5
その日カミラが屋敷の窓からハルの姿を見つけたのは、単なる偶然だった。
ごく普通の下女の、冴えない少女。しかしカミラが拾った指輪の本当の持ち主で、その指輪を自分のものにしたいカミラにとっては、最高に邪魔な存在である少女だ。
さっさと売ってしまおうと思いながら、その宝石の奇妙な美しさに心を奪われ、自分の指にはめてしまったのが悪かった。
もしハルが『指輪は自分のものである』という証拠を出してくれば、ここでの自分の立場も危うくなる。領主の息子に気に入られ、騎士たちからはチヤホヤと持てはやされ、とても満足しているここでの立場が。
夕暮れ時。もう下女の一日の仕事は終わったはずだ。
しかしハルは急いでいる様子で薔薇園へと駆けていく。その時、辺りを伺うようにちらりと周囲に視線を走らせた彼女を見て、カミラは直感した。
(あの子、何か隠してる)
カミラが森に消えたハルを追ったのはただの好奇心ではなく、あわよくば少女の弱みを握れるのではという計算からだった。
そうして目に映った光景に、カミラは驚きと失望を覚えた。
驚きは、初めて間近でドラゴンを目にしたため。そして失望は、ハルが何も悪い事を考えていなさそうだったからだ。
小さなドラゴンと戯れる少女の表情には、なんの下心もない。ドラゴンを強く成長させて自分の思い通りに従わせようだとか、そんな事は何も。
つけられている首輪からして、恐らくどこかの人間の元から逃げてきたドラゴンなのだろう。
そしてそれをたまたまハルが見つけ、ここで匿っている。カミラは簡単にそう予想をつける事ができた。
だが、これは使える。
ハルが森でこっそりとドラゴンを匿っているのは事実なのだ。それを利用しない手はない。
ハルがいなくなれば、指輪は確実に自分のものになる。
緑と金の色を持つ不思議な魅力の宝石は、調べると、カミラが予想していたよりずっと希少で高価なものだという事が分かった。
カミラの家は貴族だったが、いつ何があって落ちぶれるか分からない。金はあればあるだけいいのだ。
と、身じろぎしたカミラの気配を、鋭いドラゴンに気づかれてしまった。ハルがこちらを振り返るより早く、カミラはそこから走り去った。
***
そうして今、カミラの狙い通りに、アルフォンスから少女を始末するための許可が出た。
まったく簡単すぎて笑えてくる。アルフォンスも騎士たちも、魔力のない者は馬鹿が多い。
知らず笑ってしまっていた顔をハルに見られたが、もうどうでもいい。彼女はもうすぐ死ぬのだから。
カミラは呆然としているハルに杖を向けた。
「さぁ、覚悟なさい」
その声によって我に返ったハルが、焦ったように喋りだした。
「ま、待って下さい。私はラッチを……ドラゴンを使って指輪を取り戻そうとなんてしていません」
「言い訳は見苦しいぞ。お前は母親とは違って、内面までも汚れてしまったのか?」
厳しい声で言って、アルフォンスが剣を抜く。周りの騎士たちもそれにならった。
小さなドラゴンは警戒の吠え声を上げ、その横でハルは顔を真っ青にしている。
少し可哀想だが仕方がない。カミラはそう思った。悪いのはあの少女だ。彼女はその価値を知らなかったようだが、この指輪はただの下女が持っていていいようなものではない。分不相応すぎる。
(それなのにしつこく返せと食い下がるから……さっさと諦めていれば、わたくしだってここまでしなかったのに)
「お願いです、ちょっと待って下さい」
ドラゴンを自分の背後に庇いながら、ハルは弱々しい声を出した。複数の剣が自分に向けられていることに怯えきっている様子で。
まぁ無理もない、とカミラは人ごとのように考える。彼女は戦闘経験のない、ただの平凡な下女なのだからと。
