15
「あそこに見える城が、ハル様がこれから住まわれる禁城です。ドラニアスの政治と軍事の中心でもあります」
いつもの冷静な調子を取り戻したクロナギが、眼下を見下ろして言った。彼が指さす先にあったのは、孔雀緑の瓦屋根を持つ城だった。
壁は白で、窓枠や一階にある太い柱などは落ち着いた赤で塗られている。ジジリアの城とは雰囲気が違う不思議な様式の城で、ラマーンの宮殿ほど派手ではないが地味過ぎもせず、どこか渋い感じがして力強くもあった。上階に行くに連れて徐々に小さくなっていく、台形のどっしりした建物だ。
また、禁城からは、同じく緑の瓦屋根を持つ二本の通路が伸びていて、別の塔や建物に繋がっていた。
一番大きいのは禁城だが、敷地内には他にも様々な建物があるようだ。建物と建物の間には緑が茂る庭があったり、池なども見えた。空から見下ろすと全貌がよく見える。
「さぁ、着いたぞ!」
「降りましょう。一応しっかり鞍を掴んでいてください」
グヲタオが大きな声で言い、クロナギはハルのお腹に手を回したまま囁いた。クロナギのドラゴンであるヨミが鼻先を下げて、着陸のために高度を下げていく。
禁城の正面には白い石が敷かれた広場があるので、あそこに降りるつもりのようだ。地上ではハルたちを迎えるために竜騎士たちがぞろぞろと広場に出てきていた。
ヨミが緩やかに地面に着地すると、ハルは目の前の禁城を見上げた。ずっとヨミの頭の上に乗っていたラッチも、興味津々で故郷の景色を眺めている。
きょろきょろとあちこちを見回すラッチとは反対に、ハルは禁城をじっと見つめて呟いた。
「着いた……」
自分の父が住んでいた城がここなのかと思うと少し感慨深かった。そしてこの城には母であるフレアも一年ほど滞在していたのだと考えると、何だか不思議な感じがする。
二人とももうここにはいないのに、自分は今、竜騎士たちとここにいる。
けれど二人の思い出が残る場所に来られて嬉しくもある。この広場を父と母は手を繋いで歩いたりしたのだろうか?
アナリアに訊くのはまずいかもしれないので、二人がどれほど仲良しだったか、後でクロナギにでも話を聞かせてもらおうとハルは思った。
ヨミの背から降りるためクロナギに手を貸してもらっていたところで、城の中からも続々と竜騎士や文官、使用人らしき竜人たちが様子を見に出て来た。
皆、好意的な視線をハルに向けてきてくれたが、周りにレオルザークや将軍たちがいて近づき辛いのか、遠巻きに眺めているだけだ。
しかしその人垣の奥から現れた国の重鎮らしき老人たちは、遠慮せずにこちらに近づいて来る。
「戻ったか! 話は先に戻っていた竜騎士たちから聞いていたぞ」
「その子がエドモンド様の子か」
「皇帝の血は途絶えてしまったと思ったのに、まるで奇跡だ。国民がどれほど喜ぶか」
白髪頭の老人たちは全部で八人いたが、もちろんハルには彼らが誰なのか分からない。
(なんか、おじいちゃんがいっぱい来た)
とハルが思ったところで、クロナギがこっそり耳打ちして教えてくれた。
「彼らは八賢竜と呼ばれるドラニアスのご意見番です。何か国にとって重要な事を決める時には、皇帝、軍、八賢竜で話し合って決めるんですよ。八賢竜は城に仕えていた文官がなるか、引退した元竜騎士がなる場合が多いです。今いる八人の内、右側の四人も元竜騎士です」
どうりで老人にしては威圧感があるし、体も大きい。
ハルは相槌を打ってから、一歩前に進み出た。
「あの、初めま――」
「近くで見ると、本当にエドモンド様の小さい頃にそっくりではないか」
「そりゃそうだ。エドモンド様の子なのだから」
「だが女の子だからか、幼き頃のエドモンド様よりさらに小柄だ」
「女性の皇帝か。何代ぶりになる?」
「悪い虫がつく前に婚約者を決めねばならんな。強くて、賢く、誠実な男がいい」
「いや、その前に即位式だ」
「いやいや、その前に部屋を整えねば。家具と壁紙を新しい物にした方がいい。可愛らしいものに」
八賢竜は全く弱々しさのない元気な老人たちで、それぞれ好き勝手に喋り出しては、初孫が生まれてはしゃぐ祖父のように、先走って色々な準備を進めようとしている。
