9
ハルはドラニアスの皇帝になどなるつもりはなかった。
普通に考えて無理だと思う。いくら父親が前皇帝とはいえ、自分はずっと人間として生きてきた訳で。
帝国のことは全然知らないし、半分人間の血が流れてるし、ただの下女だし、人の上に立つ器じゃないし、クロナギみたく強くないし、ただの下女だし。
「だいたい私が唯一の帝位継承者ってどういうこと? 父には……あるいは父の兄弟とかには、他に子どもがいないの?」
ハルはベッドに座って、端っこで寝ているラッチを撫でながら聞いた。
クロナギが答える。
「エドモンド様にもハル様にもご兄弟はおられません。無駄な相続争いを生まないために、皇帝は子どもを一人しか持たないことになっていますので」
「ほんとに? でも、それってすごく危ういね。そのたった一人の子どもが死んじゃったら、血統は途絶えちゃうんでしょ」
「そうですね。しかし竜人の子は、人間の子ほど簡単に死んだりはしないのです」
クロナギがほほ笑む。彼の笑い方はかなり控えめだ。歯を見せて大笑いしたことなんてなさそうである。
「ケガをしてもすぐに治りますし、病気にかかって死ぬ事もまずありません。外敵からは、竜騎士や戦闘訓練を積んだ侍女がお守りいたしますし」
“戦闘訓練を積んだ侍女”ってなに?
ハルは心の中でつっこんだ。自分の知ってる侍女と違う……。
なんにせよ、ドラニアスの帝位継承権を持つのは自分一人で間違いないという事だ。非常に残念である。
「私は父の跡を継がないからね」
ハルが念を押すように言うが、クロナギも引かない。
「皇帝不在の今のドラニアスには、どうしてもハル様が必要です」
「そこまで血筋にこだわる必要ないじゃない。私なんかより、誰か優秀な人格者を皇帝に据えれば……」
「ハル様、ドラニアスの皇帝は人間の国王とは違うのです。国民の思い入れが違う」
嗜めるようにクロナギが言う。
「我々竜人は、皇帝一族を心から敬愛しています。我々の存在意義は彼らを守る事であると言ってもいい。ドラニアスには、人間たちが信仰しているような宗教はありません。神より、皇帝陛下の方が大事だからです」
彼の声には熱がこもっていた。まるで『どれだけ自分たちが皇帝一族を愛しているか解ってほしい』と言われているようで、ハルはちょっと面映くなる。
クロナギは説明を続けた。
「皇帝という存在は国民の心のよりどころ。しかし一年前にエドモンド様が亡くなられた時から、我々は母を失った子のごとく、深い悲しみから抜け出せずにいます。皇帝という支柱を失い、国民の心はバラバラになりつつある。元々協調性のある国民性ではありませんから」
ハルは自分の身を守るようにして、のほほんと寝ているラッチを胸に抱きしめた。
困ったように首を振る。
「無理だよ。ドラニアスの国民にとって皇帝がそれほど大事な存在なら、なおさら私には無理。ほんと、そんな器じゃないんだって。だいたいこんな平凡な皇帝がいると思う? 私って竜人の血を引いてるくせに強くないし、ちびだし、容姿だって地味だし……」
ぐちぐちと呟くと、クロナギはくっと口の端を上げた。
ハルが唇をつんと尖らせて睨む。
「あ、今笑ったでしょ! やっぱりクロナギもそう思ってるんだ」
「違いますよ。ただ、エドモンド様と同じような事をおっしゃっているのでおかしかっただけです」
「同じような事?」
「ええ、そうです。我々はエドモンド様を平凡だと思った事はありませんが、ご本人は時折自虐的におっしゃっていましたよ。『俺はお前たちと違って地味だから』とか、『ちびで弱いから』とか」
「そうなんだ」
というかやっぱり、私は父似だったのか。
自分と同じように平凡な男が、最強な竜人たちに囲まれて皇帝をやっている姿を想像し、ハルは少し笑ってしまった。
胸に抱かれていたラッチがぱちぱちと目を覚ます。
クロナギは言った。
「しかし一般的な竜人に比べて身長や戦闘能力が低い事は、皇帝一族ならば当たり前の事なのです。戦うのは我々の仕事で、ハル様たちは守られる立場ですから。運動能力などは人間並みで十分ですし、大きな体も鎧のような筋肉も必要ないのです」
「ふぅん」
なんとなく意外だった。
竜の国の皇帝といえば、竜人の中でも一番強い、戦闘神みたいな筋肉男を想像していたから。
けれど現実では、皇帝は竜の国一弱い人物らしい。
「でもそれで納得した。私って半分竜人の血が入ってるにしては普通だなぁと思ってたから」
ハルは顔を舐めようとしてくるラッチの長い舌を避けながら言った。唾液でベタベタになるのは嫌だ。
