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中央地区でのパレードを昨日終えて、今日は北に移動だ。移動のために丸一日時間を取っているが、ドラゴンで飛べば、三時間もあれば黒の将軍であるジンの屋敷に着くらしい。
ハルは少し朝寝坊して起きた後、蟹に餌をやって――昨日の夜にあげすぎたせいで、蟹は今日は貝を食べなかった――侍女に身支度を手伝ってもらい、朝昼兼用のごはんを食べる。
そうして、昼前にレオルザークの屋敷を発った。
「じゃあ、またね」
出発の前にハルはレオルザークを抱きしめておいた。レオルザークはたぶんドラニアスでも一番強い戦士なのに、何故だか時々、ぎゅっと抱きしめてあげなくてはいけない気持ちになるのだ。
数日離れる事になるけど、レオルザークは寂しがらないかなと心配になる。
「お気をつけて」
レオルザークはやっぱり、少しだけ寂しそうに言った。たぶんほとんどの人にはいつも通りの厳格な声に聞こえただろうけど。
レオルザークとサイファンに手を振りながら、クロナギ、ラッチと共にヨミに乗って北へ旅立つ。もちろんアナリアやオルガ、ソルも一緒だし、禁城を出た時と同じように護衛の黄の竜騎士も二十人ほどついてきて、ハルの侍女二人も彼らのドラゴンに乗せてもらっている。
空の高いところを飛ぶと、季節は秋という事もあって風が冷たかった。侍女が用意してくれた防寒具は暑いと思ったのだが、空の上ではちょうどいい。
「寒くはありませんか?」
「大丈夫だよ」
自分の上着を脱いで着させようとしてくるクロナギを止める。これ以上着れば、雪だるまのようになってしまう。それにラッチがくっついているのでお腹も温かい。
空を飛んでいるとハルに惹かれてやってきたらしい野生のドラゴンが近づいてきたり、それを警戒してこちら側のドラゴンたちが威嚇したりと、ちょっとした吠え合いになったりもしたが、それ以外は大した問題も起こらずに昼間のうちに無事ジンの屋敷についた。
ジンの家はレオルザークの屋敷と同じく、大きいもののあまり飾り気のない屋敷だ。
けれど意外にも、庭には可愛い花が植えられていたりする。ジンの趣味ではなさそうだが、誰が植えたのだろう?
「あ、こんにちは」
家の前ではジンが腕を組んで出迎えてくれていたので、ハルは少し緊張しながらそう挨拶をした。
ジンとはまだあまり喋った事がないし、レオルザークのように厳しそうだけど寂しそうではないので、駆け寄って抱きつく事もできない。
「よく来た」
しかしジンは無表情な顔を少しだけ和らげて膝を折り、指輪をつけているハルの手を取ろうとした。ハルが慌てて手袋を取ると、ジンはその手を自分の額の前に掲げる。
そして顔を上げて改めてハルを見ると、
「寒かったのだな。鼻が赤くなっている。混血は皮膚も薄いのか」
と言いながらハルの背を片手で押して屋敷の中へ入ろうとする。
「どうも、将軍。私たちの事、見えてます?」
ドラゴンから降りたアナリアが、風で乱れた髪をかき上げながら皮肉っぽく言った。ジンは本気なのか冗談なのか、真面目な顔で返す。
「もちろん見えている。まだ視力は衰えていない。ああ、ドラゴンは向こうの小屋に入れるか、庭の木にでも繋いでおけ」
ジンは無表情のまま、マイペースに指示を出した。
移動中の護衛としてついてきてくれた黄の竜騎士たちとは、ここでお別れのようだ。パレードで御者台に座っていたトウマの姿もあったので、「ありがとう」と手を振っておく。トウマは嬉しそうに破顔して両手で手を振り返してくれた。
黄の竜騎士たちを見送って振り返ると、ジンの隣には知らない女の人が立っていた。
艶やかな灰色の髪は腰よりも長く、ウェーブがかってふわふわしている。細身で小柄な、可愛らしい雰囲気の女性だった。
「皇帝陛下、ようこそいらっしゃいました」
女性はこちらに近づいてくると、ハルの手を取り、優しく握った。そして自分の事をジンの妻のシンシア・ゲートだと名乗った。
年齢的には結婚していても何らおかしくはないのだが、ハルはジンが既婚者である事にちょっとだけびっくりした。
