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喜んでいるような、あるいはわくわくと興奮しているような目で、ルカがこちらを見ていた。
「何? どうしたの?」
どうしてそんな反応をされているのかと思ったハルが訊くが、
「いや、何でもないよ。ただ、ハルの魔力は素直だなと思って」
とよく分からない答えを返されて終わった。
先程からずっと感慨にふけっているザナクドを放って、ハルは魔術の特訓に戻る。今日は魔力を体の中で移動させる訓練だ。杖を持っている利き手の方に魔力を集められなければ、簡単な術すら放てない。
黙って特訓に没頭するハルとは違い、今日のルカはどこか気もそぞろだった。いつもならハルがしっかりできているか確認するため彼も集中しているのだが、今は外で足音がするたび忙しなくそちらに視線を向けている。
「誰か来るの?」
手首をぱたぱたと振りながらハルが言う。一箇所にずっと濃い魔力を集め続けていると、そこが熱を持ってくるような気がするのだ。魔力の移動の仕方が荒いと、骨や筋肉に痛みも走る。
ルカは申し訳無さそうに謝った。
「ごめん、ちょっと……気になる事があって」
深く突っ込むつもりはなかったのだが、ルカは説明してくれた。
ここから少し南に下った所にあるトリドスという町に、サイポス軍が攻め込んで来ているというのだ。住民たちには王都への避難を命じたらしいのだが、それが間に合ったか、捕らわれた者はいないか心配だったらしい。
「そりゃ、私の特訓なんかに集中なんてできないよ。ごめんね、無理して付き合ってもらわなくても大丈夫だよ」
「いや、いいんだ。信頼できる臣下たちが対応してくれているから、僕にできる事は無いし。第一、僕が表立って動いたら、ドラニアスの竜騎士たちもやって来てさらに事態がややこしくなるからね」
今はここでじっとしている他ない、とルカは悔しそうに言った。
サイポスとはラマーンの南に位置する国で、ラマーンと同じ砂漠の国だ。が、平和なジジリアに住んでいたハルとしては、サイポスにいい印象は持ってなかった。
ラマーンの約半分の土地に、ラマーンとほぼ同じ人口の国民が暮らしているサイポスは軍国主義と言われていて、隙あらばラマーンやジジリアにちょっかいを出してきていたからだ。
ジジリアは大人の対応をしていたため近年大きな戦争が起こったことはないが、国境付近での小競り合いはしょっちゅうだった。何かあれば話し合いなどすっ飛ばして、すぐに武力攻撃を仕掛けてくるような面倒な国なのである。
軍が力を持っている国というとドラニアスもそうだが、ドラニアスとサイポスでは性質と格が違う気がする。
武装していつも周囲の国を睨みつけているが、どんと構えて相手から攻撃を仕掛けられない限り動かないドラニアスに対して、サイポスは自分からキャンキャンと周辺国に吠えて噛み付いているイメージだ。
現在では世界のほとんどの国で廃止されている奴隷制も、しつこく根付いているらしい。ジジリアで子どもが行方不明になったら、サイポスに売られたんだという噂が必ず立つくらいだった。
「ラマーンはそれほど魅力的な土地ではないけれど、それでもサイポスが攻めこんで奪おうとしているものは水資源だ」
ルカ曰く、ラマーンは実は――あくまで気候の割にはだが――地下水が豊富なのだそうだ。オアシスも多いし、この集落や王都などは涸れ川の恩恵も受けている。雨季はもちろん、乾季も地下に溜まった水を汲み上げて利用できるから。
一方でサイポスは世界で最も乾燥した国と言われていて、ほとんどが平地であるために山地からの水の供給が少なく、降水も極めて少ない。サイポスの中には、過去百年、一度も雨が降らなかった地域もあるとか。
常に水不足に悩まされているサイポスは、ラマーンが混乱しているこの機に乗じて侵略を開始したのだろう。欲しいものがあれば、持っている者を殺して奪うのがサイポスのやり方だ。
「ドラニアスはラマーンの土地に興味を持っていないと分かっているから、南の方ではすでにサイポス軍が竜騎士を気にする事なく我が物顔で闊歩している」
最初に攻めこまれ、略奪された最南の町では住民たちは逃げる暇もなかったらしく、抵抗した者と使えない年寄りは容赦なく殺され、労働力になりそうな若者は人間という身分を奪われ、奴隷に落とされたという。
