12
「ハル様」
ハルがソファーでラッチを撫でていると、アナリアが部屋に入ってきた。侍女たちは寝室で就寝の準備を整えてくれていて、こちらの部屋にはいない。今日はいい香りのするお香を焚いてくれるらしい。
「アナリア、どうしたの?」
「クロナギと入れ替わりで来ました」
アナリアはそう答えた後、ハルの側で膝をついて、困惑気味にそっと尋ねてきた。
「ハル様、クロナギに何をおっしゃったんです?」
アナリアはただただ戸惑っている。クロナギの様子がそんなに酷かったのだろうか。
「クロナギ、大丈夫だった?」
「いえ、あまり大丈夫ではないかと……」
ハルは少し考えた後で、眉を下げてアナリアに正直に打ち明けた。
「婚約者の話をクロナギとしてて、それでクロナギに『俺を選んでください』って言われたんだけど、私、断ったの」
想定外の事をハルが言ったかのように、アナリアは目を見開く。
ハルは続ける。
「そしたらクロナギ、固まっちゃって。凍りついたっていうのかな。しばらく動かなかったんだけど、侍女たちが部屋に入ってきたからハッとして、『少し時間をください。立て直してきます……』って言いながら出て行っちゃった」
「そうでしたか……」
アナリアはそう言いながら、頭痛がするかのように片手で頭を抱えていた。
「でもハル様、どうしてクロナギを選ばれないのですか? 確かにクロナギが今ハル様に抱いている想いも、ハル様がクロナギに抱いている想いも、『恋』とは少し違うのかもしれません。けれどお互いに、他の誰よりも相手の事を大切にしてらっしゃるように見えます」
「だからだよ」
ハルはラッチの頭を撫でながら、下を向いたまま言った。
「クロナギから大事にされてるのは分かってるし、私もクロナギが大切だから選ばないの。だって、クロナギを婚約者に選んでいずれ結婚する事になったら、私はクロナギの主人でありながら妻にもなるんだよ」
「それの何がいけないのです?」
困惑したままのアナリアに、ハルは続ける。
「考えてみてよ。もし私が人間と同じだけしか生きられないとしたら……クロナギは私が死んだ時、主人と妻を一度に失う事になるんだよ」
ちらりとアナリアを見た後で、ハルはまた視線を下げて呟いた。
「そんなの、可哀想だよ」
「ハル様……」
アナリアがハルの手をぎゅっと握ってくる。
「もし私が竜人と同じだけ生きられるとしても、混血だから竜人ほど丈夫じゃないし、途中で病気か何かで死んじゃう可能性もあるし……」
もしそんな事になったら、クロナギは自分の後を追ってきてしまいそうだ。
だからクロナギには、ちゃんとした竜人の伴侶を作ってもらいたい。そうすれば今ハルにだけ注がれている愛情は二つに分散するので、たとえハルが死んだとしても、伴侶に支えられてクロナギは生きる事ができるだろう。
「なんか、父さまとの別れを選んだ母さまの気持ちが分かるよ。お互いに好きならずっと一緒にいればいいのにと思った事もあるけど、相手の本当の幸せって何だろうって考えたら、クロナギには私よりふさわしい人がいるんじゃないかと思っちゃう」
アナリアは眉根を寄せて、納得していなさそうな顔で話を聞いている。
「たとえばアナリアみたいに信頼できる人がクロナギと一緒になってくれれば安心だけど、でもアナリアはオルガが好きだから駄目だね」
ハルはそこで少し笑みをこぼした。
突然自分の話になったので、アナリアは微妙に動揺しながら頬を染めてそっぽを向く。
「私がオルガを好きなのではなく、オルガが私を好きなのです」
アナリアの分かりやすい照れ隠しにハルが笑っていると、キッと睨まれてしまった。
「私の話はいいんです。今はハル様の話です」
そう言って話を戻すと、真剣な顔をして続ける。
「ハル様、もう少し考えてみてください。クロナギはハル様の前では謙虚にしていますが、本当はかなり自信家なんですよ。婚約者の問題にしても、きっと自分が選ばれるだろうと思っていたと思いますし、自分が一番ハル様にふさわしいと思っているはずです」
「うん……」
「それが、さっきクロナギを見た時にはその自信を打ち砕かれて……ちょっといい気味なんですけど、でもやはり幼なじみとしては、クロナギにはいつものクロナギでいてほしいのです。クロナギの幸せを、とおっしゃるのなら、どうか彼をずっと隣においてやってください。護衛としてだけではなく、生涯の伴侶として」
