8
目を覚ますと、不思議と頭はすっきりしていた。なんだか気持ちが落ち着いている。
今は夜中なのだろうか。暗くてよく見えないが、ハルは自分がいる場所がいつもの使用人部屋でないことに気づいた。
寝ているベッドは大きくてふかふかすぎるし、部屋は広すぎる。隣で寝ているはずの、同期の下女のマリの寝息が聞こえてこないし……。
「ぎゃあぁぁ!」
ふと目をやった先――自分が寝ているベッドのすぐ隣に黒い人影を見つけ、ハルは色気のない悲鳴と共に飛び起きた。
しかし目を凝らしてよく見ると、
「な、なんだ……お化けかと思った」
バクバクと脈打つ胸を押さえながら言う。
人影はクロナギだったのだ。
彼はベッドの隣で番犬のようにじっと立っていたのだが、ハルが目を覚ました事に気がつくとその場で膝をつき、視線の高さを彼女より低くした。
「驚かせてしまって申し訳ございません。朝までまだ時間があります。精神的にお疲れのようですから、もう少しお休みください」
「あなたは寝ないの? えっと……クロナギさん?」
ハルが尋ねると、クロナギは緩く首を振った。
「『さん』はいりません。どうぞクロナギとお呼びください」
ハルは頷いて、戸惑いながらも再度名を呼んだ。
「クロナギ」
クロナギも満足したように頷く。
(なんかあれだ。竜人にこんな事思うの失礼だけど、この人ちょっと犬みたい)
ハルは、領主が昔飼っていた黒い大きな猟犬のことを思い出した。彼は自分の主人である領主に忠実で、彼以外の命令は絶対に聞かなかった。
犬のくせに寡黙で真面目な感じだったのだが、主人の姿を見つけると、こらえきれずにちょっとだけ尻尾を振ってしまうような可愛いところもある忠犬だった。
その場面を思い出して口元を緩めつつ、ハルはもう一度聞いた。
「クロナギは寝ないの?」
「私はもう十分休んだので大丈夫です。竜人は人間ほど多くの睡眠を必要としませんから」
「そっか、そうなんだ」
言いながら、ハルは毛布を退けてベッドから降りると、窓の方へと向かった。
クロナギが少し慌てて後をついてくる。
「どうぞ、まだお休みに」
「大丈夫だよ。なんか目が覚めちゃって」
ハルは彼を安心させるように言った。
そっと窓から外を覗く。ここは二階のようで、眼下によく見慣れた薔薇園が見えた。
ということは、ここは領主の屋敷の客室のようだ。部屋の広さや調度品もそれっぽい。しかし何故、下女の自分がこんないい部屋に?
「アルフォンス様やカミラ様は? それにこの部屋……」
ハルが問うと、クロナギは眉をしかめた。
「彼らに敬称をつける必要はありません。この部屋は私から領主の息子に話をつけ、使わせてもらっています。狭い使用人部屋では、ハル様にゆっくりと休んで頂けませんから」
無駄に広いこっちの部屋の方が落ち着かなくて休めないんだけどと思いつつ、そこは気弱なハルなので、「そっか、ありがとう」と礼を言っておいた。彼の行動は善意からのものだし。
「そういえばラッチは? 森にいるの?」
「彼ならそこに」
クロナギの視線の先へ顔を向けると、ラッチはさっきまでハルが寝ていたベッドの端で体を丸め、すやすやと眠っていた。暗くて全然気づかなかった。
「あ、首輪がとれてる」
ラッチの首にあったはずのそれが無くなっている事に気づき、ハルは弾んだ声を上げた。
首輪を取ったのはクロナギらしい。
「ええ、邪魔そうだったので外してやりました」
「外したってどうやって? あれは鍵が無いと……」
「鍵が無くとも、力尽くで」
「……そうですか」
鉄の首輪を力尽くでぶっ壊す竜人の強さに、ハルは感心すればいいのか呆れればいいのか分からなかった。
本当に自分にも竜人の血が流れているのだろうか。
ハルはクロナギを見上げた。
「ねぇ、私の血の半分は竜人なんだよね? 私の父が竜人なんでしょ?」
「そうです。ハル様のお父上は竜人で、ドラニアス帝国の先代皇帝エドモンド・リシュドラゴ様です」
「やっぱりそうなんだ」
自分の父が竜人で皇帝だったという事実を聞かされれば驚くのも無理はないはずなのに、あっさりとそれを受け入れたハルを見て、クロナギは不思議に思ったらしい。
「随分落ち着いてらっしゃいますね。意識を失われる前は混乱しておられましたし、信じてもらえるまでにもっと時間がかかると思っていましたが」
「うん、自分でも不思議」
きっと、さっき見た夢のせいだ。
それに美しい母が竜人の皇帝に愛されるというのは、やっぱり、十分あり得る話だと思うから。
「でも“先代”ってことは今は違うんだ? 父は元気で……」
そこまで言って、口をつぐむ。
待てよ。最近何か……竜の国とその皇帝にまつわる話を、何か聞いたような……。
しかしハルが思い出さないうちに、クロナギが感情を押し殺したような低い声で言った。
「先代は……エドモンド様はもう亡くなっておいでです。一年前の、ドラニアスとラマーンの一件はご存知ですか?」
「聞いた事ある。でも詳しくは知らない」
そうか、思い出した。
父も、もう死んでいたんだ。
ハルは眉を垂れ、悲しげに首を振った。
「人ごとだと思ってたから……」
