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「ハル様、おはようございます」
聞きなれない女の人の声がベッドのすぐ脇から聞こえてきた。
けれどハルはまぶたを開ける気にならずに、隣で一緒に寝ていたラッチをぎゅうと抱きしめて体を丸めた。ふかふかで温かいこの布団の中から出たくない。
別の誰かが窓のカーテンを開けたのか、部屋に光が満ちたのが目をつぶっていても分かった。
「ハル様」
女の人は遠慮がちにハルの肩に触れた。
「ハル様、朝の支度をしましょう」
少し肩を揺すられたが、ハルはこちらに背を向けているラッチの翼の間に顔を埋めて再び眠ろうとする。
女の人は困ったような声を出して、他の女の人たちと話を始めた。
「どうしましょう? 起きられないわ。まだ疲れてらっしゃるのかしら」
「でももう十時間近く眠っておられるわよ。眠り過ぎて心配になるわ」
「確かに竜人の私たちからすれば異常な睡眠時間だけど、ハル様の睡眠時間は人間と変わらないってクロナギ様がおっしゃっていたじゃない」
「人間ってどのくらい眠るの?」
「分からないわ」
「八時間くらいじゃなかった?」
「じゃあもう起こしても大丈夫じゃないかしら。八時間は過ぎているもの」
「だけどハル様は昨日ドラニアスへ着いたばかりよ。やっぱり疲れてらっしゃるんじゃないかしら」
ひそひそと続いている話を夢うつつに聞いていた時だ。
ノックの音の後で、今度は聞き慣れたクロナギの声が耳に届いた。
「ハル様は起きられたか?」
「いえ、それが……」
「声をおかけしても目覚められなくて」と女の人が説明すると、クロナギは寝室に入ってベッドに近づいて来たようだった。
「ハル様。おはようございます。朝ですよ」
髪を撫でられて、やっとハルは目を開ける。ラッチから顔を離し、寝ぼけ眼でクロナギを見た。
「クロナギだ……。おはよう」
「おはようございます」
「……ん? ここどこだっけ?」
「ドラニアスの禁城ですよ。ハル様のお部屋です」
「そうだった」
ジジリアで野宿をしていた時の夢を見た気がするので、今自分はジジリアにいるのか、それともこの立派な部屋はラマーンの宮殿なのか、目覚めたばかりで一瞬混乱した。
そしてクロナギの後ろにいる女の人たちの事も、昨日紹介された自分の侍女だとやっと気づく。
「おはよー……」
クロナギに支えられて上半身を起こしながら、ハルは侍女たちに言った。侍女たちからもすぐに「おはようございます」と返事がくる。ハルが無事に起きて安堵している様子だ。
「調子はどうですか? 昨夜はよく眠れましたか?」
クロナギは医者のようにハルの顔色を注意深く観察した。旅の疲れ、そしてアナリアに解術を施した疲れがまだ残っているのでは? と思っているらしい。
けれどハルの体調は特に悪くはなかった。一度空っぽになってしまった魔力はまだ回復途中のようだが、体にだるさを感じたりはしていない。いたって元気だ。
「うん、すっごくよく寝た。ベッドが寝やすくて……あと何だか安心するようないい匂いがしたし」
「エドモンド様の香りが残っているのかもしれませんね」
クロナギはほほ笑んで、ベッドから降りようとするハルに手を添えた。ラッチはまだ小さくいびきをかいて眠っているので、そのままにしておく。
「では私は一旦出ますので、顔を洗って着替えを」
そう言って、クロナギはハルを侍女たちに任せて居室の方へ向かった。
それと同時にわらわらと寄ってきた侍女たちは、てきぱきと水桶を用意し、ハルに顔を洗わせ、そして寝巻きを脱がしにかかる。
昨日はお風呂にも入れられてしまったので今さら着替えくらいで恥ずかしがる事もないと、ハルは若干諦めの気持ちを持ちつつ、彼女たちに言われるがまま寝巻きを脱がせてもらうためにバンザイをしたのだった。
「まぁ、よくお似合いです」
「可愛らしいですよ」
ハルが着せてもらったのは、ドラニアス風の動きやすい衣装だ。上はハルの体の大きさにぴったり合った詰め襟の服だが、柔らかい布で仕立てられているので着心地がいい。
そして上衣と分かれている七分丈のズボンは裾に少しだけスリットが入っている。
服の色は若葉のような黄緑色で、所々に銀糸で刺繍がされている。
