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平凡なる皇帝  作者: 三国司
第三章 誘拐と砂漠と最後の王子と

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12

 その晩は嫌な夢を見た。

 ハルがジジリアで下女として働いているところに、顔が真っ黒に塗りつぶされた竜騎士たちが大勢やって来て言うのだ。


『やっと見つけた。この子がエドモンド様の?』

『ああ、確かに顔は似ているが……』

『しかし髪の色は母親似だ』

『それにずっと人間として、人間の国で育ってきたんだ。考え方はまるきり人間に違いない』


 大柄な竜人たちに囲まれ、ハルは恐ろしくて仕方がなかった。輪の真ん中でしゃがみ込み、自分自身を守るように頭を抱え、震え続ける。


『やはり混血の皇帝など認められない』

『ああ、この子では無理だ。ドラニアスの皇帝になる事は許されない』

『ならば殺してしまおう。自分に帝位継承権があると知って、良からぬ事を企てるかもしれない』

『ああ、そうだな。殺した方がいい』


 無骨な手が伸びてきて、ハルの細い首を簡単に掴んだ。「待って、やめて!」と叫ぼうとしても、何故か声が出ない。

 竜騎士の手に力が込められて気道が狭まり、死ぬと思った瞬間に、寝汗をびっしょりかいて目覚めていた。


(朝から最悪な気分……)


 ハルは悪夢を振り払うように目を擦り、のっそりと起き上がった。外はもう明るくなり始めている。隣を見ると、ハディもちょうど目を覚ましたところだった。

 

(ただの夢、ただの夢だから)


 自分に待っている未来なんかじゃない。そう言い聞かせながら、不穏な予感を打ち消そうとした。




 その日も早朝からハディにくっついて家事を手伝った。最初に洗濯を終わらせてしまおうと、ザナクドやルカの衣類も回収して井戸へと向かう。昨日は昼間に来たせいで誰もいなかったが、今朝は集落の女性たちが五、六人ほど集まってお喋りを交わしていた。

 しかしハルが現れた途端、皆ぴたりと口を閉ざしてしまう。


「この国の女の人って恥ずかしがり屋なの?」

「……ハルって、考えが平和よね。私がハルなら、嫌われてるんだって考えちゃうわ」


 ハディが肩をすくめて言うが、ハルは楽天的に考えて「恥ずかしがり屋」だという結論を出したわけではない。

 ここにいる女性たちがハルに向ける視線は、他人に対する僅かな警戒と照れが見えるだけで嫌なものではないと思ったのだ。今も洗濯を続けながらそわそわとハルを見ては隣の女性に何かを囁いて控えめに笑い合っている姿は、こちらに興味があるのだけど話しかけるのは恥ずかしいといった様子に映った。

 ハディにそれを説明すると、「よく見てるのね」と感心された。


「実際、ハルの言う通りよ。皆ハルを嫌ってる訳じゃない。この国の人たちは内向的で人見知りなだけ。でも慣れた人間にはよく喋って、止まらないのよ」

「女の人がお喋りなのは、どこの国でも同じだね」


 明るく言い合って、洗濯に励む。

 やがて終わって帰ろうかと立ち上がった時には、近づいて来た女性に一言声をかけられた。


「王子の事、私たちはとても感謝しているよ」


 金盥を持つハルの手にそっと自分の手のひらを重ねた後、女性は申し訳無さそうな顔をして去って行く。他の女性たちもそれに続き、井戸の周りから姿を消した。

 ハディと二人残ったハルは、金盥を持って突っ立ちながら質問する。


「集落の人たちにも説明したんだね」


 ハルを竜人たちに差し出す代わりに、ルカの処刑を取り止めるよう交渉する事を。

 ハディは背中に垂らしている太い三つ編みを胸の方に持ってきながら頷いた。


「ええ……。全員がちゃんと事情を知っていないと、咄嗟の時に適切な行動を取れないから。例えば今、竜騎士たちがこの集落にやって来たら、皆殿下の事だけじゃなく、ハルの事も口外しないわ。ドラニアスと正式に交渉を始めるまで、ハルの存在は隠さなければならないからね」

「なるほど」


 ハルは大事な交渉材料。集落の人間全員が、ルカを生かすためならハルを犠牲にする事も仕方ないと思っている。

 不思議だけれど、その事に怒りを感じたりはしなかった。むしろラマーンの人たちがルカを大事に想っている事が分かるのは嬉しい。


「ラマーンの人たちは、ルカに王になってほしいと本当に望んでいるんだね」


 ぎらぎらと存在を主張し始めた太陽を避けるように、ハルはショールを深く被り直した。


「ティトケペル殿下は、聡明で慈悲深いシャーリィ妃の血を継いでいるのよ。彼ならきっと国を良い方に導いてくれると、皆そう信じてる。父王のようにはならないとね」

「ルカのお母さんって、本当に国民から慕われてたんだね」

「もちろんよ。慈愛の人として伝説の人物になっているわ。彼女の生涯は物語となって、今も子どもたちに語り継がれているの」


 シャーリィ妃がいかに美しい心を持った人物だったかというハディの語りを聞きながら、ルカも大変だなとハルは思った。父のしでかした事件の尻拭いをし、罪を背負う一方で、母のようになれと期待をかけられる。