ハルが八人のお喋りに圧倒されてたじたじになっていると、ラルネシオが呆れたように口を挟んだ。
「じいさんたち、少し落ち着けよ。まずは挨拶でもしたらどうだ?」
「ん? おお! そうだな」
皆が口を閉じたところで、ハルは改めて名を名乗った。
「初めまして、ハル・リシュドラゴです」
クロナギに促されるまま、指輪をつけた手を持ち上げると、八賢竜は順番に自己紹介をしながら頭を垂れた。そしてハルの手を取って、自分の額の前に持っていく。
一度聞いただけでは八人の名前は全く覚えられなかったので、心の中ではまとめて『おじいちゃんたち』と呼ぶ事にする。
「レオルザークめ、前からこの子の事を知っていただろうに何故ずっと黙っておったのだ」
「全くだ」
八賢竜からちくちく責められても、レオルザークは普段通りの厳しい表情のまま知らん顔をしていた。レオルザークはドラニアス最強の竜騎士で軍の頂点にいるのかも知れないが、将軍たちに八賢竜と、頭が上がらない存在は多いようだ。
と、次にそんなレオルザークの名を呼んだのは、白くてさらさらの長い髪が特徴的な、細身の男だった。
「レオルザーク、無事に戻ってきたのですね」
男の言う「無事」とはレオルザークの体を指しているのではなく、無事にハルを受け入れて帰ってきた事を言いたいようだ。
そして聖職者のような白い服を着た男は、ハルの前で膝を折って目を細めた。
「よくドラニアスへ来てくれました。心から歓迎いたします。私はレオルザークの補佐官をやっておりますサイファン・ミラーと申します。どうぞお見知りおきを」
「うん、サイファン。よろしくお願いします」
ハルが手を差し出すと、サイファンは竜人の男にしては色白で細い手でそっとハルの手を取り、恭しく額に近づけた。
「では、さっそくお部屋に案内しましょうか?」
「そうですね」
サイファンの言葉には、ハルの代わりにクロナギが返事をする。
「色々あって、ハル様はまだ体調が万全ではありませんから」
「私は万全だよ」
部屋に行く前に禁城やその周辺の敷地内を見て回りたいと思って言ったのだが、クロナギには首を横に振られてしまった。
「無理をされてはいけません。今日はもうお部屋でゆっくりなさってください」
大丈夫なのに……と言いたかったが、周りにいるたくさんの竜人たちの目が気になったので、わがままを言うのはやめておいた。
「分かったよ。じゃあ部屋に行こう。でも私の部屋はある?」
「もちろんです。いくらでも部屋に空きはありますし、たとえ空いていなくてもハル様のために空けますよ」
クロナギが笑って言うので、ハルも笑って「なら、よかった」と返す。
「では、こちらです」
サイファンの先導に従って禁城の中に入っていく。外の白い階段を上ると――ここで誰かが戦ったみたいに階段の一部が派手に壊れているし、レオルザークが何故かそこから目を逸らしている――ずらりと横に並んだ太い柱の間を抜けて、開け放たれたままの正面の巨大な扉に向かう。
扉の脇には一対の大きなドラゴンの彫像が置かれていて、禁城の番人のように外から入ってくる者を睨みつけている。けれどハルには愛嬌のある顔立ちに見えた。
中に入ると、一階は渋い緑色の柱が延々並んでいるだけで、仕切りのない広いスペースになっている。
床はざらざらとした白い石で、壁にはドラニアスの歴史を描いているらしい布がいくつも飾ってあった。絨毯のように大きなタペストリーだ。
天井にもドラゴンの絵が描かれてあったりして、ドラニアスではダンスを踊る文化があるのかは分からないが、大規模な舞踏会も開けそうな豪華な場所だった。
そして一番奥の一段高い位置には玉座もある。その内あそこに自分が座る機会も出てくるのだろうが、考えるだけで緊張してしまう。
気を取り直し、二階に向かうため、一階奥の右側にある広い階段を上る。
その途中でふと後ろを振り返ると、サイファンやクロナギ以外にも、一緒にラマーンから帰ってきた面々から八賢竜たちまで、皆それぞれに雑談しながらハルの後に続いていた。
さすがにラッチ以外のドラゴンたちは竜舎へ入れられたようだし、貴族のような出で立ちの竜人や、城で仕事をしていると思われる文官、使用人たちは一階に留まったままだったが。しかし皆こちらを見上げてハルの後ろ姿を熱心に目で追っている。
