23
「よし! 呪文は言えるようになった」
夕飯の時間になると、やっとハルは顔を上げて声を弾ませた。
今日は朝からずっと、同じ場所から動かずに呪文の練習を続けていたのである。
「覚えるのは無理だったけど、紙を見ながらなら詰まらずに言えるようになったよ」
ハルは笑って言うが、一日中呪文を唱え続けていたせいでその声は少しかすれている。クロナギが定期的に水を飲ませていなければ、もっと酷い声になっていたかもしれない。
「あれ? もうこんな時間? 外、真っ暗!?」
ハルはふと窓の外を見て、本気で驚いた。あまりに集中していたものだから、まだ朝から二、三時間ほどしか経っていないと思っていたのだ。
呪文を言えるようになっただけではアナリアを助けるには不十分だ。これからまだ、実際に杖を握って呪文を唱えながら魔力を練り、術を放つという練習もしなければならない。
解術を会得するための行程の半分にも到達していない状況だが、タイムリミットは明日の朝――ラマーンとサイポスの戦争が始まるまでで、つまりあと、約十二時間ほどしかない。
「大変だ。急がなくっちゃ」
「ハル様」
今度は杖を持って再び集中しようとしたハルを、側で見守っていたクロナギが止めた。杖を取り上げ、後ろからハルの脇に手を入れて持ち上げると、居間の真ん中に移動させて座らせる。
そこにはヤマトとコルグが用意した夕食が並んでいた。
「まだ解術の練習を続けるというのなら、まずはしっかり食事を召し上がってください。そうでなければ、この杖はお返しできません」
「えー! ……分かったよ」
有無を言わせぬ口調で言うので、ハルは大人しくクロナギに従う事にした。
今までは気にならなかったけれど、意識すれば自分がとても空腹である事にも気づく。
「いい匂い。ヤマトとコルグが作ったの?」
取り皿をコルグに渡しているヤマトと、大きなスプーンを片手にその取り皿にいそいそと料理を分けているコルグを見て尋ねる。答えたのはヤマトだ。
「そうですよ」
「四人分にしては量が多くない?」
いくつかある皿には、それぞれこんもりと料理が盛られている。見ているだけでお腹がいっぱいになる光景だ。
「俺たちはハル様の倍以上食べますから」
「そっか。……あれ、そういえばラッチとコルグのドラゴンがいないけど」
ラッチにも食事を分けてやらないとと考えたところで、部屋からドラゴン二頭の姿が消えている事に気づいた。
「ああ、二頭は食事に行きました。ここにある食材だけだと足りなさそうだったんで、外に狩りに行かせたんです。砂漠なんで動物も魔獣も少ないかもしれませんが、何か見つけるでしょう」
「ラッチ大丈夫かな?」
「コルグのドラゴンが面倒見てくれますよ。ドラゴンは基本的に自分たちと同じ種族の子どもには優しいですし」
「そうなんだ」
ハルは受け答えをしながら、自分に渡された皿に乗っている肉の塊をフォークでつついた。一口大に切られている、鶏肉のような肉だ。
「これ、何のお肉?」
「蛇ですよ。俺が獲ってきたんです! でかいのが砂に潜ってたんで」
褒めてもらえると思っているのかコルグが嬉しそうに宣言するが、ハルは顔をしかめて口を閉じた。きちんとさばかれているため鱗がついているわけではないし、見た目に抵抗感はない。けれど蛇と聞いてしまうと生きていた時の姿を想像してしまう。
私これいらない、と遠慮しようとしたところで、それを読んだクロナギがやんわりと言った。
「ハル様、体力をつけるにはいい食材ですよ」
「私はこのフルーツだけでいいよ。クロナギたちで食べて」
「フルーツだけでは持ちませんよ」
クロナギはハルが床に置いた皿を持つと、調味料や香辛料で茶色く色づいた蛇肉をフォークで刺し、ハルの口元に差し出した。
ハルはクロナギを見上げたが、ほほ笑まれるだけでフォークを下げてくれそうにはない。
ハルは躊躇しつつも、色と匂いだけなら美味しそうだしと、意を決して蛇肉の端っこを少しだけかじってみた。
