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「きっと助けるから」なんて言ったものの、実際どうすればいいのかハルにはさっぱり分からなかった。
魔獣からの威圧感に体はすっかり固まってしまっているし、足はガチガチ。ここから逃げる事さえ難しいのに。
本当は悲鳴を上げて誰かの後ろに隠れたい。
魔獣は大きく凶暴そうで、とても自分が勝てるとは――カミラを助け出せるとは思えない。
しかしこのままカミラを置いていくという選択肢は、はなからハルの中には無かった。
それは崇高な自己犠牲の精神などではなく、単にカミラを見殺しにするのが恐いだけかもしれない。人ひとり見捨てるという間接的な殺人から自分を守りたいだけかも。
背後から、心配するラッチの視線を感じる。『二人で早く逃げよう』と言っているみたい。
だけど逃げられない。
ハルは平凡な自分が好きだった。
のんびりやで大雑把なのに、変に真面目な部分もあって要領が悪いものだから、たまに貧乏くじを引いてしまう自分が。
きっと面倒なことになると分かっているのに、困っている人を見るとつい首を突っ込んでしまう自分が好きだった。
けれど今カミラを見捨てたら、きっとハルはもう自分の事を愛せない。
それはすごく悲しい。
逃げようとする自分の足をなんとかその場に留め、根性で魔獣と向き合う。
森は静かで、張りつめた空気の中に魔獣の荒い息づかいだけが響いている。その足下にいるカミラも、後方にいるアルフォンスたちも、信じられないものを見る目つきでハルを見つめていた。
きっと彼女の事を無謀な馬鹿だと思っているに違いない。
ハルはゆっくりとかがんで、足下に転がっていた石ころを拾った。
唾液を飲み込み、緊張でカラカラになった喉を湿らせる。
石を握って立ち上がると、魔獣が何の危機感も抱いていない表情でこちらを観察していた。
カミラの目はこぼれ落ちんばかりに見開かれている。あなた本気なの? その石を魔獣にぶつけただけで、まさか倒せるとでも思っているの? とでも言いたげである。
(うるさい、分かってる)
ハルは思った。無謀な事は自分が一番よく分かっている。けれど他にどうしようもない。
ハルの貧弱なパンチが魔獣に届くとは思えないし、剣も魔術も使えないのだから。
ハルは強く奥歯を噛んだ。
こんなことなら、少しでもいいから魔術を習っておくんだった。
実は小さい頃、領主に仕える魔術師に――今は引退してしまったが、白髪の長いあごひげが特徴の気のいいお爺さんだった――、「君には魔力があるようだが、魔術師にはならないのかい?」と誘われた事があったのだ。
自分に魔力があった事をハルは喜んだが、魔術師になればお金はそこそこ稼げるものの、仕事には命の危険がつきまとう場合が多い。
もし戦争が起これば、国のために女でも戦いに参加させられる事になるだろう。
それをハルの母は嫌がった。平和主義でちょっぴりドジな娘のことを心配したのだ。
母が反対した上、魔術師のおじいさんが言うには、ハルの魔力は多くも少なくもなくごく平均的な量であり、将来もごく平凡な魔術師になるだろうという事だった。
なのでハルは、それならもし危ない場面に遭遇した時、無事に生き残るのは難しそうだと思い、魔術師になるのをあっさり諦めたのだ。
母親より早く死ぬという親不孝は絶対にしたくなかったから。
だが今、あの頃少しでも魔術をかじっておかなかった事をハルはかなり後悔している。
武器は石ころひとつ。
手の中のそれを強く握りしめ、考える。この石を上手く魔獣の目に当てられたら、少しはダメージを与えられるだろうか。
ふと耳に届いた激しい呼吸音が、緊張のあまり過呼吸気味になっている自分のものだと気づく。
額には冷や汗が流れ、体の芯は熱いのに全身に鳥肌が立っていた。
こわい。
でも、やらなきゃ。
やるんだ。
ハルは自分の視界が狭くなったような感覚を覚えた。敵である魔獣に照準が絞られたのかもしれない。
石を握っている方の拳を上げ、構える。
ハルはかつて無いほど緊張していた。
自分の行動にカミラの命がかかっている。しくじれば自分も死ぬ。
だけどこのまま何をしなくても誰かが、あるいは全員が魔獣に襲われるのだ。
大丈夫、やれる。コントロールはいい方だ。
目を狙え、ハル。
大丈夫、やれる。