ハルが後ろを気にしながら歩いていると、クロナギは苦笑して言った。
「皆、ハル様を目に入れていたいんですよ。ドラニアスの新たな希望を」
この国の希望だと言われるのは嬉しいし、期待に応えたいと思う。
けれど、ジジリアで誰の注目も浴びずに下女をしていた時とは違って、これからはどこで誰に見られているか分からないから、厨房へ入って余り物をつまみ食いしたりはできないなとハルは思った。
途中の階は素通りして六階まで一気に上るとハルは少し息切れしてしまったが、細身のサイファンも八賢竜たちも、この程度では呼吸が乱れたりはしないようだ。
六階の廊下には歴代の皇帝と思われる肖像画がずらりと並んでいたので、ハルはハッとして自分の父親を探した。
けれどハルが見つけ出すより先に、周りの皆が口々に教えてくれる。
「エドモンド様ならこちらですよ」
「おいで、こっちだ」
「ほら、この肖像画がそうだ」
違う肖像画を父かと思って眺めていたハルは、慌てて皆のところへ戻って、その前にある絵を見上げた。
「これが父さま……」
絵は絵だから、実物とは違うところもあるだろう。しかし丸い目や年の割に若く見える顔立ちは、自分に似ているように思えた。
思わず手を伸ばして父に触れようとしたところで我に返り、「あ、ごめんなさい」と手を引っ込める。芸術品でもある絵画に素手で触れるというのは、あまりよくないと思ったからだ。
「構いませんよ。少しくらい」
けれどサイファンがそう言うと、後ろで他の皆も頷いていた。一方は肖像画とはいえ、親子の邂逅を邪魔するのは忍びないと思ったのかもしれない。
「ほらよ」
「わっ」
オルガが前に進み出てきてハルを抱き上げ、肖像画のエドモンドの顔に近づけてくれた。その動作が乱暴だったためクロナギに叱られているオルガを横目に、ハルは父親をじっと見つめて、自分と同じ緑金の瞳を持つ目元を指で撫でた。
「父さま」
絵の中の父親は、優しい眼差しでこちらを見返している。
(私、頑張るよ)
ハルは心の中で誓った。
この国のため、そして大切なクロナギたちのために、これから自分は生きるのだ。
この土地で、皆で幸せに笑っていられるように努力をする。ドラニアスが未来永劫続くように。
「ありがと、オルガ」
とりあえず絵の中の父親との会話には満足したので、オルガに言って床へ下ろしてもらう。サイファンは再びハルを先導しながら部屋の説明を始めた。
「この最上階には皇帝の執務室もありますが、基本的には皇帝やその伴侶、そして御子様の居住空間になります。今は部屋はほとんど全部空いていますのでどこでも好きな部屋を選んでもらっていいのですが、とりあえずエドモンド様のお部屋に案内しましょう。日当たりも眺めも、あそこが一番いいですから」
「父さまの部屋を私が使っていいの?」
「もちろんですよ」
サイファンは蛇のように目を細めてほほ笑むと――頭の良さそうな顔立ちと相まって、サイファンが笑うと何か裏があるようにも見えるが、たぶん見た目ほど冷淡な人物ではないのだろう――廊下を進んで一番奥にある部屋の扉を開けた。
「エドモンド様のお部屋は生前生活されていた時のまま毎日掃除をしていますから、椅子も机もベッドもすぐにでも使えますよ。ベッドは隣の寝室にあります」
この広い部屋は居室のようで、ここで食事をしたりお茶を飲んでくつろいだりするプライベートな空間のようだ。部屋の右手には扉があって、そこが寝室に繋がっているらしい。
しかしまずハルの目に入ったのは、奥の硝子の扉の向こう見えたバルコニーだった。
「わぁ! 広い!」
ジジリアの城やお屋敷にある華やかでロマンチックなものと比べるとこちらも若干渋い雰囲気だが、ハルがラッチと駆け回ってもまだまだスペースが余るくらいに広さはある。
サイファンが扉を開けてくれたので外へ出てみると、気持ちいい風が吹いていた。
「ドラゴンに乗ったまま、ここへ降り立つ事もできますよ。今回は城の者たちもハル様の姿をひと目見たいだろうと、あえて正面広場で降りましたが」