 それでも文句一つ言わずに、ラマーンと国民を守ろうとするルカは偉いとも思う。

 自分たちは立場がよく似ているけれど、ルカの方がずっとしっかりしていると、ハルは少し自分が情けなくなった。





「見えた! 見えたよ、ルカ――……あーだめだ、消えちゃった」

「気を抜いてはいけないよ」


 ハルはルカに向き合って、がっくりと肩を落とした。一瞬彼のまとう魔力が見えたのだが、成功を喜んだ途端にそれは消えてしまったのだ。

 今、ハルはハディの家でルカに魔術を習っていた。これにザナクドはあまりいい顔をしなかったが、ハディが昨夜のことを話したらしく、夜中にこっそり二人で会われるよりはと渋々ルカを連れて来てくれた。

 狭い部屋の中、ハディとザナクドの監視つきで、まずは魔力を見ることが出来るよう訓練する。

 先ほど見えたルカの魔力は金色をしていた。明るく派手派手しいものではなく、落ち着いた金褐色だ。


「見えたと思って、もっとよく見ようとすると消えちゃうんだよ」

「両目に意識を向けてしまうからだね。第三の眼があると想像しながら見ることが大事だよ。魔力を見る時は、両目の視界はぼんやりと霞がかっているくらいでいい。もう一度やってごらん」

「うん」


 家の中で魔術を習うという事で、壁を壊されるんじゃないかと最初はハラハラしていたハディだが、ハルの実力がまだそこまで達していないと知って、安心したように縫い物を始めた。しばらく地味な訓練が続いたが、ザナクドはたまに外へ注意を向けながらも、黙ってハルたちを見守っていた。

 一時間経って、ハルが自分の全身を包む明るいエメラルドグリーンをはっきりと認識できるようになった頃、


「なんだか頭が疲れた……」


 まぶたを閉じて目を休めながら、ハルが言った。


「少し休憩しよう。そろそろお昼だしね」

「ちょうどもうすぐ出来上がるわ。皆こっちへ来て」


 ルカに続いて、少し前から昼食の準備を始めていたハディが手招きした。コンガのパンに、マッシュポテトに似たペースト状の豆料理、挽き肉炒めに赤紫色の見慣れぬフルーツが今日のメニューのようだ。


「わーい、お腹すいたー。ありがとうハディ、手伝えなくてごめん」

「いいのよ、さぁ座って」

「――ザナクドさん、おられますか」


 と、全員で団欒していたところに突然若い男の声が掛かった。出入口の布がずらされて、少し焦ったような顔が覗く。ザナクドと同じ兵士の男だ。彼は家の中にルカもいる事に気づいて礼をとった。


「アスタか、どうした」


 ザナクドが立ち上がって問うと、アスタと呼ばれた男は外に漏れないよう声をひそめて説明を始めた。


「今、集落に見慣れぬ男が一人来ています。砂漠を越えてジジリアからやって来たようで……」

「ジジリア人が、慣れない砂漠を一人で越えたと?」

「詳しい事は訊いていませんが、おそらく。仲間が潜んでいる様子もありませんし。ただ、言われてみると確かに違和感が……。途中で盗賊にでも遭ったのかもしれませんが、男は砂漠を渡れるような十分な装備を持っていなかったように思います」

「男の目的は? 遭難でもしたか」

「いえ、それが……水を求めるでもなく、集落の人間に『女の子をくわえた、赤いドラゴンを見ていないか』と聞き回っているんです」


 アスタはそこで一瞬ハルを見て、またザナクドに視線を戻し、話を続けた。


「皆心得ていますから『見ていない』と返していますが、しつこくて……。集落の者全員に訊いて回るつもりですよ」

「ハル、その男に心当たりはあるか?」


 ザナクドは腕を組んでハルを見た。

 

「心当たりはもちろんあるけど、でも……」


 ハルの胸は期待に膨らむ事なく、逆にざわざわと波打っていた。

 何故なら来訪者の男の正体がクロナギ、あるいはオルガやソルだとは思えなかったからだ。

 目の前のアスタがあまり慌ててはいないのが気になる。突然の来訪者を警戒しているものの、竜人の脅威を感じてルカを隠す様子もない。背が高く筋肉質で、まとう雰囲気に隙がないクロナギたちは、ラマーン人が見ればすぐに竜人だと気づけるはずなのに。