髪の毛も簡単に結ってもらっていて、前髪はいつも通り下ろしたままだが、後ろ髪の上半分は頭のてっぺんでお団子になっている。
今までは櫛で梳かすくらいの事しかしてこなかったので、新しい自分になったみたいで少しわくわくした。
「髪も服もありがとう。この服、窮屈なドレスよりずっと好きだよ」
ハルはくるりと回って言った。もっとも、ずっと下女だったハルはコルセットが必要な豪華なドレスなんて着た事がなかったが。
目を覚ましていたラッチも、ドラニアスの服を着ているハルを物珍しそうに見ながら周りを飛んでいる。
侍女のマキナ――見た目は二十代半ばくらいでしっかり者、侍女たちの中では一番先輩らしく、ハルに直接声をかけてくるのはほとんどが彼女だ――が、にっこり笑って言う。
「ハル様の話を竜騎士様たちに伺ってから大急ぎで仕立てたものですが、気に入っていただけてよかったです。徹夜をした職人たちも喜ぶでしょう。サイズもぴったりですね。クロナギ様に頂いたメモ通りです」
「メモ?」
「ハル様の身長や肩幅なんかが書かれたメモですよ。服が必要になると見越して、先にドラニアスに戻ってきた竜騎士様たちにクロナギ様が持たせておいてくださったんです」
クロナギってばいつの間にそんなものを……とハルは眉根を寄せた。体を測られた記憶はないが、知らぬうちに把握されていたようだ。
「失礼します」
「あ、クロナギ!」
どうして私の体のサイズを知っているのかと問い詰めようとしたハルだったが、こちらの姿を目に入れたクロナギが本当に嬉しそうに表情を崩したものだから、それはできなくなった。
「よくお似合いです。ハル様」
とろけたはちみつみたいに甘くほほ笑んで、クロナギはハルの前で膝を折る。
「やはりあなたにはジジリアやラマーンの服よりドラニアスの衣装の方がずっと似合う」
「そう、かな? ありがと……」
クロナギが両手をそっと握ってきたので、ハルはその手を握り返しながら照れた。面と向かって褒められると恥ずかしくなる。
と、頬を赤らめたところで、お腹が空腹を訴えてぐるぐる鳴ったので、ハルはさらに赤面する事になった。
クロナギは優しく笑って言う。
「食欲があるようで何よりです。朝食にしましょうか」
その言葉に素直に頷いて、隣の居室へ向かう。食事はここで取るのだ。
「あ、ハル様。おはようございます。可愛い髪型ですね」
「ヤマト、おはよう!」
居室にいたヤマトの顔を見てハルは安心した。自分と同じく相変わらず平凡で普通な容姿をしている。ドラニアスにはこういう地味な雰囲気の竜人が少ないのだ。
「アナリアとオルガとソルは?」
寝室より広い部屋を見回して、ヤマトに尋ねた。ここにいるのはラッチとクロナギとヤマト、そして侍女たちだけだったからだ。
「アナリアさんなら、ハル様の服を作るために仕立て屋を呼んで話をしてますよ」
「服なら、もう作ってもらったのに」
ハルは自分が今着ている服を指で摘んでみせたが、「それ一着じゃ足りないでしょ」と返される。
「後でアナリアさんのところに行ってくださいね。似合う色とか、実際に布を当てて見たいらしいですから……。ハル様、覚悟しておいた方がいいですよ。アナリアさんは新しい服を山ほど作らせるでしょうし、すごく時間がかかると思います」
あまり服に興味がないハルを脅すようにヤマトは言った。退屈な時間になりそうだなと思ってハルも苦い顔をする。
「オルガさんは実家に顔を見せに行っていて昼まで不在で、ソルはまだ寝てます」
「ふぅん。オルガのお父さんとお母さんってどんな人だろう。会ってみたいな」
怖いもの見たさの気持ちもありつつ言った。あのオルガを育てた両親なのだ。グオタオみたいに豪放な性格の人たちだろうと予想して。
「あとアナリアのお母さんとか、ヤマトやクロナギの家族にも」
「うちは平民なので家族をハル様に会わせる機会はなかなかありませんけど、アナリアさんとクロナギ先輩の家は上級貴族ですから、ハル様も顔を合わせる事はありますよ」
「そうなんだ、楽しみ!」
弾む声で言ったところで侍女が朝食を運んできてくれたので、ハルはさっと席について、すでに用意されていたスプーンを手に取った。
