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一瞬、そこにいる全員がハルの笑顔に目を奪われたが、ハルが改めて黒髪の男に向き直ると、カミラたちもそちらへ視線を向けた。
「助けてくれてありがとう」
ハルが言う。
「だけど、あなたは誰?」
首を傾げて相手を見上げると、男は優雅な笑みを浮かべた後でスッと膝を折った。
地面に片膝をつき、頭を下げると、拳をつくった右手を心臓に当てる。
ハルは、身分の高そうな大人の男性が平凡な小娘である自分に跪いた事におののいていた。
(何なんだろう、この状況は?)
居心地が悪いったらない。
男は頭を下げたままで名を告げた。
「ご挨拶が遅れました事どうかお許しください。帝国竜騎士軍、近衛隊所属のクロナギ・ロードと申します。ドラニアス帝国から、貴方様をお迎えに上がりました」
「……言ってる意味がちょっと解りかねますが」
ハルは指輪を両手でぎゅっと握りしめた。聞き慣れない単語がたくさん出てきた。
(竜騎士軍とか近衛隊とか何のこと? この人、本当に私に言ってるのかな? アルフォンス様とかじゃなく? いや、もしかしてラッチに言ってる? ドラニアス帝国といえば、竜の国の正式名称だし)
しかし顔を上げたクロナギの視線は、残念な事に一直線にハルに向いていた。
そして彼は、大真面目に信じられない事をのたまったのだ。
「混乱されるのも無理はありません。しかし貴方はこの世で唯一、ドラニアス帝国皇帝位の継承権を持つお方なのです」
「う、うん。……うん?」
状況がのみ込めないハルよりも大きなリアクションをかましたのはアルフォンスだった。
「ドラニアス帝国の帝位継承者!? ハルが!? 何を馬鹿げた事を……この娘はうちで働くただの下女だぞ!」
「黙れ」
そう言ったクロナギの声は静かで落ち着いていたが、同時に突き放すような冷淡さを持っていた。ハルに話しかけていた声とは全く違う。
クロナギは立ち上がると、冷ややかな瞳でアルフォンスを見下ろした。アルフォンスも負けじと睨み返しているが、内心怯んでいるのは明らかだ。
「帝国から来たと言ったな。……ということはお前、竜人か?」
ハルは「あ……」と声を漏らした。クロナギが竜人ならば、魔獣をあっという間に倒してしまった事にも納得がいくと思ったのだ。
本などで得た竜人の知識を頭の中で掘り返す。
竜人の一番の特徴と言えば、『戦闘種族』とまで評される高い戦闘能力だ。
運動神経に反射神経、筋力、視覚聴覚嗅覚と、戦う事に必要なありとあらゆる能力が人間よりもずっと高いのである。しかもそれを毎日の厳しい鍛錬でさらに鍛えているとか。
人間よりも圧倒的に数の少ない種族だが、個々の力は強く、軽く訓練を積んだ竜人の子どもなら、人間の熟練兵士も倒してしまうという。
外見的には人間とほとんど変わらないが、身長も竜人の方が高い。また、彼らは生まれつき筋肉がつきやすく脂肪のつきにくい体質だという。
ハルはクロナギをもう一度見た。
背が高く、細身だが鍛え上げられた肉体を持つ彼は、確かに竜人なのだろう。それは簡単に信じられる。
(だけど私は……私が帝位継承権を持っているというのは……)
周りの景色がぐるぐると回っている気がする。今日は色々な事がありすぎた。
脳みそが「今日はもうムリ! 休む!」と勝手に思考を停止させる。
ラッチが心配そうな目でこっちを見て――
ハルの意識はそこで途切れた。
夢を見た。
これは夢の中だと分かる夢。
何故なら、死んだはずの母が目の前にいるからだ。
ハルの母フレアは呼吸器系の持病の悪化により体調を崩し、亡くなる前はベッドの上で毎日苦しそうに咳き込んでいた。
しかし夢の中での母は生前の元気な時と変わらぬ様子だったので、ハルは安心した。
お花畑の中にいる母は、周りの花たちに負けないくらい可憐で美しい。
フレアのように性格も良くて外見も綺麗な人間など他にはいない、とマザコンのハルは思っている。
世界一優しくて、世界一美しい自慢の母なのだ。
ふわりとほほ笑んでこちらを見つめている母に、ハルは言った。
「今日、クロナギっていう竜人の人に会ったよ。私に帝位継承権があるって、よく分からない事を言ってたけど……母さまって竜人だったの?」
娘の質問に、フレアはほほ笑んだままで首を振った。
違うらしい。
ハルは頷く。
「だよね。母さまには竜人の特徴が当てはまらないもん。体は弱いし」
穏やかで、か弱い母が、戦闘種族なはずない。
「じゃあ父さまだ。父さまが竜人だったんだね。しかも私に帝位継承権があるなら、かなり位の高い人だったんだ……つまり皇帝とか」
フレアが、美の女神も嫉妬するような表情で笑った。
ハルの予想は当たったらしい。
「そうなんだ……。でもまぁ納得できるよ。母さまくらいの魅力があれば、竜人の皇帝を落とすのもわけないもん」
ハルはいたずらっぽく笑った。
母は貴族ではない庶民だし普通の人間だが、身分や種族の差を気にせず母に目を留めるとは、ドラニアスの皇帝――つまりハルの父らしいが――もなかなか見る目があるな、と。
でも、とハルは考える。
自分が生まれた時には母は独り身だった。大人の事情は分からないが、一緒に暮らしてはいけない理由が何かあったのかもしれない。
もしかしたら、種族の壁が二人の愛を引き裂いてしまったのだろうか。
しかし離れていても、母は父をずっと想い続けていたはずである。
母から父の悪口は聞いた事がないし、父から貰ったというあの指輪を見る時の母の切ない表情ときたら……ハルの胸の方が引き千切れそうだった。
「でも待てよ。ということは、私って半分竜人なんだ」
それにしては身長も低いし、運動神経も特別良い訳ではないけど。
一体どうしてだろうとハルが考えているうちに、周りの景色が歪み始めた。
「あ、やばい。母さま!」
笑顔で佇む母親を夢の中に残し、ハルは現実の世界へと引きずり戻された。




