10
ハルは砂の上に腰を下ろし、解術の呪文が書かれた七枚の紙をずらりと自分の前に広げた。今日は風は強くないので飛ばされる事はないだろう。
自分が覚えなくてはならないわけではないのに、難しそうな呪文を見ただけでオルガとソルは嫌な顔をしていた。
グオタオに後ろから捕まえていてもらい、アナリアを膝立ちにさせる。アナリアは睨むようにハルを見ていた。「離せ」と歯を剥きながら、自分の父親にも威嚇している。
痛む右手を持ち上げると、ギシギシと音が鳴った気がした。骨にまでダメージが行っているのかもしれない。
握った杖をアナリアに向け、ハルは呪文を唱え出した。それと同時に体内で魔力を練る。
クロナギは隣で静かに控えていて、レオルザークや他の三人の将軍、そしてドラニアスの大勢の竜騎士やドラゴンたちも息を殺して見守ってくれているようだ。
皆ハルの後ろにいるが、ハルが集中しているのを分かっているのか衣擦れの音一つ聞こえてこない。
ただ一人、三つ編みの魔術師だけが「何故解術の呪文を知っている……」と信じられない様子で呟いていた。
長い呪文が終盤に差し掛かると、ハルは練った魔力を右腕に流した。丁寧にできたと思ったが、腕の状態が酷いので痛みを感じる。
濃い魔力が腕を通ると、焼かれているように熱くなるのだ。
けれどハルは顔を歪める事すらせずに呪文を最後まで唱えきり、魔力を杖へ押し込んだ。
タイミングは完璧だった。
一瞬の内に杖の先から青白い光が飛び出し、アナリアに当たったのだ。
その光に包まれると、アナリアは雷に打たれたかのようにほんの一秒間硬直する。
しかし次の瞬間には、「うぅ……」と声を漏らしながら全身から力を抜いた。グオタオが支えていなければ前のめりに倒れていたかもしれない。
「アナリア! 大丈夫か!? 正気に戻ったのか!?」
グオタオの声にアナリアは顔を上げた。けれど父親の方は見ずに、まず正面にいたハルへと視線を合わせてきた。
アナリアは憔悴した顔をしていたけれど、その目はもう虚ろではない。
「……ハル様」
アナリアの囁きにハルは息をのんだ。名を呼んでくれたという事は、ちゃんと自分自身を取り戻しているという事だ。アナリアの心を支配しているのは、もう三つ編みの魔術師ではない。
ハルはすぐに立ち上がると、アナリアの体に飛び込むようにして抱きついた。
魔力が空っぽになれば自分は気を失ってしまうかと思ったのに、まだ立ち上がれる体力は残っていたようだ。
「アナリア……! 戻ったんだね、よかった!」
安心したら、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。解術には自信があったけれど、やはりどこかで「失敗したら」と考えて恐怖していたのかもしれない。
「ハル様、申し訳、ありません……」
グオタオが手首の拘束を解いたので、アナリアは自由になった腕でハルを抱きしめながら、かすれた声で言った。
「どうして謝るの?」
ハルは小首を傾げた。アナリアが元に戻れば、どうして自分がここにいるのか、いつの間にハルと再会したのか、わけがわからないといった顔をするだろうなと予想していたのに。
しかしそこでとある可能性に思い至って、ハッと瞳を凍りつかせる。
「まさか、記憶があるの? 自分が操られていた事、分かってたの?」
その質問にアナリアはギリッと奥歯を噛んで頷く。
「……はい、サイポスの魔術師に、術をかけられた時から……意識はずっとありました。けれど体を支配しているのはそれとはまた別の意思で、その意思が勝手に体を動かしているような感覚で、私はあの男の言う事を聞かなくてはいけないと思っていて……」
燃えるような紅い目でアナリアが魔術師の方を睨むと、魔術師は顔を青くさせた。
「そんな……全部覚えてるなんて」