ハルが欄干から身を乗り出さないか注意しながらクロナギが言った。六階まで階段を上がるのは疲れるので、ドラゴンに乗ったまま直接ここへ来れるのなら有り難い。
バルコニーからは正面広場が見えた。四角い敷石や植木がきちっと並んで、芝生の色にもムラがない。完璧に左右対称に整えられた庭である事が上から見るとよく分かった。
けれど少し画一的だし色彩が乏しいのが寂しくもあるので、そのうち綺麗な花をどこかに植えてもらおうとハルは考えた。
「クロナギ、次代をあまり手すりに寄り掛からせないように。小さいから隙間から落っこちるかもしれん」
「見ているとヒヤヒヤするな」
「そろそろ小陛下を部屋の中へ」
「クロナギもアナリアも、次代がバルコニーに出る時は目を離さないようにな」
八賢竜や将軍たちに言われて、クロナギは年寄りから小言を言われる若者のように少しだけうんざりした顔をした。
「分かっていますよ」
ハルがくすくす笑うと、クロナギも笑みを漏らして「うるさいので戻りましょうか」と小声で言ってハルの背に手を添えた。
いつもは大人なクロナギも、レオルザークと同じく、八賢竜や将軍たちの前では少し子どもっぽい言動を見せるみたいだ。
部屋に戻ると、アナリアが五人の女性を引き連れて廊下から中へ入ってきたところだった。
「ハル様、侍女を紹介します」
アナリアがそう言って初めて、ハルは彼女たちが侍女なのだと認識できた。何故なら五人ともジジリアの侍女たちが身にまとうようなひらひらしたドレスは着ておらず、詰め襟で、体の形に沿った衣装を着ていたからだ。
丈は足首が隠れるほどで、裾には膝下の辺りからスリットが入っている。袖も手首まであり、素肌の露出は少ない。
これはドラニアスの伝統的な衣装なのか、よく見れば、聖職者のようだと思っていたサイファンの服も同じような作りだった。
違いと言えば、サイファンの服は腰の辺りからスリットが入っているものの、下にはズボンを履いているという点。
あとは、サイファンの服はシンプルな白色だが、侍女たちの服は淡い水色や黄色で、襟周りに小花の刺繍がしてあったりする。
侍女たちはドラニアスの貴族令嬢のようで、皆上品で控えめ、そして美人だった。アナリアほど派手な美女ではないけれど。
しかしそのおしとやかな見た目とは裏腹に、おそらく彼女たちも皇帝を守るためにある程度は戦えるのだろう。
(いつだったかクロナギが言ってたもんね。『戦闘訓練を積んだ侍女』って……)
印象深い言葉だったので頭に残っている。
ハルは恐る恐る侍女たちに近づいてみたが、目を合わせると皆優しそうにほほ笑んでくれたのでホッとした。
「こんにちは。よろしくお願いします。ハル・リシュドラゴです」
指輪をつけた左手を相手の前に差し出す、という慣れない挨拶をする。侍女たちは八賢竜たちと同じようにハルの手を取り、自分の額に近づけた。
「竜騎士様たちに話を聞いて、わくわくしながらご到着をお待ちしておりました」
「本当にエドモンド様の生き写しですね」
「あら、けれど女の子ですもの。エドモンド様よりも可愛らしいわ」
「お、お世辞はいいよ……」
容姿は褒められ慣れていないので、ハルは必要以上に赤くなりつつ言った。
しかし水色の服を着た一番年上らしき侍女は、上品にほほ笑みながらしっかりとした口調でこう返してくる。
「まぁ、お世辞ではありませんわ。エドモンド様もよくご自分の容姿を平凡だと言っておられたようですが、私たちはそうは思いませんでした。ハル様の事も、本当にとっても可愛らしいと思っていますよ」
「分かったよ、ありがと」
ハルは耳まで赤くしながら慌てて言う。オルガが面白がってニヤニヤしながら見てきたので、照れ隠しに睨んでおいた。
侍女は続けて言う。
「ハル様、では今日はもうお部屋でゆっくりされてください。部屋着は用意してありますので、あちらで着替えましょう。お手伝い致します」
「うーん、うん」
着替えを手伝われるのは恥ずかしいなと迷いながらも、ハルは結局頷いた。寝ぼけている朝にはアナリアに服を着せてもらったりした事があるし、クロナギも上着を着るのを手伝ってくれる事があるから、着替えさせてもらうのには段々慣れつつあるのだ。