自分で自分を励まし、最大級の勇気を持って、手の中の石ころを力一杯投げようとした――その時だった。
「魔獣相手に、そんな小石でどうなさるおつもりですか」
諭すような低い声とともに、振り上げていたハルの拳を後ろから大きな手が掴んだ。骨張った硬い感触が皮膚に伝わる。
「……っ!?」
集中していた時に不意をつかれてハルは飛び上がった。自分を捕まえていた相手の手を振りほどき、慌てて振り返る。
そこにいたのは、アルフォンスや騎士たちではなかった。
漆黒の髪に、黒曜石の瞳。完璧に整った誠実そうな顔立ち。
「薔薇園の……」
まん丸の目で男を見つめ、ハルが呟く。
そうだ、この男は昨日薔薇園にいた不審な男。どうしてここに……。
近くで見ると、男はハルが思っていた以上に背が高かった。冷静で真面目そうな瞳が上からハルを見下ろしている。
「あの……あの……」
ハルは男に何か言おうとしたが、「あの」から先の言葉が出てこなかった。
あなたは誰で、何者? どうしてここにいるの? 私に何か用? 疑問はたくさんあったが、何から聞いていいのか。
というか、そんなことより今は――
「魔獣が……」
ハルがもう一度振り返ると、魔獣は相変わらずカミラを踏みつけたままそこにいる。
しかしさっきとは少し様子が違った。
余裕だった表情が消え、黒髪の男の事をきつく睨みつけているのだ。まるで、目を離した隙に男に襲われる事を心配しているように。
カミラやアルフォンス、騎士たちも、突然この場に現れた男に目を奪われていて、ラッチは何故か男の匂いをフンフンと嗅いでいる。
「優しいというか、無謀というか……」
けれど男はそんな周りの状況をちっとも気にしていない素振りで、ハルだけを見つめてため息をついた。
呆れてというより、ほんのちょっと口の端を上げて嬉しそうに。
そして続けた。
「しかし、そういうところも陛下によく似ておられます」
「陛下……?」
思わず聞き返した瞬間、魔獣の吠え声がハルの耳をつんざいた。
魔獣は鋭い牙を剥き出しにして低く唸ると、こちらに向かって突進してきたのだ。
強く踏みつけられたカミラの呻き声が聞こえたが、今は彼女の心配をしていられない。
アルフォンスたちが悲鳴を上げ、散り散りに逃げ出す。
一方、ハルは動けなかった。
逃げなきゃ。
そう思うのに、足が地面に縫い付けられたように動かないのだ。
握った小石を投げる間もなく、魔獣の巨体はハルの眼前に迫り――
倒れた。
「……え?」
魔獣の首は見事に真っ二つに別れ、頭と胴体が別々に転がっている。
一体何が起きたのかハルにはすぐに分からなかったが、いつの間にか魔獣の死骸の隣に立っていた男を見て、彼が斬ったのだと理解した。
理解はしたが、にわかには信じがたい。こちらに向かってくる魔獣のその恐ろしく太い首を、目にも留まらぬ速さで一刀両断したなんて。
だが、男が手にしている細身の長剣には、確かに大量の魔獣の血がついている。それが証拠だ。
男は剣を振り、血を払うと、腰のベルトにつけている鞘におさめた。
ハルが唖然としてそれを眺めているうちに、カミラが胸を押さえつつ苦しげに立ち上がり、逃げていたアルフォンスたちも戻ってきた。
「何者だ?」
独り言のようにアルフォンスが言う。彼と騎士たちの表情には、驚きと戸惑いの色がうかがえた。
カミラは苦しそうに咳をした後で、瞳をきらめかせてよろよろと男に近寄っていった。肋骨くらい折れていそうだが、命に別状はないらしい。
「助けて下さってありがとうございます」
カミラは分かりやすく男に心奪われていた。恐ろしい魔獣を倒してくれたのだから当たり前にも思えるが、男の容姿が醜ければ、彼女の心はまた違ったかもしれない。
「礼を言うなら……」
男が静かに言いながら、ハルの方へ視線を向けた。
カミラは何やら複雑な表情をした後で、ハルに向かって申し訳なさそうな声を出した。
「ありがとう、本当に」
それだけの言葉だったが、どうやら一応、真面目に感謝しているらしい。
そうして自分の指につけていた指輪を外すと、ひっそりとハルに差し出した。
「これ……ごめんなさい」
一言謝られただけですぐに許せるほどの器の大きさはハルには無かったが、母の大事な指輪が返ってきたことにはただ心からホッとしたし、素直に嬉しかった。
「うん……!」
だからハルは、安心したような、ふにゃりとした平和な笑顔で指輪を受け取ったのだ。