魔術師の奴隷になっていた記憶なんて無い方がよかったのにとハルは思った。アナリアにとっては屈辱の記憶だからだ。
「……何も酷い事されなかった?」
訊かない方がいいかもと思いながらも、どうしても気になって尋ねてしまった。アナリアの答えによっては、ハルもあの三つ編みの魔術師を殴らねば気が済まないからだ。
しかしアナリアは、ハルの質問には小さく首を横に振った。
「ハル様が何を心配してくださっているのか理解しています。けれど、あの男にとって竜人は人間とは全く別の生き物らしいので、そういう意味で手を出される事はありませんでした。それにあの男は案外臆病者のようです。術にかかっていて抵抗されないと分かっていても、この私をものにする度胸はなかったのでしょう」
自分の美貌をよく分かっているアナリアは、勝気に言いながら僅かに口角を上げた。疲れた表情をしているが、少しいつもの調子が戻ってきたようだ。
「あの男から命令されたのは戦う事ばかり。反抗的なサイポスの部下を自分の代わりに殴らせて、ラマーン兵たちを攻撃させる。戦うのは嫌いではありませんが、あの男のために戦うのは苦痛以外の何物でもありませんでした。ほんの数日でも、あの男に膝を折って頭を垂れていたなんて……」
アナリアはそこでもう一度強く奥歯を噛んだ。
ハルはアナリアの瞳を覗き込んで訴える。
「全部忘れて。あんな魔術師なんていなかった。アナリアの心にいるのは今も昔も父さまだけでしょ?」
しかしアナリアはそこで一度瞬きすると、次には困ったようにほほ笑んでハルを見つめた。
「いいえ、ハル様。今はエドモンド様だけではありません。私の心にはハル様もいます。そして今、私がかしずく主人はハル様だけ」
ハルの柔らかい頬に軽く触れて、アナリアは再度謝罪した。
「申し訳ありません。ハル様が大変な時に、油断してあのような魔術師に術をかけられ、いいように操られていたなんて……」
「もういいよ。アナリアってばクロナギと同じように謝るんだから。私の風邪はとっくに治ってるし、こうして無事に再会できたんだもん。謝るより喜んでほしいな」
その言葉にアナリアは「はい」と表情を緩め、自分の髪を縛っていた紐を取り去った。三つ編みを解いて軽く頭を振ると、いつものアナリアの髪型に戻る。
ハルは、にっこり笑って満足気に言った。
「うん、この方がいい――」
そしてそのまま、何の前触れもなく、ねじの止まったおもちゃのようにアナリアの方へ倒れる。
「ハル様?」
「アナリア、右腕には触れるな」
意識を失ったハルを起こそうとしたアナリアを、クロナギが止めた。
「ハル様、どうしたの?」
「疲れが出たか、あるいは魔力が尽きたせいで気を失ったんだろう」
「魔力が? 大丈夫なの?」
「人間の中には全く魔力を持たない者もいるが平気で生きている。魔力が無くなっても死ぬ事はないはずだ。ただ、今まで当たり前にあったものが無くなったから反動がきているのかもしれない。十分な休息を取れば回復するだろう」
「なら、右腕は? どうして手袋を? 怪我をされているの? 血の匂いが……」
クロナギは少し躊躇してから、端的に伝えた。
「解術の練習で腕を痛められた」
アナリアは目を見開く。
「解術の練習で? 私のせいって事……?」
「お前のせいではないが、お前のためではあった。ハル様は最短でお前を元に戻そうとして、無理をされたんだ。お前が奴隷となっている時間は、一分一秒でも短い方がいいと」
クロナギは自分のマントを敷いてからハルを砂の上に寝かせると、ナイフで慎重にハルの手袋を裂いた。コルグの手袋はハルには大きく、隙間があったので、ナイフの刃を入れやすい。
「そんな……!」
あらわになったハルの右手を見て、アナリアは震える声を出した。クロナギ以外のこの場にいた全員が息をのむ。怪我を知っていたはずのヤマトやコルグでさえも。
