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「民? 奴隷でしょ? あなたがアナリアに術をかけて奴隷にしてるんだ」
距離は遠かったが、ハルは三つ編みの魔術師を射るように見つめた。アナリアを精神的に拘束しているこの男が許せないと思った。
一方の魔術師は、ごく普通の小娘が強気に視線を合わせてくるものだから面食らったようだ。
「魔術? 確かに私は魔術師ですがね、他人を従わせる事のできる魔術などこの世に存在しないのですよ。心を操るのはとても難しいのですからね。魔術大全を読んでごらんなさい。どこにもそのような魔術載っていませんよ」
「もちろん魔術大全なんかには載ってない。奴隷術は個人が開発した新しい術だから。あなたは魔賊の男たちを知ってるはずだよ。彼らから術を買ったんでしょう? さっき自分でそう言ってた」
三つ編みの魔術師は、邪魔なものを見るように眉をひそめてハルを見た。まさかこの場に魔賊や奴隷術の事を知っている人間がいるとは想像していなかったようだ。
「アナリアを元に戻して」
「元に戻す事などできませんよ。言った通り、これは彼女が望んだ事で魔術などではないのですから」
真実がバレていると思ったのか、魔術師は早口で喋りつつ、周りの兵士たちに手で指示を出して撤退を伝える。
「とにかく、今日のところは引く事にしますよ。王都侵略も二日後に迫っていますし、こんなところで魔力を消費するわけにはいかないのでね」
「待て。今なんと言った? 二日後に王都侵略だと?」
太い眉を吊り上げてザナクドが言う。
「ええ、そうですよ。今ごろ我がサイポスの使者が、古き慣習に基づいてあなた方ラマーンの代表者に事前通告している頃でしょう。大人しくサイポスの支配下に入るというならラマーンの国民を殺すまではしませんが、抵抗するというなら容赦はしない、とね」
「抵抗するに決まっているだろう! 我々はサイポスの奴隷になるつもりはないし、この土地を貴様らに明け渡すつもりもない」
「であれば、死んでいただくだけですよ。――また二日後にお会いしましょう」
三つ編みの魔術師は口角を持ち上げてにやりと笑うと、砂の巨人と死んだグモン一頭をその場に残して南へ逃げようとした。
ここであの小隊一つを倒したところで王都侵略は止められないので、ザナクドや集落の男たちは敵を追う事はしなかった。
しかし、ハルとしてはアナリアやラッチを連れたまま逃げられては困る。ヤマトやクロナギたちもそう思ったのか、相手を逃がさないように後を追おうとした。
が、そこに立ちはだかったのが、砂の巨人とアナリアだ。
アナリアに本気で攻撃できないヤマトとコルグに対して、アナリアの方は殺すつもりで容赦無い攻撃を仕掛けてくるし、隠密行動が得意なヤマトと竜騎士団の中の一兵士でしかないコルグは、やはりエリート部隊に所属できるほどの実力を持つアナリアには敵わないようだった。
アナリアに勝てる者はこの中でクロナギしかおらず、彼を頼るしかないのだが、そのクロナギの様子も少し気にかかる。
ハルは走って一旦玄関に向かうと、そこから外へ出て、また裏へと回る。
するとちょうどその時、クロナギが地面に膝をついたところだった。
アナリアや砂の巨人の攻撃を受けたわけではないのに、糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちたのだ。
「クロナギ!」
よく見れば彼の目元には隈があったし、表情もやつれていた。もしかすると、これまで不眠不休でハルを探していたのかもしれない。
けれどクロナギは気力を振り絞ってもう一度立ち上がると、砂を蹴り、三つ編みの魔術師が乗っているグモンに向かって跳躍する。
グモンはすでにこちらにお尻を見せて集落から離れようとしてたので、前の方に乗っている三つ編みの魔術師にクロナギの剣は届かなかった。
けれど、鎖に引っ張られながらなんとかこちらに来ようと足掻いているラッチを助ける事はできた。