侍女たちに手を引かれ、ハルにくっついてきたラッチと共に寝室の方へ向かうと、
「じゃあお父様たちは仕事に戻ってちょうだい。ハル様の護衛には私やクロナギがついてるわ」
アナリアは片手を腰に当てながら将軍や八賢竜たちの方を振り返った。そうして、部屋に置いてあるソファーに座ってくつろいでいた自分の父親やラルネシオを立ち上がらせ、廊下へ追い出している。
皆がぞろぞろと部屋を出て行く中、最後にはレオルザークも扉へ向かった。しかし廊下へ出る直前にこちらへ顔を向けたので、ハルも寝室へ入る直前に彼に手を振ってみた。
「また明日ね」
手を振られたレオルザークは笑顔こそ見せなかったものの、急に話しかけられて動揺したのか、眉間の皺を消して硬直した。
そしてその後、胸に拳を当ててぎこちなく礼を取る。
「レオルザークって面白いよね」
クロナギは居室の方に残ったようだったので、侍女たちと一緒に寝室に入ってきたアナリアにそう話を振った。
「そうですね。まだハル様と話すのは慣れないようです」
アナリアは少し考えた後に、くすりと口角を上げてそう言ったのだった。
一方、その面白いレオルザークは、ハルの部屋から出た後でサイファンたちと別れ、一人で禁城の近くにある黄の竜舎にやって来ていた。
そこには馴染みの調教師の男がいたのだが、今、彼が構っているのはドラゴンではなく、黒ブチの柄の子猫だった。しっぽは途中で切れているかのように短く、美形ではないが愛嬌のある顔をした猫だ。
レオルザークは緩く片眉を上げた後、男に声をかける。
「その子猫は……」
「おや、レオルザーク総長」
調教師の男は、この前会った時とは全く違う、晴れやかな表情をしていた。
けれど男から見たレオルザークも同じような顔をしていたらしい。
「総長さん、今日は随分明るい表情をしておられますね。エドモンド様の御子様がお帰りになったと聞きましたが、どうやらその子が総長さんを変えてくれたようだ」
ほがらかに笑う調教師の言葉にレオルザークは反論をしなかったが、自分の事を話すのは苦手なので、話題を子猫に戻した。
「その子猫は、例の子猫だろう? ブチが死んだ後に現れた……。知人に貰ってもらったと言っていなかったか?」
「ええ、そうなんですが、私が毎日毎日様子を見に行っては元気かどうかをしつこく訊くもんだから、知人に呆れられましてね。気を遣われて、『そんなに心配ならお前が面倒を見ろ』と返されちまったんです」
調教師の男は、少し照れた様子で地面に寝転んでいる子猫を見た。
「知人から言われたんです。『こんなにそっくりな猫があんたの前に現れたのは偶然じゃない。あんたがずっと気に病んでるもんだから、ブチが心配してこの子を連れて来てくれたんだよ。この子を幸せにして、それであんたの心が晴れるのをブチは願ってるんだよ』ってね。それで私も、ああそうかもなと思ったんです」
手を伸ばすと、子猫の顎を優しい手つきで撫でて続ける。
「総長さん、こいつを見てるとね、最初はブチの苦しんでる顔ばかり思い出しちまってたんです。けど今は、病気にかかる前の幸せな思い出も頭に浮かぶんですよ。ほら、ブチもこうやって顎を撫でられるのが好きだったなとか、ここでよく日向ぼっこをしてたなとか、忘れちまってた何気ないけど大切な記憶を、こいつは思い出させてくれるんです。そりゃあ最後は悲しい事が多かったですけどね、それでも幸せで楽しい思い出の方が多かったんですよ。それを思い出しました」
「そうか……。それはよかった」
レオルザークは目をつぶって、僅かに頬を緩めた。
頭に浮かんでいるのは、エドモンドと彼にそっくりなハルの姿だ。
自分も調教師の男もずっと立ち止まって、もういなくなってしまった存在に縋り付いていたけれど、これからはまた前に進めるだろう。
エドモンドは常に心の中にいるし、その死を忘れる事は決してできない。
けれどハルの事を考えると、冷えた心がじんわりと温まっていくような気がするのだ。
レオルザークは禁城の最上階を仰ぎ見た。
あそこはもう、空っぽではない。
そう思うと、とても前向きな気持ちになれた。