ハルの手は、肘のあたりまで全体的に血に濡れて真っ赤に染まっていた。縫われたはずの傷は開いてしまっていて、手のひらは火傷を負ったように酷くただれて皮膚が溶け、親指と人差し指、中指の爪は割れてほとんど剥がれかけている。
ハルは竜騎士のように怪我に慣れているわけではないだろうに、よく今まで悲鳴を上げずにいられたなと思うような状態だ。
「傷、開いてるじゃないですか!」
「止血しないと……! おい、誰か、布だ!」
コルグが叫び、ヤマト竜騎士たちに向かって言うと、竜騎士たちはわたわたと自分の荷物を漁り始めた。
「骨や神経も無事とは言えなさそうだな。後遺症が残るか、最悪右手はもう使い物にならなくなるかもしれん」
ジンが冷静に呟く。
「私のせいで、こんな……」
小さな声で囁くアナリアに、クロナギが言った。
「自分を責めない事だ。ハル様は自分が傷つけばアナリアが悲しむと分かっていたが、自分の意志で早い解術を望まれた。これはハル様が選んだ事だ。たとえ右手が使えなくなってもハル様は後悔されない。……アナリア?」
うつむいて何も言わなくなったアナリアに声をかける。やがて一粒の涙がアナリアの頬を伝って砂の上に落ちた。
「そうよ、私は自分を責めてる。守るはずの主に助けてもらって、こんなに酷い怪我までさせて、竜騎士失格だわ。……だけど、だけど感謝もしてる。ハル様は私のプライドの高さをよく分かってくれていたのね。見知らぬ男の奴隷にされていたなんて、あんな屈辱的な状況はもう一秒たりとも我慢できなかったのよ。術のせいでできなかったけど、何度も舌を噛もうとしたわ」
そこで三つ編みの魔術師が呻く声が砂漠に響いた。オルガがその体を蹴ったからだ。
「やめてオルガ。殺さないでよ。私に残しておいて」
アナリアは一旦ハルから視線をそらして忠告した。オルガは残念そうな顔をしながらも、魔術師の息の根を止める権利をアナリアに譲る事にしたようで、それ以上、手や足を出す事はなかった。
アナリア視線を元に戻し、砂がついてぱさぱさになったハルの髪を撫でる。
「ハル様が私にかかった術を解くために一番早い方法を取ってくれた事、感謝してる。本当なら、『私の事はどうでもいいからハル様にこんな無茶をしてほしくなかった』って、そう思うべきなのかもしれないけど。……ハル様がこの方法を取ってくれてよかった」
そう本音を漏らすと、アナリアは顔を上げてクロナギを見た。
「失望した? 本当に護衛失格よね、私」
「いや……」
クロナギは一拍置いて続ける。
「気持ちは分かる。自分が認めた主人以外に従わせられ、膝を折るのは、この上ない屈辱だ。考えただけで死にたくなる」
そこで振り向くと、クロナギはレオルザークに向かって言った。
「総長、あなたは先ほどハル様にこう言いましたね。ドラニアスのためにその身を捧げられるか、と」
レオルザークは黙ってクロナギを見返している。
「このハル様の右腕を見ても、まだ同じ事が言えるでしょうか。ハル様はアナリア一人のためにここまでできる方です。例えばドラニアスのために自分が死ななければならないような状況になれば、簡単に自分の命を捨ててしまわれる方ですよ。俺たちはむしろ、ハル様がドラニアスのために自分を犠牲にしないよう、監視しなければならないくらいだ」
クロナギに続いて、今度はヤマトが口を開く。
「総長がハル様をドラニアスに近づかせないようにしていたのは、混血の皇帝では、その存在を認める者と認めない者とで争いが起きて、国が混乱すると考えておられたからですよね?」
そこまで言うと、ヤマトは周りで見守っていた大勢の竜騎士たちに向かって声を張り上げた。
「なぁ、皆! この子をどう思う? この子はエドモンド様と人間のフレアの子だ。混血だ。混血の皇帝は認められないか?」
