11
「久しぶりの我が家だー!」
東でのパレードを無事に終え、禁城に帰ってきたハルは、自室に入ると同時にそう言いながらぐっと伸びをした。
留守番をしていた三人の侍女にも「ただいま!」と声をかける。
「おかえりなさいませ、ハル様。パレードはどうでした?」
「楽しかったよ」
「それは何よりです。マキナさんたちもおかえりなさい」
留守番組の侍女たちは、ハルについてきていたマキナともう一人の侍女にも挨拶をすると、次にクロナギたちの方へ顔を向けた。
「クロナギ様たちもおかえりなさ……」
しかし途中で言葉を切ると、困惑気味にハルを見た。
「あの、クロナギ様とアナリア様はどうかされたのですか?」
「気にしないで。二人は私の余命について考えてるだけだよ」
「余命ですか? ……ああ、そういう事なんですね」
どうやら侍女たちもハルの寿命についての事は事前に聞いていたようで、ハルの返答に戸惑う事はなかった。ヤマトが何の仕事をしているのか知らなかったのはハルだけのようだ。
ハルは振り返って、クロナギとアナリアをそっと見た。
……今にも心労で死にそうな顔をしている。
「私の寿命が人間と同じでも、別に今日明日に死ぬわけじゃないんだし、今からそんなに絶望しなくても……」
ぽつりと呟いてみたが、たぶん二人の耳には届いていない。
クロナギとアナリアは今朝から情緒不安定ぎみで、アナリアは一時間ごとくらいに突然ハルを抱きしめたりしていた。
「調査には時間がかかるだろうし、ずっと私の事ばかり考えてたらヤマトが帰ってくる頃には二人とも憔悴しちゃうよ。何か他の事を考えたら? 楽しい事とか」
「楽しい事ですか……」
「楽しい事……」
クロナギとアナリアは順番に呟いて、ハルに言われた通り、何やら楽しい事を想像しているようだった。
しかし二人してすぐに辛そうな顔をして、アナリアはまたハルを抱きしめた。
「何を想像したの?」
ハルの問いかけにはクロナギが答えた。
「ハル様が健やかに成長され、大人になられて……我々より早く年を取り、そして……」
「死ぬところまで想像したんだね? 楽しい事って言ったのに!」
「途中までは楽しかったんです」
駄目だこれは。と思いながらハルはため息をついた。
ヤマトが早く『ハルの寿命は竜人と一緒』という調査結果を持って帰ってきてくれるといいのだが。
禁城に戻ってきて少しゆっくりした後で、ハルは「そうそう」と大事な事を思い出した。
「婚約者候補のリストを見なきゃならないんだった」
人間と同じ寿命だった場合は早めに結婚して早めに子どもを産んでおいた方がいいしね、と続けようとしたが、クロナギたちがまた暗い顔をしそうなのでやめておく。
「あれ? どこへやったかな」
ソファーの方のテーブルの上に置いておいたと思ったのだが、今は見当たらない。
「リストなら寝室の方の引き出しに片付けておきました。今取ってまいります」
「ありがとう」
侍女が寝室に向かったところで、廊下側の扉がノックされた。入ってきたのは八賢竜の一人だった。
「おお、無事に戻られたか」
「あ、ただいま。どうしたの?」
ハルが尋ねると、髪も髭も白い八賢竜のおじいちゃんは「一緒にお茶でもと誘いに来たのだよ」と答えた。
「他の八賢竜たちも、もう下の階の談話室で待っておる。お菓子もあるからおいで」
「お菓子? 行く行く」
ハルが立ち上がると、侍女のマキナが「八賢竜の皆様方は、ハル様が留守にされていた間、寂しかったようですね」と小声で言って笑った。
そこで寝室から別の侍女がリストを持って戻ってきたが、
「帰ってから見るから、そこのテーブルに置いておいて」
と言ってハルは部屋を出た。
しかしその後も色々と忙しく、結局ハルが自分の婚約者候補のリストを見たのは寝る直前だった。
八賢竜とのティータイムが終わって部屋に戻ってくるとレオルザークとサイファンが顔を見せにきたので、東西南北でのパレードの様子を話したり、ヤマトの調査の事を話したりし、レオルザークたちが退室すると今度はバルコニーに岩竜の一号と二号が姿を現したので撫でてやり、そうこうしているうちに夕食やお風呂の時間になって、リストを手に取る暇がなかったのだ。