先王が恐怖で支配していたラマーンも国民にとっては到底いい国ではなかったが、サイポスに支配されれば、未来はより残酷で暗いものになる。
ラマーンが抗戦の準備を整える前に王都を取ってしまおうと考えたのだろうか、サイポスはここ数週間で一気にトリドスまで軍を進めていた。侵略者は、もうすぐそこまで来ているのだ。
ラマーンも今までずっと無抵抗だった訳ではないが、軍事力はサイポスの方が上で、南の領地を守る事ができなかった。
「けれど王都まで占領される訳にはいかない。今回は全力で戦わなくては、国が乗っ取られてしまう」
ルカは下を向いたまま静かに、しかし強い口調で言った。
「ルカも戦うの?」
「もちろんだ。こんな時にまで隠れてはいられない。僕が先頭に立って戦えば兵士たちの士気も上がるだろうし、司令官としては頼りないかもしれないけれど、魔術師としては役に立てると思うから」
きっとルカの身を案じているのだろう、後ろでザナクドは険しい顔をしている。しかし彼もこの戦争に勝つためにはルカの存在が必要だと思っているらしく、何も口を挟んでくる事はなかった。王というのは守られているばかりでは務まらないのだろう。時として戦わなければならないのだ。
「実は僕は、ラマーンでは一二を争うくらいの魔術師なんだよ」と冗談めかして付け加えた後、ルカはまた真面目な顔をして言った。
「だけど、とにかく竜騎士たちに許してもらえなければ、僕はここから一歩も動けない。サイポスを迎え討つためにも、ドラニアスとの交渉を進めないと」
ルカ曰く、すでに王都にいるラマーンの宰相から交渉の話はドラニアスへ行っていて、今はその返事待ちだという。
つまりハルの存在もドラニアス側に伝えられているのだ。
「ドラニアスが交渉に応じると言えば、ハルも僕と一緒に王都へ向かってもらう事になるから、心の準備だけはしておいてほしい」
「うん、大丈夫だよ。私はいつでも」
まだ見ぬレオルザークと相対する場面を思い描くと緊張で鼓動が早くなるが、覚悟はできている。
しかし、怖い人物らしいという情報は得ているものの、レオルザークが具体的にどういう性格なのか知らないので、事前にあれこれ策を企てる事は難しい。
遅くても今日の午後には王都からの使者がやって来るらしいけれど、ハルはそれまで淡々と魔術の特訓でも続けるしかないのだ。
ちらりとルカを見ると、彼も張り詰めた表情をして、不安げな様子を僅かに表に覗かせていた。竜騎士たちとの交渉が無事に済んだとしても、その後はサイポスとの戦いが待っているのだ。精神的に大人びているとはいえ、まだルカは成人前である。怖くないはずがない。
だけど泣いて震える事もなく、逃げ出す事もせず、静かに自分のやるべき事を成そうとしている。
「ルカ」
ハルはそっと彼の手を握った。
「私……私も頑張るからね。私にできること……分からないけど、でも……」
自分が何を言いたいのか、自分でも分からなかった。何をルカに伝えたいのか。
だけどルカを見ていると、ハルも頑張ろうと思うのだ。自分に課せられた使命を全うしなければと、強く思う。
ハルにとって、ルカはある意味特別な存在になっていた。
親しみを感じているけれど、ただの友だちとは違う。憧れのようなものは感じるけれど、異性として好意を持っている訳でもない。
いうなれば、“同志”だろうか。
ここでルカと出会えてハルはよかったと思っている。そしてやはり、彼を死なせたくない。
ルカがラマーンの王になり、自分がドラニアスの皇帝になる。二つの国が自然に友好を深めていく未来の光景が、ふとハルの頭の中に浮かんだ。
「ありがとう」
手を握り返されて、ハルはハッと我に返った。
ルカが金色の目を細めて、穏やかにこちらを見ていた。
『ティトケペル王子を見逃してくれるのならば、ラマーンはこちらで保護している“ドラニアスの帝位継承権を持つ少女”を差し出せる』
ラマーンからドラニアスへの、その交渉の答えを持った使者が王都からやって来たのは、正午過ぎの事だった。
急いで、しかし周囲を気にして密かに集落へ入った使者が言ったドラニアスの返答はこうだ。
――ドラニアスは、いかなる交渉にも応じない。
つまり、ルカは必ず処刑されるという事。
そしてハルの存在は無視されたという事。