ラマーンとサイポスの戦いの騒音が遠くから聞こえてくる中で、この場はしんと静まり返った。
しかしやがてぽつぽつと、竜騎士たちは声を上げ始める。
「お、俺は認める……」
「私も」
「俺もだ。まだ会って一時間も経ってないが……この子なら大丈夫な気がする。混血だという事は気にならない」
「そうだな。俺も直感でそう思う。彼女にはドラニアスに来てほしい」
「ええ、そして私たちの……新たな主になってもらうのよ。ドラニアスの皇帝に。だって他に誰がなれるっていうの?」
「そうだ。彼女しかいない」
ドラニアス軍のほぼ全ての竜騎士がいるというのに、認められないと言う者は一人もいなかった。
ヤマトは改めてレオルザークに向き直る。
「おそらくドラニアスの国民たちもハル様の存在を知れば、ここにいる竜騎士たちと同じ意見を持つでしょう。つまり、皆の気持ちは一つです。ハル様が皇帝になっても、総長が心配していたように国が混乱する事はないと思います」
ヤマトやクロナギ、将軍たちや竜騎士たちも、皆一斉にレオルザークを見た。
レオルザークはその視線を受け止めながら、静かにハルの顔を見つめる。痛々しい右腕には目を向けられないようだ。
やがていつも通りの低い声で、レオルザークは淡々と言う。
「……確かに、私の心配は杞憂だったのだろう。皇帝が混血であるかどうかは問題にはならなさそうだ。皆の意見が一つなら、私は何も言わない。私の望みはドラニアスが一つである事、それだけだ。新しい混血の皇帝のもとにドラニアスがまとまるならそれでいい。……その子どもをドラニアスに迎え入れよう」
レオルザークの言葉に、竜騎士たちはあちこちで歓声を上げた。ドラゴンたちも興奮している。
けれどレオルザークの心は、まだどこか冷えたままだった。エドモンドそっくりの顔をしたハルと、この先ずっと顔を合わせなければならないかと思うと恐ろしいのだ。毎日毎日、エドモンドの死を突きつけられる事になるだろう。
けれどレオルザークにとって大切なのはドラニアスがまとまる事だ。自分の心の痛みは二の次にしなければならなかった。
「総長、ハル様の意識がないうちに、ちゃんと顔を見て慣れておいてくださいね」
レオルザークのトラウマを全て分かっているかのようにクロナギが言った。レオルザークが睨んでもどこ吹く風で態度を変えない。
「総長はきっとハル様を避けるようになるでしょう。エドモンド様に瓜二つの顔を見ていられずに目を逸らし、極力話しかけず、出会わないように避ける。きっとそうなります。けれどそれではハル様が悲しむ。自分は嫌われているなんて、ハル様にそんな勘違いをさせないでください」
レオルザークは険しい顔のまま、クロナギからハルに視線を移した。
クロナギから指図をされた事には腹が立つが、図星でもあるので反論できない。苦々しい顔をしながらレオルザークはハルに近づいていった。
恐る恐るハルの側で膝をつき、顔を覗き込む。
ハルの閉じられたまつ毛は髪と同じ薄茶色で、ゆるい曲線を描く眉はエドモンドのものより少し細い。
唇は僅かに開いていて静かな呼吸を繰り返しており、小さな鼻は顔の真ん中で可愛らしく存在を主張している。
けれどハルは青い顔で死んだように眠ったまま、ぴくりとも動かない。呼吸をしているから生きていると分かるが、そうでなければまるで死体のようだった。
レオルザークの脳裏に、エドモンドの死に際の顔が鮮明に浮かび上がる。ハルが目の前にいるからか、いつもより現実的で鮮やかに記憶が呼び起こされた。
何度も何度も針で心臓を刺されたかのように胸が痛み、レオルザークは震える息を吐いた。
いつの間にか手には汗をかいている。
辛い、と思った。
これはエドモンドからの試練だろうか。自分そっくりな跡継ぎを、ここへこうして連れてくるなんて。
