18
「アナリア……?」
数日ぶりの再会なのにこの場の空気が感動に染まる事はなく、アナリアはちっともハルを見なかった。先ほどの声が聞こえなかったわけではないだろうに。
ヤマトも戸惑うあまり、蹴られた痛みを忘れたらしい。
「あの、アナリアさん? なんでサイポスと――って、え、ちょッ……!」
ヤマトが慌てて飛び退く。アナリアが彼女のお気に入りの武器である長い鞭を取り出して、再びヤマトを襲ったからだ。
「俺ですよ! ヤマトです! いくら地味だからって、同じ“紫”の仲間である俺の事、忘れたんですか!?」
ひどいですよ、と自尊心を傷つけられたヤマトが泣きそうになっている。
けれど、アナリアはヤマトだけを忘れているのではないのだろう。
「ほら、あっちにハル様も――うわっ!」
やはりハルの名前にも全く反応しない。何か思惑があって知らないふりをしているというわけでもなさそうだった。
ヤマトとアナリアではアナリアの方が強いらしく、ヤマトは彼女の振るう鞭を避けるので精一杯だ。
「おやおや、あなた方知り合いだったのですか?」
と、そこで愉快そうな声を上げたのは、地面からよろよろと起き上がった三つ編みの魔術師だった。
「なんという偶然でしょうね。しかし助かりました、さすが竜人は女でも頼りになりますねぇ。高い金を払って術を買った甲斐がありましたよ。さぁ、アリシュネフィト。さっさとその男を殺してしまいなさい。命令です」
男はアナリアの事をおかしな名前で呼びながら、再びグモンの背中に乗る。
ハルはアナリアからその魔術師に視線を向けた。
(術を買った? あの人……あの人がアナリアに何かしたんだ)
ハルは緑金の瞳を光らせた。三つ編みの魔術師がアナリアに勝手に違う名をつけて自分の物のように扱っている事に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
第三の目でアナリアを観察すると、三つ編みの魔術師の灰色の魔力が少し移っているのも分かった。やはりなにか魔術をかけられているようだ。
(だけど、なんの魔術を?)
そう考えた時、ハルの頭に一人の女性の顔が浮かび上がった。トチェッカの街で魔賊の男たちに魔術をかけられていた、若い妊婦の虚ろな顔だ。
彼女は『奴隷術』という、その名の通りに他人を奴隷のように従わせる事のできる術をかけられて、一時人質にされたのだ。
「奴隷術……!」
ハッとして言う。仲間であるヤマトを殺そうとする今のアナリアの行動は、魔賊の男に命令されて自分もろとも胎児を殺そうとしたトチェッカの妊婦と被って見える。
奴隷術は魔賊の男たちが考えたオリジナルの術のはずなので、三つ編みの魔術師の発言からすると、彼は大金を出して魔賊から奴隷術の呪文を買ったという事になる。
魔賊の男たちはトチェッカにずっと住んでいたわけではないので、トチェッカに来る前は、国を超えて様々な地域を移動していたのかもしれない。その途中でサイポスにも立ち寄っていて、この三つ編みの魔術師に術を売っていた?