「はじめまして」
「はじめまして、陛下。お目にかかれて光栄です」
シンシアはにっこりほほ笑んで言った。妖精みたいな人だ。
「おかわいそうに。お鼻や頬が寒さで赤くなっていますよ。さぁ、屋敷の中へどうぞ」
そしてジンと同じような事を言いながらハルを中へ案内してくれる。
「暑っ」
しかし中に入った途端に、後ろでオルガがそう呟いて上着を脱ぎ始めた。確かに少し暖房が効き過ぎている。
「屋敷中の暖炉をつけておいた。エドモンド様もそうだったが、フレアは特に寒がりだったような気がするからな。二人の子となれば寒さには弱いだろう」
「ありがとう。うん、寒かったからすごく暖かいよ。でも、ちょっと……」
「暑いですね。暖炉をいくつか消してもらえますか?」
ハルが言い淀んでいるうちに、クロナギがさらっと頼んでくれていた。それと同時にハルの首巻きや上着を脱がせてくれる。
「そうか、難しいな」
言いながら、ジンは使用人に暖炉の炎を消しに行かせていた。
そしてふとシンシアを振り返って尋ねる。
「ところでテオはどうした」
「テオなら私と……あら? あの子ったらどこに行ったのかしら」
「テオって?」
クロナギを見上げて小声で尋ねる。クロナギは少し目をすがめてから淡々と答えた。
「ジン将軍のご子息ですね」
「子どももいたんだ……」
ハルの呟きが聞こえたのか、シンシアは困ったように笑って言う。
「夫はいつも息子と修行や稽古ばかりしているんですよ。息子も夫に似てしまって修行好きで、困った二人なんです」
「即位式の日の夜会で妻と息子を紹介しようかと思ったのだが、少々懸念事項があってな。やめておいた」
話に入ってきたジンに、ハルが訊く。
「懸念事項って?」
「息子がまだ幼くてな。はしゃいで騒ぐのではないかと思ったのだ」
「ええ、夫は夜会の時も将軍としての仕事がありますし、私一人であの子を制御できるかと……あ、テオ! どこへ行っていたの?」
「すみません、母上!」
そこで一階の奥から駆けてきたのは、シンシアによく似た可愛らしい男の子だった。歳は十歳くらいだろうか。灰色の髪は短いけれど、やはり母親と同じようにふわふわしている。あまり修行好きとは思えない外見だ。
「花を摘みに行ってて!」
パタパタと軽い足音を立ててこちらに走り寄ると、テオはハルに気づいて「あ、ハル様!?」と目を丸くした。
「よかった! かわいい! それに性格もよさそう。気も強くなさそうだし」
「な……! テオったら! 失礼よ。本当にこの子はもう!」
面と向かって感想を言うテオを、シンシアが叱りつける。外見はシンシアに似ているが、マイペースであまり発言に気を遣わないところはジンに似ているのかもしれない。
けれど紹介されなければジンの息子とは気づけないだろう。
「申し訳ありません、陛下」と頭を下げるシンシアの隣でテオも膝をついたが、それは謝るためでなく挨拶をするためだった。
「ハル様! ぼくはテオ・ゲートです。よろしくお願いします!」
「よろしく……」
本当にすごくマイペースだ。隣でシンシアが「すみませんすみません」と平謝りしている。
「ハル様、これ、お近づきの印に。さっき摘んできました!」
「う、うん。ありがとう。綺麗なお花」
テオのペースに巻き込まれつつも、年下の男の子から花を一輪もらってハルはちょっと照れた。ラッチがハルの周りを飛びながら、フンフンと花の匂いを嗅いでいる。
テオはそわそわしながら真剣な顔で続ける。
「あの、今日はぼくに会いに来てくださったんですか?」
「え? テオに?」
テオの事を知ったのはたった今なのだが……とハルが戸惑っていると、ジンが息子の頭に手を乗せて勘違いを正した。
「そんなわけないだろう。陛下は明日のパレードのために来られたのだ」
「パレード……そっか、忘れてた」
テオは何故そんな勘違いをしたのだろう、とハルが思っていると、
「お預かりしておきます」
「ん? 花? ありがと」
クロナギが後ろから手を出してきてそう言った。ずっと花を持っているわけにもいかないので、ハルはそれを素直に渡す。