ヤマトがその素早い行動を笑っているが、お腹が空いているのだから仕方がない。
朝食は細かく刻まれた香草が入ったお粥と、デザートに梨などの果物を用意してくれたようだ。
あとは、食後のお茶なのか青磁のティーポットとカップも運ばれてきた。カップには持ち手がついておらず、華やかなデザインのジジリアのティーセットより、シンプルで渋い感じがする。
食器や茶器は見慣れぬものだとしても食事はとても美味しいという事は、昨日の夕食を食べて分かっているので、ハルは温かいお粥を迷いなく口に入れてふにゃりと口元を緩めた。美味しいものを食べるのは幸せだ。
朝食を食べ終えた後は、お茶を飲みながらゆっくりと時間を過ごす。クロナギやヤマト、侍女たちは一緒にお茶を飲んではくれないが、ハルのお喋りには付き合ってくれる。
皆で話をしながら――ヤマトの、クロナギはモテるが自分はモテないという愚痴をずっと聞いていただけだが――ハルがふとバルコニーの外へ目をやると、快晴の空にいくつかの影が見えた。ドラゴンが飛んでいるようだ。
「飛竜だけじゃなく、岩竜もいるみたい。野生のドラゴンかな。何してるんだろう?」
興味を惹かれたのか、ラッチもぱたぱたと飛んで窓際に近づく。クロナギも外を見て、こう推測した。
「ハル様の気配が気になって禁城の周りをうろついているのではないでしょうか。歴代の皇帝たちがお生まれになった日にも、こうやってドラゴンが集まってきたと聞きます。何日か続くかもしれませんが、そのうち落ち着きますよ」
と、そこまで言ったところで、クロナギは遠くを飛んでいる二体のドラゴンに視線を定めた。
視線を追って、ハルも空を飛ぶ二つの小さい点をじっと観察してみるが、視力は竜人ほど良くないので、クロナギがそのドラゴンの何に興味を惹かれたのかは分からなかった。
クロナギは小首を傾げるハルからお茶の入ったカップを奪うと、それをテーブルに置いてからハルをバルコニーへと連れ出した。後からヤマトやラッチ、侍女たちもついてくる。
「どうしたの?」
「見てください。分かりますか? あの二体は平和の森にいた岩竜ですよ」
ハルの問いにクロナギはにっこり笑って答えた。この答えを言うとハルが喜ぶと分かっているみたいに。
「え、一号と二号っ!?」
そしてクロナギの予想通りハルは声を弾ませて喜び、空を見上げた。
遠くにあった小さな影は、みるみるうちに大きくなってバルコニーに近づいてくる。一体は緑色、もう一体は黄土色の、ごつごつとした硬そうな皮膚を持つ岩竜だ。
「一号! 二号! こっちだよ!」
ハルは一生懸命手を振ったが、そうするまでもなく、二体の岩竜はとっくにハルを見つけていたようだ。一直線にこちらへ向かってくると、二体も嬉しそうな顔をしてバルコニーへ着地した。このバルコニーは広いので、巨大な岩竜が降り立ってもまだ余裕がある。
「わぁ! また会えて嬉しいよ! ちゃんとドラニアスに戻ってたんだね!」
ハルははしゃぎながら、まずは二号――緑色の岩竜の大きな顔を抱きしめた。二号も目を細めて笑顔になる。
続いて黄土色の一号も同じように抱きしめると、一号は牙をむき出して笑った。そしてベロンとハルを一舐めすると、近づいてきたラッチの事も挨拶代わりに舐める。岩竜たちもラッチもお互いの事を覚えているようで、ハルと同じく再会を喜んでいる様子だ。
「そういえばあの赤い飛竜はどうしたかな……」
スリスリと頬を寄せてくる岩竜たちを撫でながら、ハルは呟いた。
自分を誘拐した赤い飛竜――三号と名付けたいところだが、彼は野生のドラゴンではないので、ちゃんとした名前をすでに貰っているかもしれない――は、ラマーンで別れてから、どこに向かったのか分からないからだ。
しかし、ハルの心配を打ち消すようにクロナギが口を開く。
「あの赤い飛竜ならドラニアスに戻っているようですよ。南の赤の竜舎にいたと、オルガが言っていました」
「そうなんだ、よかった! そのうち会いに行きたいな」
しばらく岩竜たちと戯れた後、ハルは住処に戻っていく彼らに手を振った。たぶんまた遊びに来るだろう。
小さくなっていく岩竜たちを見送ると、ハルはラッチに視線を移して言った。
「ラッチのお父さんとお母さんも見つけないとね」
 