小さな欠片をもぐもぐと味わうと、クセもなく、香辛料を使った濃い味付けとよく合っていて思いのほか美味しかったので、フォークに刺さったままの残りの塊を一度にぱくりと口に入れる。
「気に入りましたか?」
「うん、美味しいけど……でもこれっきりでいいよ」
クロナギはふっと笑うと、「では明日は、蛇以外の食材を用意するようにしましょう」と答えた。そしてその奥ではコルグが「蛇、駄目だったか……」と肩を落としている。
「でも明日はご飯食べてる余裕なんて無いでしょ」
ラマーンとサイポスの戦いが始まる上に、ハルはアナリアを解術しなければならないし、ルカを狙うであろうドラニアス軍をどうにかして止めなければならない。
ご飯に蛇が出るかも、などという心配をしている場合ではなくなるのだ。
「食事を取る時間くらいはありますよ。明日、ハル様は俺とここで待機ですから」
クロナギはせっせとハルの口に食事を運びながら言う。
ハルはそれを食べずに避けて、不安そうに尋ねた。
「クロナギと? でもクロナギが動かないなら、アナリアは誰が助けるの? コルグとヤマトだけでサイポス軍に向かわせる気?」
「そのつもりです。ドラニアス軍の一部もアナリアを助けるために行動するでしょうから、彼らと協力すればアナリアを無事に拘束する事は難しくないはずです」
アナリア奪還は決して失敗が許されない。明日を逃せば、次、彼女を助け出せるのはいつになるか分からないのだから。
なのでハルが一番信頼していて一番強いと思っているクロナギにその大事な仕事を任せたいと思っていたのだが、ハルがその事を伝えてもクロナギは従ってくれなかった。
「その信頼は光栄ですし、大事な同志であるアナリアを助けに向かいたい気持ち、サイポスの魔術師を殺してやりたい気持ちも大きいですが、戦場でハル様のお側を離れるつもりはありません。ハル様の事は自分の視界の中に常に入れておきたいのです。もう二度と、あんな思いをするのは御免ですから」
あんな思いというのは、赤い飛竜に攫われたハルを探し回っていた時の事を言っているのだろう。
「心配なさらずとも、アナリア奪還は俺がいなくても成功しますよ。ヤマトの手紙を見たアナリアの父親も明日は自分の部下を率いてやって来るでしょうし、彼は自分の娘を確実に奪い返すはずです」
クロナギは自信を持って言った。アナリアの父親も強いのだろう。
ハルは小さく頷いた。
「アナリアの事は……分かった。ヤマトとコルグ、アナリアのお父さんを信じるよ。でも私はずっと家の中で待機している事はできない。ルカの事も助けたいから、ドラニアス軍を止めないと」
ハルがルカの事を口に出すと、クロナギは僅かに目を鋭くした。ルカはハルの命の恩人である事も分かっていて感謝しているようだが、エドモンドを殺したラマーン王の息子という事実を全く無しにはできない様子だ。ルカに罪はないと思っても、ラマーン王の影がちらついてしまう。
そして自分が離れている間に、ハルの大事な友人という地位を築いていた事にも複雑な気持ちを抱いているらしい。
ハルは悲しげな顔をして訴えた。
「ルカを死なせたくないっていうだけじゃない。私はドラニアスの竜騎士たちにルカを殺させたくないんだよ」
その二つは同じ事のようで、違うのだ。
「だって竜騎士たちがルカを殺してしまったら、私がドラニアスの皇帝になった時に、竜騎士たちと純粋な気持ちで接する事ができなくなる。大事な友だちを殺されたっていう事実を頭の片隅に置いたままじゃ、私、皆に上手く笑い掛けてあげる事ができなくなるかもしれない」
「ハル様……」
「それにクロナギは前に私に言ったでしょ。ラマーンの王子を助けたいなら、私が皇帝になってそう命令すればいいって」
『私がどうしたいか? そりゃ、もし幼い王子が何も知らなかったっていうんなら、処刑は止めてあげてほしいと思うよ』
『ならば、ハル様が皇帝になって、竜騎士たちにそう命令すればいいのですよ』
――しないよ、そんな事。
あの時はそう返したけれど、皇帝になると决意した今の気持ちは違う。
ハルは強い瞳でクロナギを見つめた。