ハルはまだ十四歳で恋もした事がないし、どの選択が一番正しいのかは分からなかった。クロナギを選ばない事が正しいと思ったけれど、アナリアに説得されるとやはり自分の選択は間違っていたのではないかと思う。でもやはり自信を持ってクロナギを選ぶ事もできない。
例えば自分が八十歳で死んだ時、主人と伴侶を同時に失ったクロナギが、深い悲しみに沈んで浮き上がってこないという姿が想像できてしまうのだ。
「やっぱりクロナギは選べないよ」
「今すぐ結論を出さないでください。まだまだ時間はあります」
「うん……。ゆっくり考える」
そこで侍女たちが就寝の準備が整ったとハルを呼びに来たので、ハルは物思いにふけりながら、ラッチを抱えて寝室に向かったのだった。
「おはよう……」
「おはようございます」
翌朝、ハルは色々と考えてしまってあまりよく眠れなかったが、クロナギは意外にも通常通り落ち着いた様子だった。
一晩で急激にやつれていたらどうしようかと思ったが、大丈夫そうなのでハルはホッとする。上手く気持ちを立て直せたようだ。
(これなら私が他の人を婚約者に選んでも平気そうかな。よかった)
と思ったのもつかの間、足にじゃれついてきたラッチにつまづいてクロナギは無様に転んでいた。転ぶクロナギなんて初めて見る。
ラッチにじゃれつかれるのも初めてではないし、いつもはさらりと避けたり上手くかわしたりしていたのだが……。
「だ、大丈夫?」
あわあわと声をかける。
クロナギはゆらりと起き上がって、「大丈夫です」と言いながら今度は後ろの椅子にぶつかっていた。
(あ、駄目だこれ……)
ハルはクロナギを見て思った。
表情は普通だし――いつもより多少無表情だが――、一見いつもと変わらないように見えるが、全く気持ちを立て直せていなかったようだ。
ハルに振られたダメージが、見えないところでクロナギを駄目にしている。
部屋にいたアナリアはまた片手で頭を抱え、ソルは少し目を見開いて珍しいものを見るかのようにクロナギを凝視している。侍女たちもかなり戸惑っている様子だ。
今日はオルガは午前中休みなので、爆笑されて散々いじられずに済んでいるだけマシだろうが、午後が怖い。
朝食を食べ終わると、午前は魔術の練習をして過ごした。サイファンが来て先生になってくれたのだ。
サイファンと一緒に来たレオルザークは、クロナギやアナリア、ソルたちと一緒に見学している。
レオルザークはハルが魔術の練習をする事に反対なようだったが――一度右手がボロボロになったので心配なようだ――せっかく覚えた魔術を忘れたくない。
今は杖の先に光を灯す術を教えてもらっている。
「ますは呪文を覚えましょうか。そんなに長くないので簡単ですよ」
「うん……」
せっかくサイファンが教えてくれているのだが、ハルはクロナギの様子が気になって気もそぞろだった。
クロナギは今、椅子に座っているレオルザークの隣で、一点を見たままじっと立っている。視線の先は床の絨毯だが、おそらくクロナギは絨毯の模様を見ているのではないだろう。
何か考えているようで何も考えていなさそうな、思考が停止しているみたいに空虚な目をしている。
自分のせいでああなっているかと思うと、罪悪感を感じて魔術の練習にも集中できない。
今日の午前だけでクロナギは椅子や壁、扉などにもう八回もぶつかっているのだ。
サイファンはハルの視線を追って、クロナギの方を振り返った。レオルザークたちもちらりとクロナギを見たが、クロナギは相変わらず絨毯を見ていて皆の視線に気づいていない。
「面白い事になっていますね」
サイファンは蛇のような細い目で、まじまじとクロナギを見つめて言った。
「婚約者候補をたくさん挙げたものの、陛下は迷わずクロナギを選ぶだろうと思っていましたが」
アナリアが説明したのだろうか、サイファンもレオルザークもクロナギの異変の原因を知っているようだった。
「うん……」
ハルは顔を伏せて杖をいじりながら、小さな声で頷いた。ハルの杖には、クロナギの瞳と同じ色の漆黒の魔石が埋まっている。
サイファンはクロナギとハルの様子を見て「フ……」と笑い声を漏らすと、ハルの背に優しく手を当てた。
「気にされる必要はありません。クロナギの他にも陛下に見合う者はいます」
サイファンはにこにこして言う。クロナギが自信を喪失しているという珍しい状況を面白がっているようだ。
「将軍たちの家でテオやシーザには会われましたか?」
「うん、会ったよ。でも……」
「あまり気に入りませんでしたか?」