「アナリア! 私だよ! 分かる!? 正気に戻って!」
ハルは窓から身を乗り出して叫んだ。アナリアはちらっとこちらを見たが、うるさそうに眉をひそめただけで、またヤマトに向き直る。
「ハル様! 出ちゃ駄目ですよ!」
アナリアの鞭を避けるのでいっぱいいっぱいのヤマトが焦って忠告してくる。ザナクドやアスタたちもまだサイポス兵と戦っていて、確かに今、ハルが外へ出るのは危険だった。
身を乗り出した中途半端な姿勢のまま、ハルは考える。
(アナリアにかけられてる術が奴隷術なら、元に戻す方法は一つしかない。解除の術をかけないと)
情に訴えかけて正気を取り戻せるほど、この術は簡単なものではない。
おまけに魔賊のアジトで見た奴隷術の説明書のようなものには、『この術は、解術しない限り、術者が死んでも持続する』というような事が書いてあったはずだ。
つまりこの場で三つ編みの魔術師を殺せたとしても、アナリアは元に戻らない。
しかもこの魔術師が捕らえていたのは、アナリアだけではなかったらしい。
戦闘の騒がしさに、グモンの背からもぞもぞと起き上がったのは、なんと橙色の子竜だったのだ。
「ラッチ!?」
今まで荷物に紛れていて見えなかったが、確かにあれはラッチだ。この状況でのんきに眠っていたのかと思ったが、元気のない表情をしているので、疲れて休んでいたのかもしれない。
ラッチは太い首輪をつけられていて、その首輪から伸びる鎖はグモンの鞍に繋がっていた。おまけに、咬みつかないようにか布で口元をぐるぐる巻きにされており、不自由な拘束を強いられている。
「ラッチ!」
アナリアとは違って、ラッチはハルの声に敏感に反応した。
きゅうきゅうと鼻声で鳴きながらこちらを見て目を輝かせる。
しかしハルの元に飛ぼうとしても鎖が邪魔をした。
「おや、あれが飼い主だったのですか? ドラゴンは竜人以外に懐く事はないと思ったのに、犬のように尾を振って。けれど、何故あのような普通の小娘がドラゴンに懐かれているのでしょう」
太陽光を遮るように目の上に手をかざし、三つ編みの魔術師は酷薄な視線をハルに向けた。
距離はあったが、ハルも負けじと相手を睨み返す。アナリアを操っている上にラッチまで拘束しているなんて。珍しいドラゴンを調教して、ペットにしようとしていたに違いない。
ラッチとアナリアは、どういう経緯であの男に捕まったのだろう。
「いくら引っ張っても首が絞まるだけですよ。馬鹿なドラゴンですねぇ」
鎖をピンと引っ張り、必死でハルの元に飛んでこようとしているラッチに、魔術師が嫌味ったらしく言う。
ラッチの拘束を解きたいけれど、ヤマトはアナリアの相手で手一杯、そして三つ編みの魔術師がまた砂の巨人を作り出したので、ザナクドたちも劣勢に立っている。
ハルは部屋の中を振り返って武器になるようなものを探した。寝室には何もないが、台所と一緒になっている居間の方へいけば、ナイフや包丁があったはずだ。
しかしそんなものを持ったところで自分が戦力になるとは思えない。足手まといになってヤマトに庇われるのがオチだと、簡単に予想できる。
「ヤマト、アナリア、ラッチ……!」
戦力にならない自分に、悔しさからハルが歯噛みした時だった。
空から青い飛竜が滑空してきたかと思うと、その背から人がひらりと舞い降りた。彼は剣を持っていて、ヤマトと交戦しているアナリアに斬りかかる。
「あれは……」
見覚えのある漆黒の髪に、ハルの胸が高鳴った。
一方、青い飛竜はその背にもう一人誰かを乗せたまま、アスタの矢を受けて弱っていたグモンに噛みつき、とどめを刺す。
「なんだ!?」
「ドラゴン!?」
三つ編みの魔術師とサイポスの兵士たちが口々に言う。
突然の乱入者に驚いたのはハルも同じだったが、サイポス兵とは違って、ハルには彼らの正体が分かっていた。
最初にアナリアに斬りかかったのはクロナギ、そして青い飛竜を操っているのはコルグだ。
コルグは“存在するか分からないエドモンドの子ども”を探してクロナギの元に向かおうとしていた竜騎士である。