エドモンドを守れなかった事実を一生忘れるなと責めているのか。
「……頼む」
頭の中に浮かんでいるエドモンドの死に顔を消したくて、レオルザークはハルに囁いた。その頬を撫でて懇願する。
「頼む、笑ってくれ……。笑っている顔が見たい……」
意識のない相手にそんな事を言ったって意味のない事だとは分かっていたが、レオルザークは耐えられなかった。
これ以上、死んだように眠っている顔を見るのは辛かった。
「笑ってくれ……」
しかしその時。
レオルザークが指先でハルの頬を撫でた瞬間、ハルは表情を崩して、くすぐったそうに笑った。
声こそ出していないが、唇の端を持ち上げてえくぼを作ったのだ。
それを見て、ああ同じだとレオルザークは思った。エドモンドも笑うとこんなふうにえくぼができるのだ。
そしてその瞬間、レオルザークの脳裏には、エドモンドとの思い出が次々と花開くように蘇ってきた。
お菓子を食べて「美味しい」と笑ったエドモンドの顔。執務の途中に居眠りをして、がくんと机に頭を打ち、照れくさそうにこっちを見た顔。ドラゴンと戯れて楽しそうにしている顔。庭園の芝生の上に寝転んで、気持ちよさそうにしている顔。フレアを見ている愛情深い大人びた顔、それに将軍たちと冗談を言っているときの子どもっぽい顔。
全て何気ない日常の思い出だが、エドモンドの死があまりに強烈過ぎて、今まで思い出す事はなかった。
けれどやっと、エドモンドとの記憶は彼を守れなかったという辛く悲しいものだけではなかったという事を、レオルザークは思い出す事ができた。
ハルをここへ連れてきたのは、確かに亡きエドモンドだったのかもしれない。
しかしそれはレオルザークを責めるためではなかった。冷静に考えれば、優しいエドモンドがそんな事をするはずがないと、そう思える。
エドモンドはむしろ、レオルザークが自分の死をずっと気に病んでるものだから、心配してハルを連れて来てくれたのではないだろうか。
エドモンドは二度目のチャンスをくれたのだ。ハルを幸せにして、それでレオルザークの心が晴れるのを願っている。
レオルザークは泣きそうだった顔を引き締めて、ハルを――新たな主を見つめたまま力強く誓った。
「同じ過ちは繰り返さない。……今度は必ず、守り抜く」
クロナギはその宣言を聞くと静かに笑って、ハルが言っていた情報を伝える。
「ハル様が仰っていました。ラマーンのティトケペル王子は優秀な魔術師らしく、癒やしの術も使えるかもしれないと」
そうして痛々しいハルの腕にちらりと視線を向ける。
レオルザークは眉間に深い皺を寄せた。
「ラマーンの人間は信用できん。エドモンド様がラマーン王の魔術によって殺されたのを忘れたか」
「王子は父親ほど愚かな人物ではないようです。ハル様は彼を信用していますし、俺はハル様の人を見る目を信じています。ですので俺も王子を一応は信用しています。それにハル様のこの腕を治せる者はドラニアスにはいません。サイファン補佐だって癒やしの術は使えないでしょう?」
レオルザークの幼なじみであり補佐官でもあるサイファンはドラニアス唯一の魔術師だが、独学で地道に学んできた事もあって、高度な魔術は使えない。
眉間の皺を濃くしたままのレオルザークに、クロナギは畳み掛けた。
「魔術なら、この酷い怪我も一瞬で治ります。後遺症も出ないかもしれない。それになにより、ハル様に長く痛い思いをさせずに済む。俺だってラマーンの王子に頼るのは嫌です。総長が言うように一年前のエドモンド様の事件を思い出しますし、これ以上ハル様には彼に心を許してほしくないので」
クロナギは嫉妬を僅かに表に出して続けた。
「けれどハル様の痛みが最小限で済むのは、魔術による治療です。ハル様に痛みと苦しみを感じさせないためなら、俺はラマーンの王子を頼ります」