クロナギが持っていてくれるのかと思ったら、クロナギはその花をたまたま隣りにいたソルのポケットに適当に挿していた。ちょっと扱いが雑だ。
「ハル様、お疲れではありませんか? お茶にしましょう! こっちに来てください」
自分が渡した花が最終的にソルのポケットに入ってしまったというのに、テオはそれを気にする様子もなく――おそらく渡しただけで満足してしまったのだろう――ハルの手を取って走り出そうとする。
とても人懐っこい性格をしているようだ。
「テオ」
しかし彼の腕を掴んでその動きを止めたのは、クロナギだった。低い声で名前を呼びながら注意をする。
「ハル様はお前のように素早く反応できないし、速くは走れない。それに皇帝陛下に軽々しく触るのは褒められた行為ではない」
「……ごめんなさい、クロナギ様」
テオは丸い瞳をうるうるさせながら小動物のようにクロナギを見たが、全く同情を誘えていないと分かると普通の顔に戻り、あっけらかんとしてもう一度謝った。
「ごめんなさい、気をつけるよ。ハル様もごめんなさい」
「ううん、いいよ」
「お前は少し落ち着くべきだな」
最後にはジンに襟の後ろを掴まれてハルから引き離されていたが、その次に放ったジンの一言がハルに衝撃を与えた。
「こんな事では皇帝の伴侶に選ばれるのは無理だぞ。私もお前には陛下を任せられない」
「そんな! 親なんだから応援してよ!」
「ちょ、ちょっと待って……! 一体、何の話?」
ハルが困惑していると、ジンとテオも頭に「?」を浮かべて説明を求めるようにクロナギを見た。しかし答えたのはアナリアだ。
「ハル様はまだ婚約者候補が誰なのか知らないのです」
「何? リストを見せていないのか?」
「お渡ししましたがまだご覧になっていません。心の準備が必要なようで」
「そうだったか」
ジンが納得したように頷く。
ハルは恐る恐る尋ねた。
「今の会話からして、つまり、テオも私の婚約者候補なの?」
「そうです!」
にっこりと笑顔で答えたのはテオだ。
「でも、まだテオは子どもなのに!」
「それを言うならハル様だってそうじゃないですか! ぼくと四つしか違わないくせに! ……あ、くせにとか言っちゃった。ごめんなさい」
てへ、と誤魔化すようにテオは笑顔を作る。
大人になれば気にならないのかもしれないが、この歳の四歳差は大きい。まだ会ったばかりという事もあるが、今はハルはテオの事を弟的存在としてしか見られない。
ちらっとクロナギを見ると、別に睨んでいるわけではないが笑顔でもない、若干冷え冷えとした微妙な表情でテオを見ていた。
「クロナギ」
ハルはクロナギの服を引っ張って、確認のためにこそこそと耳打ちした。
「クロナギは私に婚約者が必要だと思ってるんだよね? そう言ってたでしょ?」
クロナギはハルを見ると、その言葉を聞き終わった後で、テオにも負けない完璧な笑顔を作って言う。
「はい。しかし、彼は駄目です」
ハルはますます困惑しながら、どっちなの? とクロナギに突っ込みたくなった。
テオを勧められても困るが、思惑がよく分からない。
その後、ハルはお茶をごちそうになって、夕食までの時間はお屋敷や庭を案内してもらったり、ジンとテオが組手をする様子を見せてもらったりした。
テオはシンシアが言っていたように修行好きのようで、ジンの相手をしている時には楽しそうな顔をしていた。
二人が戦う様子を見てうずうずしたらしく、オルガやソルも参戦したが、子どものテオは二人の眼中にないらしく、ジンが一人で順番に二人の相手をする事になった。
「ぼく、暇だな」
テオはそう呟いてから、ちらっとクロナギを見た。そしていい事を思いついたとばかりに、
「クロナギ様! ぼくの相手をしてください」
と元気よく言う。クロナギは一度断っていたが、
「ハル様の前でぼくに負けるのが怖いんですか?」
と分かりやすく挑発されると、意外にもこの挑発に乗って前に進み出た。
そうして、ほんの一瞬の間にテオを地面に転がしていた。
「大人げないわよ」