クロナギが剣を一振りすると、ラッチをグモンに繋いでいた太い鎖が切れたのだ。
「きゅー!」
ばたばたと忙しなく翼を動かして、ラッチはこちらに飛んできた。しかし体力の限界が来たかのようにクロナギが砂の上に倒れたので、ハルを一直線に目指していたラッチも空中で急停止し、クロナギの側に降り立つ。
そしてヤマトやコルグを相手にしていたアナリアは、彼らにもう一撃ずつ鞭を打ってから、後を砂の巨人に任せて三つ編みの魔術師を追った。小隊に追いつくとグモンに飛び乗り、三つ編みの魔術師の後ろに着地する。
「アナリア!」
ハルが叫ぶが、やはりアナリアは反応しない。温度のない瞳を向けてくるだけだ。
感情の起伏が激しいところや、気持ちをそのまま表情や態度に出すところはアナリアの短所かもしれない。けれど人には、不機嫌も憎しみも素直に表現できる自由があるはずだ。
それなのに、こんなふうに術によって強制的に感情を凍らせるのは、命を奪うに等しいむごい行為に思えた。
今のアナリアは、エドモンドを愛する心すらも凍らされてしまったに違いないのだから。
――竜人たちの使命が皇帝の命を守る事なら、皇帝の使命は竜人たちの心を守る事だ。
コルグを見て考えた事が、今再びハルの頭に浮かんできた。
自分はアナリアの心を守らなくてはならないのだとハルは思った。
けれど解除の呪文も覚えていないし、クロナギも満身創痍の状態。この場でアナリアを助けるのは難しい。色々と準備が必要だ。
ハルは走ってサイポスの小隊を追いかけると、大声で三つ編みの魔術師に呼びかけた。
「アナリアを二日だけあなたに預ける! だけど預けているだけだから、その間に傷つけたりしたら許さない! ――二日後に、戦場で待ってる」
砂漠の上で足を止めたハルを、三つ編みの魔術師が眉間にしわを寄せたままちらりと振り返る。小娘が何を、とでも思っているだろうか。けれどハルは本気だ。
あの魔術師はアナリアの事を使える駒だと思っているに違いないので、二日後の王都侵略にも兵士として彼女を連れてくるだろう。その時に今度こそ、アナリアにかけられた術を解くのだ。
アナリアからすれば、全く知らない他人に服従しているというこんな屈辱的な状態は一分一秒も耐えられないだろうけど、確実に術を解くために時間がほしかった。
下手にここでハルが追いすがればアナリアは攻撃してくるだろうし、術にかかっていた間に自分がハルに怪我を負わせたとなれば、正気に戻った時に彼女はどれほど己を責めるか。
三つ編みの魔術師が十分に離れると、砂の巨人は崩れて地面に帰っていく。
「ハル様……」
三つ編みの魔術師に対してめらめらと心の炎を燃やしていると、クロナギがよろつきながらこちらへ歩いてきた。ラッチも後を追って飛んで来る。
クロナギの姿を見るのも、その低い声を聞くのも、とても久しぶりのように感じた。
「申し訳ありません、お役に立てず……アナリアを逃がしてしまいました」
「いいよ、クロナギは私を必死で探してくれてたんでしょう? ごめんなさい、心配かけて」
「風邪は……体調はもう大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。ここの人たちに助けてもらって――クロナギ!」
またもやクロナギはその場に膝をついた。ラマーンの気候に不釣り合いな彼の黒いブーツやマントには砂がつき、白っぽく汚れている。
この炎天下の砂漠を延々と歩き回ってハルを探していたのだとしたら、さすがのクロナギだって疲弊するというものだ。
「大丈夫? 寝てないの?」
ハルはクロナギの顔を両手で包んで覗き込み、尋ねた。
しかしクロナギはその質問には答えずに、風邪が治ってすっかり元気になったハルを見て、安心したようにほほ笑む。
クロナギの濡れた黒い瞳に、自分の姿が映っているのが見えた。
「ご無事でよかった……。俺はまた、大切な主を守れなかったのかと……」
そう呟いて、クロナギはハルの体を抱きしめた。少し力が強くて苦しかったけど、ハルは我慢する。