クロナギに続いてグオタオが慌てて言う。
「レオルザーク、早くせねば次代が死んでしまうかもしれんぞ。こんな小さな体でこんなに血を流していては……!」
ハルは今すぐ命の危険が迫るような怪我ではなかったが、グオタオにとっては小さな子どもに見える体で血にまみれているのは見ていられないのだろう。
レオルザークが厳しい顔をして口を開こうとした――その時だった。
突如として、黄色い砂漠に低い地鳴りが響く。
音と振動で体が揺れ、ドラゴンたちがざわめく。
そして砂が波のようにうねったかと思うと、ハルたちがいるすぐ側の地面が勢いよく盛り上がっていった。
「な、なんだっ……!?」
捕らえられたままの三つ編みの魔術師が、揺れる地面に動揺して声を上げた。竜騎士やドラゴンたちも砂の下を警戒する。
クロナギとアナリアはいつでも逃げられるようにハルを抱き上げ、そしてレオルザークは厳しい顔をして立ち上がった。
地鳴りと共に盛り上がった砂の中から姿を現したのは、巨大で真っ黒な、ムカデに似た魔獣だった。
たくさんの足に、鎧のような甲殻、強靭そうな顎を持ち、それをカチカチと鳴らしながら、獲物を探している。
「魔獣だ! おい、私に杖をっ……!」
悲鳴を上げる三つ編みの魔術師に魔獣は一瞬気を取られたようだったが、聴覚より嗅覚の方が鋭いのか、ハルの腕から流れる血の匂いを嗅ぎ取って、そちらへと顔を向けた。
意識のないハルは自力で逃げる事もできずに、クロナギに抱かれたまま魔獣に狙われる。
「クロナギ!」
すぐに動こうとしないクロナギを急かすようにアナリアが言った。
けれどクロナギはハルを抱いて立ったまま、その場から動こうとしない。魔獣は砂の中から長い体を伸ばし、一旦垂直に立ち上がると、勢いをつけてハルへと向かう。
アナリアやグオタオ、ヤマトやコルグ、オルガやソル、それに他の将軍たちや大勢の竜騎士、ドラゴンたち。
三つ編みの魔術師と余裕を見せているクロナギ以外、その場にいた全ての者がハルを助けようと動き出したけれど、結局、全員出る幕はなかった。
ドラニアス最強の戦士だと誉れ高い、レオルザークが剣を取ったからだ。
レオルザークは異様に巨大なムカデに怯むことなく、ハルに背を向けて砂の上に立った。
そうして背負っていた大剣を抜くと、彼の新しい主を襲おうとした身の程知らずなムカデを一刀両断したのだ。
黒いムカデは綺麗に縦に裂けて、そのまま動きを止めて朽ちていく。
ハルを無闇に動かして逃げるまでもなく、レオルザークが魔獣を片付けてくれるだろうと予想していたクロナギも、満足そうにドラニアスの軍団長を見る。
レオルザークは大剣を振り下ろした格好のまま、口だけを動かして告げた。
「全軍へ命令だ。今すぐにラマーンの最後の王子をここへ連れて来い。処刑は取り止め、代わりに小陛下を治療させる。邪魔なサイポス軍は適当に蹴散らせろ。――行け」
オオオと、竜騎士たちから雄叫びが上がった。
彼らもドラゴンたちも、新しい皇帝の誕生が近い事に興奮し、彼女のために動ける事に喜びを感じている。ただの任務でなく皇帝を助けるための仕事だと思えば、自ずと目に力が入っていた。
「おいおい、将軍を置いて行っちまったよ」
ドラゴンに乗って次々に飛び立っていく部下たちを見て、西の将軍のラルネシオが呆れたように笑った。
「まぁ、我々無しでも問題はないだろう」
「あれだけのやる気を見せていればな。どんな任務の時も常にこうあってほしいものだ」
北の将軍のジンと、東のサザも続いて言う。
そしてサザは穏やかな目をハルに向けると、待ち遠しそうにこう呟いたのだった。
「さて、魔術で怪我が治ったとして、どれほど眠れば彼女は目覚めてくれるのか。早くまた、あの輝く緑金の瞳が見たいものだ」