ハルは寝間着姿でリストを持ってソファーに座った。
侍女たちは浴室の片付けをしていてここにはおらず、オルガとソルは食事休憩中、そしてアナリアはハルがリストを手に取った途端に何故か意味ありげにクロナギに目配せして部屋を出ていってしまった。
なので今、部屋の中にはハルとラッチとクロナギしかいない。
ハルはリストの紙を順番にめくりながら呟く。
「うーん……文字の情報だけじゃ、どんな人なのか分からないな」
歳や肩書は分かるし、性格も一応書かれてはいるが、『真面目』『温和』『実直』などの単語だけでは本質は見えてこない。
「もちろん実際に会って話をする事もできますよ。気になる人物がいれば呼び出せばいいのです」
ハルの独り言に答えたのは、側に立っていたクロナギだ。
しかしのその声が普段より少しこわばっているような気がして、ハルはそちらを仰ぎ見た。
「……? 何か緊張してる?」
「いえ……」
ハルがじっと見ると、クロナギはそわそわと視線をそらした。床に転がっているラッチを見たり、壁を見たり、カーテンを見たりと落ち着かない様子だ。何か怪しい。
「何?」
「いえ」
問い詰めてみるが、クロナギからは「いえ」しか返ってこない。
「何か隠してる?」
「……」
クロナギは黙った。何か隠しているらしいが、白状する様子はない。
不審な目をクロナギに向けながら、ハルはさらにリストをめくっていった。
「あ、テオだ。こっちはシーザ」
婚約者候補たちの中で、一番年下なのがテオ。そして一番年上がシーザのようだ。
と思ったが、最後にまだ一枚紙が残っていたので、これを見てからでないとテオが最年少、シーザが最年長とは判断ができない。
「最後の一人は……」
ハルは特に何の期待も不安もなく、紙をめくった。婚約者候補の中で知っているのはテオとシーザだけだと思っていたので、知らない人物に対して何も思う事はないからだ。
しかし――
「クロナギ・ロード、紫の竜騎士だって。……ん? 紫? クロナギ? ……クロナ……」
ハルは最後の一枚に書いてあった名前を何度も目で追った。
けれど何度見ても間違いではなかった。
そこには確かにクロナギ・ロードと書かれてある。
ハルはバッと顔を上げて隣りにいる竜騎士を見上げた。
ここにいるクロナギも、名前はクロナギ・ロードだ。
紫のクロナギなんて一人しかいない。
「……このクロナギ、クロナギ?」
ハルは目を丸くしてクロナギを見ながら、リストを指差して言った。
クロナギは目元に照れを浮かべながら答える。
「はい、俺です」
ハルはクロナギから視線を外し、もう一度リストを見た。
「クロナギ・ロード、三十二歳、紫所属の竜騎士。上級貴族出身。父、クロツキ・ロード。母、ナギサ・ロード。性格は誠実、真面目。竜騎士としての能力は優秀。婚約者候補として問題点は特になし」
「読み上げるのはやめてください」
何だか照れくさいので、とクロナギが止めた。
「クロナギも私の婚約者候補に入ってたの?」
「はい……」
ハルは目を丸くしたまま、またクロナギを見る。
やがてまばたきをすると、小さく何度か頷いた。
「まぁ……客観的に見て……年の差はちょっとあるけど年上で頼れるし、家柄もいいし、竜騎士としてもエリートだし、性格も優しいし、私と仲良しだし、そりゃあ候補に上がるよね。よく考えれば」
「そうですね」
「そうですねって」
さらっと自分のすごさを肯定したクロナギ。
ハルは眉根を寄せてクロナギをじろりと睨んだ。
「というか、どうして最初に言ってくれなかったの? 自分も婚約者候補なんだって」
「申し訳ありません。しかし、自分から言うのは少し勇気が必要だったので。それに、最初に婚約者の話をした時にハル様の機嫌を損ねてしまったので、話を蒸し返す事もできず……」