アナリアにそう言われてもクロナギは知らないふりをして、何事もなかったかのようにハルの隣に戻ってきた。
クロナギのテオに対する態度は、この後ジンの家に滞在している間中ずっと、若干、大人げなかった。
テオが中庭を案内してくれる事になった時も、ジンは「危険なものは何もないし、二人で行ってくればいい」と言ったのだが、クロナギはそれに反対して結局三人で回る事になったし、テオがハルと手を繋ごうとしたりすると、即座にクロナギが止めに入ってくる。
「クロナギ様のせいで、ハル様と全然いい雰囲気になれないー!」
テオは最終的にそう言いながら拗ねていたので少し可哀想な気もしたが、ハルは婚約者としてテオを選べそうにないので、クロナギが邪魔をしてくれてよかったのかもしれない。
それにクロナギがこうやって過保護で心配症だと、まだちゃんと自分の事を大切に思ってくれているのだなと感じて、ハルは安心するのだ。
しかし、テオは子どもで頼りないとクロナギが判断しただけで、他の婚約者候補――あるいはクロナギが認めた誰か一人に対しては、こんなふうに厳しくはしないのかもしれない。
(もしそうだとしたら、クロナギが認めた一人って誰だろう)
ハルはふとそう疑問に思ったのだった。
翌日の午前は、黒の竜騎士やドラゴンたちと一緒に、この地区で一番大きな街でパレードを行った。
紫を目指す若者の〝挑戦者〟は一人出たが、それ以外で特に変わった事もなく、盛り上がったままパレードは終わった。
挑戦者は黒の竜騎士を一人も倒せなかったし、ハルに花を渡す事もできなかった。が、ハルも二回目のパレードで慣れてきたため動揺する事なく、竜騎士に捕まっていた挑戦者に、すれ違いざま「頑張ってね」と声をかける事ができた。
それに今回も北の地方に住む皆の顔を見る事ができたし、街の様子も見られて、いい経験になったし楽しかった。
そうして、あっという間にここを発つ時間になった。
「ハル様……もう行ってしまわれるなんて。まだ全然ぼくの魅力を分かってもらえてないのに」
テオはしゅんと眉を垂らして言った。テオの方が少し背が低いので上目遣いで見つめられるが、二日一緒に過ごしてテオの性格を掴んできたハルは、それが作られた〝可愛い顔〟だと分かったので、笑いながら返す。
「じゃあまた今度教えて」
ハルの軽い反応が気に入らなかったらしいテオは、眉根を寄せて大人びた口調で言った。
「うーん、やっぱり皇帝の心を掴むのは難しいなぁ。手応えが全然ないや」
感情表現の乏しいジンと純粋で良い人なシンシアから、なぜこんな二面性のあるテオが生まれてきたのか不思議だが、テオの精神的に強そうな感じは頼もしいとも思うし、可愛い一面もしたたかな一面も嫌いではない。
けれどやっぱり、友だちや弟以外の気持ちをテオには持てそうもなかった。
それはたぶん、テオの方にも原因があると思う。何故なら彼もハルに恋してはいないからだ。
テオは竜人として皇帝に心惹かれてはいるのかもしれないし、あるいは『皇帝の伴侶』という立場に惹かれているのかもしれない。
それは全く構わないのだが、真剣な想いでなければ、ハルも真剣には返せないというだけだ。
ハルはテオが嫌いじゃないし、テオもハルを好意的に見てくれている。
けれど少なくとも今のところは、二人の間には深くて繊細な感情はないし、ハルにとってそれは悪い事ではなかった。テオとはこのままの関係でいたいなと思う。
「じゃあね。また禁城にも遊びに来てね」
テオにお別れを言い、ジンとシンシアにもお世話になったお礼を言って、クロナギやラッチと一緒にヨミに乗る。
飛び立つ直前に、「こうすれば顔も寒くないだろう」と言いながらジンが首巻きをぐるぐると頭や顔に巻いてくれたので、ハルは目だけが出た怪しい出で立ちになってしまった。ターバンを巻いたラマーン人みたいだ。
「ありがと」
一応お礼を言ったが、首巻きで声がこもるのでジンに聞こえたかは分からない。
ラッチと侍女二人、それに紫の四人、さらに護衛でついてきてくれる黒の竜騎士たちと共に、ハルは空へ飛び立った。
次に向かうのは西だ。