だからと言って、もちろん助けるつもりもないが。
杖を突きつけて一歩足を踏み出したカミラに、ハルが必死に懇願する。
「待って、待って下さい! 助けてっ……!」
「お黙りなさい!」
カミラがぴしゃりと言い放つ。
「そのドラゴンを使ってわたくしを殺そうとしていたくせに、今さら命乞いなんて! なんという恥知らずなの」
カミラは杖に魔力を集めた。あとは短い呪文を唱えれば、魔力という名のエネルギーの固まりが、杖の先からハルに向かって飛び出していくはずだった。
しかしその時、
「あ……!? う、うううし、うし……」
突然ハルが大きく目を見開き、カミラたちの後方を指差しながら、意味の分からない言葉を発した。
「牛?」
カミラが眉間にしわを寄せ、片眉を上げる。
「ううう後ろッ!」
恐怖に引きつった声でハルが叫ぶ。
彼女が言いたかった事をやっと理解したカミラは、しかし大きな危機感を持って後ろを振り返った。ハルの様子は尋常ではない。一体何が自分の後ろに迫っているのかと。
「なッ……」
振り向いて、カミラは言葉を失った。
彼女の隣にいたアルフォンスも、騎士たちも同様に。
「ま、魔獣!?」
背後にいたのは、真っ黒な毛皮を持つ魔獣であった。
だが、魔獣など別に珍しいものでもない。特に魔術師であるカミラや騎士たちは、ときおり街に迷い込んでくる魔獣たちを何度となく退治してきたのだから。
しかし今、自分たちの目の前に迫る魔獣は、今まで葬り去ってきた魔獣たちより圧倒的に大きかったのだ。
いったい魔獣に変化してから何年経っているのだろう。四本の足に三角の耳を持つその生物は、もしかしたら元は猫だったのかもしれない。
けれども可愛らしい猫の面影など、今は微塵も感じられなかった。
大きく裂けた口からは鋭い牙がのぞき、額には角が生え、長いしっぽの先にはサソリのような針がついている。体は大の大人が見上げるほど大きく、圧倒的だ。
カミラは震え上がった。こんな大きな魔獣を相手にした事なんてない。
思わず自分を守ってくれそうなアルフォンスや騎士たちを見るが、彼らの膝もまた、自分と同じように震えている。
魔獣はこちらを警戒しているのか、それとも獲物を見つけて嬉しいのか、感情の読めない不気味な唸り声を発しながら、ゆっくりと頭を低くした。
そして――
「危ないっ!」
背後からハルの叫ぶ声が聞こえたが、その時にはもうすでに、魔獣は地面を蹴っていた。太く尖った爪が土をえぐると、魔獣の巨体はカミラに向かって一気に跳んできたのだ。
魔術を使うどころか悲鳴を上げる暇さえなく、カミラは魔獣に仰向けに押し倒された。
「う……」
魔獣の太く重たい前足の下で、カミラは呻く。自分の手から杖が離れている事に気がついて絶望した。杖がなければ魔術を使えない。
カミラの首筋に、ねばついた液体が触れた。真上にある魔獣の口から垂れてきた唾液だ。
「い、や……放しなさい! この汚らわしい化け物!」
暴れるカミラの抵抗は、魔獣にはちっとも堪えていない。魔獣が彼女を踏みつけている前足の力を強めると、カミラは苦しそうに息を詰める。
「助けて……! 助けて下さいませッ、アルフォンス様!」
自力で抜け出す事を諦めて、カミラはアルフォンスに助けを求めた。
しかし彼は剣を握ったまま、引きつった表情で固まるのみである。
(この役立たずっ!)
軟弱な彼では駄目だ。
そう思ったカミラは、今度は騎士たちに視線を向ける。
「早く助けて……何をしているのよ、早く……ッ」
このままでは魔獣に踏み潰されてしまう。いや、頭を食い千切られるのが先かもしれない。
カミラは今まで体験した事のない恐怖を感じながら、なかなか自分を助けにこない騎士たちに苛立っていた。
(さっさと助けてよ!)