ヤマトはコルグに「クロナギ先輩を見つける事ができれば、俺がここにいたって事を伝えて欲しい」と伝言を頼んでいたが、どうやらコルグは無事にクロナギを見つけてここまで案内してくれたらしい。
コルグは青い飛竜に砂の巨人を攻撃するよう命令してから、自分は剣を手に飛竜を降りて、サイポス兵を倒しにかかる。
「クロナギ先輩ー!」
ピンチだったヤマトが、感動したように声を上げる。
「助かった! アナリアさんがおかしいから俺一人じゃどうにもなんなくて! コルグ、よくやった!」
「どういたしまして!」
コルグはサイポス兵を叩きのめしながらヤマトに返事をした。
三つ編みの魔術師はクロナギやコルグを見て「竜人か……」と苦虫を噛み潰したような顔をすると、コホンと咳払いしてから声を張り上げる。
「竜人のお二人! どうか落ち着いて」
まあまあ、と両手を掲げて、戦う二人を止める。
「事情が読めないのですがね、何故竜人であるあなた方がラマーンの者たちに味方するのか、教えてもらえますかね」
「別にラマーンの味方をしてるわけじゃない」
嫌そうにコルグが言った。
「そうですか、しかしあなた方は軍服を着ていませんし、逃げているティトケペル王子を探している様子もないですから、このラマーンの空を飛んでいる竜騎士の方々とは違う目的でここにいるようですね。けれど、それは一体どういった用件なのでしょうか?」
「あんたに関係ないだろ」
吐き捨てたヤマトを見て、三つ編みの魔術師は「あなたも竜人なのですかね?」と尋ねた。
「人間のように見えますけれどね。しかし、皇帝が亡くなってからというものドラニアスは内輪で揉めているという噂も聞きますが、あなた方が軍とは関係なく動いている様子なのは、それと何か関係があるのでしょうか。いやはや、ドラニアスというのは強い国だと思っていましたが、皇帝一人死んだだけで崩れてしまうとはね」
「なんだと!?」
三つ編みの魔術師は、ここにいる竜人はドラニアスの竜騎士軍とは関係のない竜人たちだと判断して、下に見ているようだ。竜騎士軍は敵に回したくないが、そこと繋がりのないただの竜人ならばそれほど脅威ではないと思っているのだろう。
魔術師は、いきり立つヤマトやコルグに「ああ、すみませんね。口が過ぎました」と半笑いで謝る。
「私はただ、あなた方はここにいるアリシュネフィトと同じように、ドラニアスに愛想を尽かして出てきたのかと思ったのですよ」
「どういう事だよ」
「誇り高い竜人であるあなた方は、アリシュネフィトが私のような人間なんぞに従属しているのは気に食わないのでしょう? けれど、これは彼女が選んだ道なのですよ。アリシュネフィトは自ら進んで、私に従っているのです。どうやらドラニアスにはいい思い出がないらしく、二度と戻りたくないと言うので私が受け入れてやった――」
「そんなはずない」
ハハハ、と軽く笑いながら話す魔術師に、窓から身を乗り出したハルが反論する。
アナリアが自ら進んでこの魔術師に従っているとは到底思えなかったからだ。アナリアがどれだけ気高いか、どれだけエドモンドを想ってきたか知っているハルには、これ以上魔術師の嘘を黙って聞いていられなかった。
「ドラニアスにはいい思い出がないなんて……」
ハルは眉尻を上げて、魔術師を睨みつけた。
アナリアのドラニアスでの思い出には、エドモンドと一緒に過ごした大切な日々も詰まっている。そしてエドモンドとの思い出はアナリアにとって一番大切なものなのに、赤の他人がそれを否定していいわけがない。
「アナリアの思い出をあなたが語らないで。それにアリシュネフィトなんて呼ぶのもやめて。彼女はアナリアだよ」
「おやおや、まさかあなたもラマーン人ではなく竜人なのですか? しかしアリシュネフィトは、もうドラニアスでの名を捨てたのですよ。彼女はサイポスの民として生まれ変わったのですから、私がそれらしい名前を与えてやったのです」
「民? 奴隷でしょ? あなたがアナリアに術をかけて奴隷にしてるんだ」
距離は遠かったが、ハルは三つ編みの魔術師を射るように見つめた。