つまり自分には、飛び抜けた戦闘能力も運動神経も腕力も無いらしい。それはちょっと残念だった。魔獣を一発で倒せたり、風のように速く走れたりしたらかっこいいのに。
竜人の血を引いているという事実に思い当たる節があるとすれば、風邪を含め、今まで一度も病気をした経験がないという事と、人よりちょっとだけ視力がいいかもという事くらい。
ケガの治りも早いような気がするけど、ただの気のせいのような気もする。他人のケガの治り具合を観察して自分と比べたことなんてないから、正直よく分からない。
どうしても顔を舐めようとしてくるラッチとの攻防を繰り広げながら、ハルは聞いた。
「クロナギは私に皇帝になってほしいの?」
「もちろんです。ハル様にしかその資格はない」
「なら、他の人は? クロナギ以外の他の竜人たちは、私の事をどう思って……ぐむっ」
ラッチにべろりと口元を舐められて、ハルの言葉は中途半端に途切れた。
けれどしっかり質問の内容を理解したクロナギは、ハルからラッチを引きはがしつつ答える。
「他の者はまだハル様の存在を知りません。皆、エドモンド様に子どもはいないと思っておりますので」
翼を掴まれ、ハルから離されたラッチは、クロナギに向かってぎゃあぎゃあと抗議の声を上げた。
クロナギは知らんぷりで話を続ける。
「『お迎えに上がりました』と申し上げたものの、実は私もハル様の存在を分かった上でここに来た訳ではないのです。本当はハル様の母上であるフレア様を探して、彼女の出身国であるこの国にやって来たのです」
抗議が聞き入れられないと分かると、ラッチは今度はハルに向かってきゅんきゅんと悲しげに鳴いた。
思わず手を差し出したハルだが、クロナギが「甘やかしてはいけません」というように手で制する。
「フレア様の消息を辿ってこの領主の屋敷までやって来ましたが、彼女はすでにこの世にはいませんでした。しかし代わりに貴方の存在を知った。その緑金の瞳を確認せずとも、一目見てハル様がエドモンド様の御子であることは分かりました」
「母にも言われてたけど、そんなに似てるんだ」
「ええ、そっくりです。もちろん女性であるハル様の方が愛らしいですが」
さらりと付け加えられた言葉にハルは少し照れた。ただの社交辞令だと自分に言い聞かせる。ラッチはまだ鳴いていた。
「でもじゃあ、私の存在を知ったドラニアスの竜人たちがどういう反応をするかは、まだ分からないんだね」
「皆、喜ぶと思いますよ。途絶えたと思っていた皇帝の血が繋がっていたのですから」
「でも、私の半分は人間だよ」
暗い部屋の中で、ハルの瞳の金色が凛と光った。
ラッチは鳴くのをやめ、彼女のその瞳に目を奪われている。
一瞬、クロナギにはハルがとても大人びて見えた。
「そこにひっかかる竜人は多いはず。先代皇帝は人間に殺されてるんだから、人間を憎んでいる竜人も多いよね。そんな彼らが、人間として育った混血の私を皇帝として認めるとは思えない。クロナギが私を推しても、反対する人はいっぱいいそうだけど」
その推察にクロナギは沈黙する事しかできなかった。確かに今、帝国内には人間に対する敵意が溢れている。ハルが皇帝になることについて反対する者など誰もいないとは、彼は言えなかった。
ハルの言う通り、反対する者も多いだろう。しかし――
「確かにハル様のおっしゃる通りです。混血の皇帝に、最初は反発する者もいるかもしれません。しかしハル様の事をよく知れば、皆貴方を認めずにはいられないはずです。貴方の中には確かに皇帝の血が流れている。私はそれを強く感じていますし、帝国にいる竜人たちもきっと気づく」
そう言ったクロナギの声には、はっきりとした自信が滲んでいた。
彼は思う。ハルは自分の事を平凡だと言うが、とんでもない。
彼女はただの少女ではない。
ハルはため息をつくと、ベッドに腰掛けていた状態から後ろへ倒れた。小さな体が柔らかなマットに沈む。
「ほんとかなぁ。皆が皆、私の事認めてくれるとは思えないけど……。反対派の人の中にはさ、私の命を狙ってくる人もいるかもしれないし」
ハルの声は先ほどとは違って弱々しかった。大人びた雰囲気も今は消えている。
たっぷりの沈黙の後でクロナギは答えた。
「…………いえ、それはないかと」
「なに今の間? 私の命を狙ってきそうな人について、心当たりがあるんだ? そうなんだね!?」
「ハル様、もうそろそろお休みにならないと……」
「わかりやすく話をそらさないでよー」
そんな危険がつきまとうなら、なおさら皇帝になんてなりたくない。
わぁわぁと騒ぐハルと、それに便乗して騒ぐラッチを、クロナギは「とにかく今日はもうお休みに」と、無理矢理ベッドに押し込んだ。