五人もいれば、一人か二人死んだって、誰かの剣が魔獣に届くはず。
「早く……!」
だが、騎士たちは一向に動く気配を見せない。それどころか巨大で俊敏な魔獣に恐れをなして、じりじりと後退していっているではないか。
その様子を見たカミラは思わず目を見開いて叫んだ。
「何をしてるの! さっさと戦って! あなたたちは騎士でしょうっ!?」
頭上で魔獣が喉を震わせた。カミラを前足で押さえつけながら、もっと多くの獲物が欲しいとばかりに、血走った視線を騎士たちに向ける。
それを見た騎士たちは剣を握り直し、さらに後退した。カミラよりも、今は自分の命が惜しいのだ。
「だ、駄目だ……」
アルフォンスが情けない声でそう言ったかと思うと、カミラに向かって叫んだ。
「カミラ! 僕たちは屋敷へ戻って応援を呼んでくる! 必ず助けるから待っていてくれ!」
カミラは自分の耳を疑った。
この男はとんでもない馬鹿だ。そう思った。
今から屋敷へ戻って応援を連れてくるまでに、一体どれほどの時間がかかると思っているのか。少なくとも、魔獣がカミラを殺すだけの時間は十分ある。
「大丈夫だ、すぐ戻ってくる!」
言いながら忙しなく泳いでいるアルフォンスの目を見て、カミラは悟った。
自分は見捨てられようとしている。
アルフォンスは馬鹿だが、時間の計算くらいはできるはず。彼はカミラを囮に逃げようとしているのだ。
全速力で逃げるつもりなのだろう、あろうことか剣を鞘に仕舞ったアルフォンスと騎士たちを見て、カミラはたまらず絶叫した。
「そんなッ! お願いよ、見捨てないでっ! 助けて……!」
アルフォンスたちの表情には、カミラを見殺しにする後ろめたさと罪悪感が見て取れた。
しかしやはり、自分たちの命には代えられないのだろう。一歩、一歩、魔獣を刺激しないよう、静かに後ろへ下がっていく。
「やめて! 置いていかないでっ!」
カミラは必死に叫んだ。自分の人生がこんなところで終わるのは嫌だ。自分はこんなところで死ぬはずの人間じゃない。
恐怖と絶望で、瞳から勝手に涙が溢れ出してきた。
と、その時ふとハルの姿が目に映った。
アルフォンスたちがじりじりと後退していっているせいで、今、魔獣とカミラから一番近い位置にいるのはハルだった。ハルは小さなドラゴンを守るように立ち上がっており、息を詰めて魔獣を見つめている。極度の緊張で、瞬きを忘れているようだ。
「助けて!」
カミラは、今度はハルに向かって叫んだ。自分を助けてくれるのなら、この際誰でもいい。藁をも掴む気持ちだった。
カミラが自分に助けを求めている事に気づき、ハルは驚いたように後ずさる。
「駄目よ、下がらないで! 行かないでっ! 私を助けて!」
カミラは必死だった。涙をこぼして、自分の右手を差し出す。
「この指輪! ちゃんと返すわッ! 盗った事も謝るし、さっき嘘を言って、あなたを殺そうとした事も謝るからっ!」
カミラの言葉に、アルフォンスや騎士たちは瞠目した。
彼らは、彼女が嘘をついているなんて考えていなかったから。
指輪を奪おうとしていたのも、相手を殺してしまおうと画策していたのも、カミラではなくハルの方だと信じきっていた。
「な、なんという女だ」
騎士の一人が呟いた。アルフォンスたちもそれに頷く。そんなひどい女なら、自分たちが見捨てるのも仕方がないというように。
彼らは逃げる自分たちの罪を軽くしたかった。
「お願い、見捨てないで!」
カミラが声を上げる。その視線は真っすぐハルに向いていた。
さっき、助けを求めるハルに自分が言った言葉を思い出す。
『わたくしを殺そうとしていたくせに、今更命乞いなんて! なんという恥知らずなの』
今は、その恥知らずは自分だ。
今になってやっと、カミラは自分の愚かさに気づいた。何もかもを後悔している。
図々しいのは分かっている。一体どの面下げてハルに助けを請うのかと。
しかしもう、カミラにはハルに縋る事しかできなかった。
死にたくない!
「指輪は返すわ! 約束するッ! だから助けて! お願い、お願いよ!」
「――黙って」
緊張で震えた、しかしはっきりとした声がカミラに届いた。
言ったのはハルだ。こちらを睨むように険しい顔をしている。
カミラはさらに涙をこぼし、必死に訴える。
「そんなっ! お願いよ、助けて! 私を見捨てないでっ!」
「いいから黙って!」
びっくりするほど強い口調でハルが怒鳴った。
もう駄目だ。カミラは思った。
ハルはやはり、自分を許してはくれないらしい。誰も自分を助けてはくれない。もう終わりだ。
だがハルは、カミラを許すとか許さないとか、そんな事を考えていたのではないらしい。
ハルの澄んだ瞳には、緊張と恐怖と、そして強い決意が現れていた。
平凡な下女が静かに言う。
「お願いだからちょっと黙ってて。あなたの叫び声で魔獣が興奮してる。きっと助けるから、もうちょっと頑張って」
魔獣を睨みつけているハルを見て、カミラは困惑した。涙がピタリと止まる。
(助けてを求めておいてなんだけど、まさかこの子、魔獣と戦うつもりでいるの?)