廊下に戻ると、ハルはぷくっと頬を膨らませてアリサに言った。もう威圧感はなくなっていて、いつも通りののほほんとしたハルだ。さっきの異様な雰囲気はなんだったのか。
「許せません」
一方、アリサはまだ眉を吊り上げて怒っている。なんでハルに丁寧語を使ってるんだろ。
「リゼル様はああいう方なのよ、気にしない方がいいわ。それより早く掃除を終わらせて休憩しましょ。ハルのもらってきたお菓子が待ってるわ」
「そうだった! わーい!」
ハルははしゃいで水のたっぷり入ったバケツに足をぶつけ、「ぐっ……」と唸ってうずくまったのだった。
その後、掃除を終わらせて休憩に入ろうとしたところで、ベルが外を歩いているのが見えた。今日も地下室にいる大奥様のお世話をして帰るところなのだろう、小さい荷車を引いて門の方へ向かっている。
「あ、あの人!」
ハルも窓の外のベルを見つけて声を上げた。かと思うと、一目散に廊下を走って階段を降りていく。
「ハル?」
廊下は走っちゃ駄目よと注意しようとした時には、彼女はもう一階に降りていたようだった。結構素早い。
そして玄関から外に出ると、ベルの後を追って彼に声をかけている。
窓からその様子は見えるけど、何を話しているのかは分からない。
「ハルってば、ベルに話しかけるなんて勇気あるわね。でも何の用かしら?」
首を傾げる私の隣で、アリサも心配そうに窓を覗き込んでいた。
ハルは人懐っこくベルに喋りかけているけど、ベルはそっけない態度で首を横に振り、そのまま門の外に出ていってしまった。ハルは残念そうな顔をして屋敷の中に戻ってくる。
「急に走り出すからびっくりしたわ。一体ベルに何の用事があったの?」
帰ってきたハルにそう問いかけると、ハルはふにゃりと笑って答えた。
「私たちこれから休憩だし、お菓子もあるしと思って、ベルさんの事もお茶に誘ってみたんです。でも断られました」
「ベルをお茶に!? ハルってば何を考えてるの? お酒ならまだしも、あんな悪そうな男が私たちと一緒にお菓子とお茶を楽しむわけないでしょ」
私の言葉に、ハルは「そっかぁ、残念……」と肩を落としたのだった。