「そういうわけじゃないよ」
「では、二人ともう一度くらいお会いになってみては? 他の候補者たちとも実際に会ってみれば、気に入る者が見つかるかもしれません」
「……うん、そうだね」
クロナギの事を考えると気が引けるが、いつかは誰かに決めなければいけないのだから、面識のなかった候補者たちにも一度は会う必要があるだろう。
「では、順番に候補者たちを呼び出しましょう。明日からさっそく」
サイファンがさくさくと話を進めていくので、結局ハルは婚約者候補と面会する事になったのだった。
そして翌日、最初に会いに来てくれた婚約者候補はテオだった。父親のジンと一緒にドラゴンに乗って訪ねて来て、一時間ほどお喋りをして帰っていった。テオはもっとここにいたがったのだが、あまり長居するのは駄目だとジンが引きずって帰ったのだ。
『クロナギを選ばなかったのか』
『これで僕が選ばれる確率が高くなったし、ラッキー! ……でもあれ、大丈夫かな』
ジンもテオも、幽霊のように部屋の端にぼうっと立っているクロナギを見ながらそんな事を言っていた。クロナギの意気消沈っぷりに、テオですらちょっと気を遣っていた。
ちなみにオルガもクロナギの様子があまりにアレだったので、クロナギの事をからかったり笑ったりする事はなかった。オルガに遠慮をさせるなんてよっぽどだ。
その次の日も、そのまた次の日も、ハルは日に二人ずつ候補者たちと面会をした。皆いい人だったが、ひと目見て心奪われるような人はいなかった。
そして今日もまた、サイファンが呼び出した婚約者候補がやって来る。
「サイファン、婚約者候補の事だけど……」
ハルはアナリアを連れて禁城を歩き回ると――クロナギは曲がり角で壁にぶつかったり階段から落ちたりしそうなので部屋に置いてきた――レオルザークの執務室にいたサイファンに声をかけた。
「しばらく会うのをやめてもいい? 早く婚約者を決めた方がいいっていうのは分かってるんだけど、あまり……気が進まなくて。つまらなさそうな顔して候補の人たちに会うのも失礼だし、少し時間をちょうだい」
ハルの言葉にサイファンが返事をする前に、レオルザークが口を開く。
「婚約者を急いで決める必要はありません。今日は確かシーザが来る予定でしたが、私から断っておきましょう」
前は婚約者を「早めに決めていただければ、我々も安心です」などと言っていたレオルザークだが、ここにきて反対の事を言い出した。
婚約者の事でハルが思いのほか悩んで、クロナギほどではないが徐々に元気をなくしていっているのを気にしてくれているのかもしれない。
このままハルが悩み続けていたら、「婚約者なんて決めなくていい」と言い出しそうな雰囲気だ。
「今日はシーザが来るの? でも今から連絡してもシーザは今日の予定を空けてくれているだろうし、当日に断るのは悪いよね」
「気にする必要はありません。私がシーザに言っておきます」
「いいえ、シーザには会ってください」
レオルザークの言葉に被せるように言ったのはサイファンだった。レオルザークは片眉を上げて自分の補佐官を見たが、サイファンは顔にうっすらとほほ笑みを浮かべたままハルを見て言う。
「陛下にまた会えるのを楽しみに予定を開けたようですからね。追い返すのも可哀想ですし」
「うん、分かった。シーザには会うよ」
「ええ、そうしてください。今日の午後と、それから明日以降に呼び出す予定だった者たちには連絡をしておきますので」
「ありがとう」
力なくほほ笑んでハルが部屋を出ようとすると、追ってきたレオルザークがポケットから何かを出してハルにそれを握らせた。
指を開いて中を見ると、白い綺麗な貝殻があった。前回は蟹を獲ってきてくれたレオルザークだが、今回は貝殻を拾ってきてくれたようだ。ハルを元気づけようとして、今渡してくれたのだろう。
貝殻だけで悩みが吹き飛ぶわけではないが、ちょっと明るい気持ちにはなった。
「ありがと。宝物にする」
ガラス瓶に入れて寝室に置いておこう。
今度は自然に笑ってハルが貝殻をしっかり握ると、レオルザークも少しホッとした顔をする。
そして再び部屋を出ようとしたところで、今度はサイファンがハルの背中に声をかけてきた。
「陛下、シーザと話せばきっと心が決まりますよ」
「……? うん」
サイファンは、ハルがシーザを気に入ると確信してそう言ったのだろうか?
言葉の意味ははっきりと分からなかったが、ハルは曖昧に頷いて廊下へ出たのだった。