エドモンドが死んだ時のような悲しみや苦しみをまたクロナギたちに与えてしまう事になるのなら、自分はうっかり死ねないなとハルは思った。
膝をついたクロナギの頭をぎゅっと抱きしめて、砂でバシバシになっている黒髪を撫でる。
クロナギがどんな気持ちで自分を探し回っていたのかと考えるとハルも辛くなる。死んでいたらと想像して、何度か絶望したのではないだろうか。
「きゅー、きゅっ!」
クロナギを抱きしめていると、口に布を巻かれたままのラッチが、自分も! というように鳴いて訴えてきた。
「あ、待って。先にその布を取ってあげる」
しかしクロナギは気を失ったのか安心して寝てしまったのか、ハルを抱きしめたまま意識がないようだったので手を離せない。
「ヤマト! ラッチの布取ってあげて。首輪も壊せないかな?」
仕方がないので、とりあえずクロナギを支えたままヤマトを呼んだ。ヤマトはバタバタと尾を振るラッチに「大人しくしてろ」と注意しつつ口元の布を剥ぎ取ったが、首輪を壊すのは難しいようだった。
「硬ぇな、これ」
するとそこへ手を伸ばしてきたのは、若干不機嫌そうな顔をしているコルグだ。
「俺がやりますよ」
コルグが首輪を破壊し、ラッチが自由がなった一方、ヤマトは「もっと鍛えようかな」と独り言をこぼした。
そしてコルグはじろりとヤマトを睨み、話を変える。
「ヤマトさん、ひどいですよ」
「何が?」
「何がじゃないです。ハル様の事ですよ! ここへ来る前にクロナギさんから全部訊いたんですからね!」
「ああ、そうなのか」
「ヤマトさんは俺と会った夜にもハル様といたんでしょう? どうしてあの時、俺に教えてくれなかったんですか! 探しに行くまでもなく、エドモンド様の御子はここにいるって!」
「いや、お前にはクロナギ先輩を探してきてほしかったからさ、ごめんごめん」
「ねぇ、ちょっと助けてっ……」
軽く謝るヤマトに不満そうな表情をしていたコルグだったが、ハルの焦った声に二人同時に振り返る。
ハルは膝をついて気を失っているクロナギを支えたまま、濃紺の鱗を持つコルグの飛竜に迫られていた。ふがふがと匂いを嗅がれて頬を舐められており、さらに反対側ではラッチもハルの頬に顔をすり寄せている。
「コルグ! この子コルグのドラゴンでしょ? ……むぐっ」
口元を舐められそうになったハルが慌てて口をつぐむ。コルグは不意に名前を呼ばれてうろたえながら、自分のドラゴンの綱を引っ張り、ハルから離した。
「お、俺の名をご存知なのですか?」
ぐるると唸って不満を訴えるドラゴンを諌めながら、コルグは地面に片膝をつく。
ハルはヤマトにクロナギを預けながら答えた。
「うん、あの夜に私も近くにいて、二人の会話を聞いてたから」
ギッ、と音がつきそうな勢いでコルグが再びヤマトを睨んだ。ヤマトは口笛を吹きながら空を飛んでいるヒダカを眺めて知らん顔だ。
コルグは一度立ち上がってハルに近づくと、またそこで跪き、勢いよくハルの手を取った。
「ハル様! どうかドラニアスにいらしてください! あなたは我々の希望だ。皇帝になれるのはあなたしかいない!」
「……あのな、コルグ。ハル様は皇帝には――」
やんわりとコルグに忠告しようとしたヤマトを、ハルが片手を上げて止めた。
そして自分の手をきつく握りしめているコルグに向かって言う。
「うん、皇帝になれるのは私しかいない――きっとそうなんだね。それで救われる竜人がいるなら、私は皇帝になるよ」
「本当ですか!?」
「本当だよ。だけど、まずはアナリアを取り戻さないと」
「え……ハル様! いいんですか? いつの間に考えを変えたんです?」
ヤマトに向かってにっこり笑い、「ルカに会ってからかな」と答えてから、自分の家に走っていくザナクドを視線で追った。二日後にサイポス軍が攻めてくる事を、ルカに話しに行ったのだろう。
「私たちもアナリアを助けるために準備しなくっちゃ」
ハルは瞳に決意を込めて言った。