「戦場に近づくのは危険だって分かってるけど、私はここでじっとしている事はできない。――クロナギ、私はドラニアス軍を止める。だからクロナギも明日は私について来て。そして私を守って」
クロナギはハルを戦場に出したくないと思っているのだろうが、命令とも言えるハルのこの言葉には、迷うように口を何度か開けたものの、結局反対はできなかったようだ。
まぶたを一度閉じてからゆっくり持ち上げると、ハルの杖についている魔石と同じ漆黒の瞳をこちらに向けて言った。
「……分かりました。必ずお守りしますので、ハル様はハル様が思う通りに動いてください」
その答えに、ハルは満足気に唇を持ち上げた。
「頼りにしてる」
そして自分の皿に盛られていた残りの料理を一気に口に入れると、それをコップのお茶で流し込んで、クロナギの持っていた杖を奪い返す。
「これから寝室にこもって解術の練習するから、朝まで入ってこないでね。集中したいから」
そう言い放って居間の隣にある寝室に向かおうとしたハルだったが、同じく立ち上がったクロナギに捕まって引き止められた。
「ハル様、ちゃんとお休みになってください。解術の習得は急ぐ必要ありません。アナリアは明日必ず奪い返さなくてはなりませんが、アナリアにかかっている術を解くのは明日である必要はないのですから」
けれどそれでは、解術するまでアナリアが身動きを取れないよう拘束しておかなければならなくなる。
それにやはり、彼女の心が三つ編みの魔術師に無理矢理奪われているこの状況がハルは許せないのだ。
「私は少しでも早くアナリアを解放したいんだよ。私の父さまの事を想ったり、家族や仲間の事を考えたりする自由をアナリアに取り戻してほしい。私の大事な――……“臣下”が操られているのは、一秒だって耐えられない」
ハルはありったけの愛情を込めて、臣下という言葉を口にした。臣下というのは家族ではないし、親友でも恋人でもないけれど、それ以上の絆で繋がる事もできる、不思議な関係だと思う。
ハルは、クロナギやその後ろで心配そうにこちらを見ているヤマトやコルグを安心させるように、茶目っ気を滲ませて笑ってみせた。
「一晩くらい徹夜したって平気だよ」
「けれど魔術を使うという事は、たとえ練習でも体に負担がかかるのではないですか」
竜人であるクロナギは魔術の事をあまりよく知らないと思っていたが、それくらいの知識はあるようだ。
魔力は杖に埋め込まれた魔石で補えるとしても、一晩中魔力を操っていれば確かに体にも影響が出てくるだろう。ハルのように魔術に慣れていない初心者なら尚更だ。
「うん、だけど私が動けなくなったり意識を失っちゃったらアナリアを助けられないって事は分かってるし、そこまではしないから安心して。ちゃんと自分の限界を考えながらやる。……でも、少し無茶はするけどね」
そうしないと、明日の朝までに解術を習得する事はできない。
「でも本当に、たとえば命の危険が迫ってくるまで自分を追い詰めるつもりはないよ。大丈夫、それだけは分かってる。私は死んじゃ駄目だって事くらいは。だから……朝までいい子で待ってて」
ハルは手を伸ばしてクロナギの頭を撫でると、寝室の入り口に垂れている布をよけて、その奥へと入っていった。
一分か二分、その場に突っ立ったまま固まっていたクロナギは、やがて片手で顔を覆って、さらに一分ほど動かなくなった。
ハルとの間にある障害物はカーテンのような布一枚だけだというのに、ハルに“待て”を言い渡されてしまったので寝室には入れなくなったようである。
「……くそ」
動けない自分に珍しく汚い言葉を吐いて、クロナギは不機嫌な表情を隠そうともせずに寝室の前に座り込んだ。ハルがいる時には絶対に見せないような顔だが、幸いにも背を向けられているヤマトたちはその顔を直視せずに済んだ。
「いい子、ですね」
主人が出てくるのを待つ忠犬のようなクロナギの姿を見て、ヤマトが部屋の空気を和ませようとからかってみたが全く効果はない。
やがて寝室の奥でハルがぶつぶつと呪文を唱える声が漏れ聞こえてきた。
長い夜が始まった。
次回から四章に入ります。