クロナギは目を伏せて謝った。
ハルはふと思いついて言う。
「ああ! 分かった! クロナギがどうして私に婚約者を作るよう勧めるのかよく分からなかったけど、今、分かったよ。つまりクロナギは他の男の人を勧めてたわけじゃなく、自分を勧めてたって事なんだね?」
「いえ、あの……はい、そうです。すみません」
目を伏せたまま片手で口元を覆って、クロナギは珍しく顔を赤くした。照れて余裕のないクロナギを見られるのは貴重だ。
『クロナギも、私には婚約者が必要だって思ってるの?』
ハルが前にそう尋ねた時の、
『そうですね。早めに竜人の伴侶を決めていただきたいです』
というクロナギの返答の中にある〝竜人の伴侶〟とは、つまり自分の事を言っていたのだ。
そう思って考えると、アナリアが前に言っていた言葉にも納得がいく。
『ハル様、私もクロナギも、竜人なら誰でもいいからハル様の婚約者にしようとしているわけではないのです。ただ、どこの誰とも分からぬ者にハル様を奪われるのは嫌なだけ。ハル様を任せられる信用できる者を、ハル様の未来の伴侶にしたいんです』
アナリアの言う信頼できる者とは、クロナギの事だったのだ。
「はぁー、なんだ……」
ハルはリストをテーブルに置いて、長い息を吐いた。
呆れてるんじゃない、心底ホッとしているのだ。
「クロナギは私の事、もうあまり大切じゃないのかなとか思っちゃった。だから他人に任せようとしてるんじゃないかって」
「まさか、そんな」
「うん、よかった。勘違いで。クロナギはやっぱりクロナギだった」
出会った時から変わらない。心配症で、過保護で、ハルの事を一番に考えてくれている。
「でも、やっぱり最初に言ってくれればよかったのに……って、私がリストを渡された時にちゃんと見なかったから悪いんだね」
「いえ、俺が言えばよかったんです。まさかハル様がそんなふうに勘違いをされているとは思わずに……。ただ婚約者を作るのがお嫌なだけかと思っていました」
「そうじゃないよ。クロナギに見放されたみたいで悲しかったの」
「ハル様を見放すなんて、そんな事ありえません。……ハル様」
クロナギは椅子に座っていたハルの体の正面を自分の方に向けると、優雅にマントを払って床に膝をついた。
そして指輪をはめているハルの手を取ると、両手で握り込んで口を開いた。
「ハル様、そのリストに載っている竜人たちは、確かに皆優秀で、信頼できる者たちです。テオはまだ幼いですが、あれで結構鋭いですし、頭がいい。ハル様にはないずる賢さがありますので、将来はきっとハル様を支えてくれる。そしてシーザも優しく、父親のサザ将軍に似て器の大きな人物です。ハル様の伴侶になれば、ハル様が穏やかな毎日を過ごせるように努力してくれるでしょう」
誠実な目で、クロナギはハルを見上げている。
「けれど、その婚約者候補たちの誰も、俺ほどハル様の事を理解している者はいません。俺ほどハル様を想い、ハル様を幸せにできる者もいません。絶対に」
さっきまで恥ずかしがっていたのは何だったのか、クロナギの声は自信に満ちて力強かった。
「ハル様、俺を選んでください。他の誰かではなく、俺を」
クロナギの目には迷いがない。
おそらく彼は、自分が婚約者候補であるという事実を言い出せなかった一方で、自分はハルに選ばれるという自信も少しはあったのだと思う。
それはたぶん、他の誰よりも自分が一番ハルを想っているという自覚から来る自信なのだろう。
ハルも伴侶や恋人を選ぶなら、自分の事を大好きでいてくれる人がよかった。
そして信頼できて、一緒にいて楽しくて、お互いの事をよく理解している人がいい。
そう考えると、婚約者にはクロナギを選ぶという答えしかハルの中にはなくなる。たとえ他の候補者たちの事をこれからよく知っていったとしても、クロナギ以上に特別な存在になる人はいないだろうと思う。
けれど――
「あの、クロナギ、ごめん」
ハルはおずおずと口を開いた。
「私はクロナギを選ばないよ」