ドラニアス帝国の隣には、海を挟んでラマーン王国という国がある。ちなみに今ハルたちがいるジジリア王国は、そのラマーンの次。ドラニアスの隣の隣に位置している。
今から一年ほど前のこと。ラマーンの王がドラニアスの皇帝を殺したらしい、という噂は、ただの下女であるハルの耳にも届いていた。
一国の王が他の国の皇帝を殺すなどという大事件であるから、ハルも下女たちと「なんでそんな事になったんだろうね?」などと話題にしたものだ。
その時もうすでに母は亡くなっていたし、まさか殺された皇帝が自分の父だとは知らないから、まるきり他人事だった。
ハルはやりきれない気持ちになりつつ、力の無い声でクロナギに聞いた。
「父はどうして殺されたの?」
その質問に、クロナギはどこか沈んだ声で答えた。
ドラニアス帝国は元々人間の国とはほとんど交流を持っていなかったという事。竜人たちは自分たちの種族に誇りを持っているが故に、弱い人間たちを見下していた事。そして自分たちだけで固まって、人間の存在などほとんど無視していたという事を。
しかしハルの父エドモンドが皇帝になってからは、『人間の中にも尊敬に値する者はいる』『人間から見習うべき点はたくさんある』と、積極的に人間の国と交流をはかろうとしていたらしい。
良い部分を盗んで、ドラニアスをさらに発展させるために。
ドラニアスの国民たちもエドモンドの主張を理解し、支持した。
排他的だったドラニアスの気風が変わろうとしていたのである。
「人間の音楽団や大道芸人などをドラニアスに招いて何度か小さな交流をはかった後、我々はまず隣国であるラマーン王国と繋がりを持つ事にしました」
クロナギが瞳を伏せて語る。
「しかしラマーンの国王は欲深く、浅はかで……。彼はエドモンド様に魔術をかけて、自分の意のままに操ろうという計画を立てていたのです。そうすれば強力な戦士である我々竜騎士やドラゴン、そしてドラニアスでしか採れない宝石といったものも、全て自分のものになると考えたのでしょう」
エドモンドたちが初めてラマーンの国王から晩餐会に招待された時の事。
国王は食後、エドモンドに「二人きりで、私的な会談の場をもうけたい」と持ちかけたらしい。
「今思えば、それはエドモンド様を我々護衛から引き離すための策でした。『二人きり』という事に我々は油断していたのです。相手も兵はつけていないと。しかしまさか彼が直接エドモンド様に手を出してくるとは……」
ハルには、クロナギたちが油断したのも仕方ないように思えた。
普通の感覚で考えれば、戦争中でもなく、ましてこれから仲良くやっていこうとしている国の皇帝に手を出すなんて信じられない事だから。
しかも王自らが攻撃を仕掛けるなんて。
ラマーン国王の思惑に気づける者がいたとしたら、それは彼と同じ思考回路を持つ愚か者だけなんじゃないだろうか。
別室で二人きりになると、国王は杖を取り出し、魔術を繰り出したらしい。
が、彼は王様。もともと真剣に魔術を学んでいたわけではない。『相手を意のままに操る』という高度な術を習得しきれていなかったらしく、術が暴走し、意図せずエドモンドを殺してしまったのだ。
「隣室からの物音に気づいた我々は、すぐにエドモンド様とラマーン国王のいる部屋に突入しました。しかし時すでに遅く、青い顔をしているラマーンの国王の前で、エドモンド様は床に倒れておられたのです」
そう語ったクロナギの目に、ハルは確かな怒りの炎を見つけた。
冷静に抑えつけられているが、内に秘められているその感情はとても激しいもののように感じた。
眉根を寄せて宙を睨みつけているクロナギの手は、きつく握られたままかすかに震えている。
「ラマーンの国王が許せないの?」
ハルの言葉にクロナギは「ええ、もちろん」と頷いたが、続けられた言葉には目を見開いて動揺した。
「でも、皇帝を守れなかった自分の事はもっと許せないんだ? 自分自身に一番怒ってるんだね」
上手く隠していたはずの自分の気持ちをさらりと言い当てられる感覚に、クロナギは既視感を覚えた。
先代の皇帝と同じだ。
自分の事でいっぱいいっぱいのように見えて、実は結構周りの人間を見ている。
彼らが代々受け継ぐ緑金の瞳はいつも真っすぐで、余計なものには捕われずに核心を突く。
「そんなに自分を責めちゃだめだよ」
柔らかなハルの声は、静かに夜の闇の中へと溶けていった。
クロナギはたぶん一生自分の事を許さないだろう。
しかし今、ほんの少しだけ心の重石が軽くなった。
クロナギはハルの前で跪くと、指輪のついた彼女の手を取り、誓う。
「私はエドモンド様を守れなかった。しかしもう二度と同じ過ちは繰り返さない。ハル様の御身は、私のこの命をかけて守り抜くと誓います」
強い瞳、真剣な低い声音に、ハルはそわそわと腰の浮くような感覚を覚えた。
この人いい声してるんだよねなどとのんきに考え、普通のお姫様なら顔を赤らめる場面であえて空気を読まずに発言する。
「私、そこまで危険な人生歩むつもりはないからね」
というか皇帝になるつもりもないからね、と。