 しかしジジリアからハルを捜しに来る男など、クロナギたち以外に思いつかない。ハルは戸惑いながらアスタに訊いた。


「その男の人、ジジリア人なの? 竜人じゃなくて?」

「竜人? いや、普通の人間だと思うが……。身長は俺と同じくらいで、顔つきも何というか……あまり鋭くなかった」

「一応、ティトケペル殿下を奥の寝室にお連れした方がいいんじゃない?」


 ハディが緊張感を滲ませて言うと、ザナクドも「そうだな」と同意する。

 そしてその間にもハルは、来訪者の正体について頭を巡らせていた。アスタの様子からクロナギたちではないと確信し、一体誰が何の目的で『女の子をくわえた赤いドラゴン』を捜しているのかと心をざわめかせる。相手が自分と集落の人たち、あるいはルカにとって無害な人物であるのかどうか、それを推察する必要があった。


「殿下、こちらへ」


 ハディが丁寧にルカを促し、寝室へ向かおうとした時だ。


「――ああッ! やっぱりいた!」


 突然出入口の布が乱暴に開かれて、薄暗かった室内に明るい光が差し込んだ。アスタが驚いたように振り返り、ハディが咄嗟にルカを背に庇う。ザナクドは側に置いてあった剣を取って構え、ハルはただ目を丸くして乱入者を凝視した。

 その男は出入口に立ったままハルに視線を注ぎ、安心したように息をついた。


「よかったぁ、まじで」


 安堵するあまり、今にも膝から崩れ落ちそうだ。

 男は確かに、竜人らしくはなかった。彫りの浅い平凡な顔立ちをしていて、美形でもなければ醜くもない。年は二十代前半くらいで、短い黒髪は地味だけれど爽やかさも感じさせる。身体もそれほど大きくなく、際立った特徴がないからこそ見る者に安心感を与えるような外見をしていた。


「……ハル、やはり君の知り合いのようだが」


 構えを解いたザナクドが言う。ルカの方へひそかに近づいてハディと一緒に壁になり、用心は続けているが、男の様子に警戒のレベルは下げたようだ。

 しかしハルはまだ困惑していた。男は自分を捜していたようだが、こちらは彼に全く見覚えがないのだ。


「私、知らない……。あなた誰?」


 ルカの方へ下がったザナクドの代わりに、アスタがいつの間にかナイフを抜いて男に向けていた。しかし男は鈍く光る銀の刃をさして気にする様子もなく、ハルを見て明るく笑う。


「ああ、そっか。俺はずっと一緒に旅してた気分だったんですけど、ハル様は俺の事知らないですよね。俺はヤマトといいます。どうぞお見知り置きを」

「ヤマト?」


 ハルはその名に聞き覚えがあった。トチェッカでクロナギが、『ヤマトにつけられている』というような事を言っていたはずだ。姿も見えなかれば気配もしないので、それからすっかり忘れていたが、ずっと尾行してきていたのだろうか? レオルザークの指示で?

 ハルは一歩後ろに下がってヤマトと距離を取った。彼は警戒するべき相手だ。今になってハルの前に出てきた目的は何だろう。レオルザークの元へ連れて行こうとでもいうのだろうか。


「あ、すげぇ怪しまれてる俺」


 人見知りの猫のような目をしているハルを見て、ヤマトが言った。


「でも俺の名前は知っててくれたんですね。クロナギ先輩から聞いたんですか?」

「……レオルザークの命令を受けて、私たちを監視してるって」

「レオルザーク?」


 ザナクドとアスタが同時に言う。ドラニアスの司令官の名前くらい知っているのだろう。もしかしたら会った事もあるのかもしれない。隅の方でルカも僅かに身動ぎして反応を示した。

 レオルザーク側の竜人は、ハルにとってもルカにとっても危険な人物になる。そうは見えないけれど、ヤマトも正真正銘、竜騎士なのだ。


「確かにハル様たちをつけてたのはレオルザーク総長の指示ですけど、そんなに警戒心丸出しにしないでくださいよ。悲しくなります。今すぐハル様をどうこうするつもりはありませんし、総長からも別に何の命令も受けていませんから、ね? ハル様の身を心配して追いかけてきただけですから」

 

 不安げな顔をするハルを、ヤマトは慌ててなだめた。何も企んでいないと潔白を訴えてくる。


「赤い飛竜に攫われる直前の事、覚えてますか? クロナギさんやソルは熱を出したハル様のために休める場所を探しに、アナリアさんはハル様に食べさせるレッド何とかっていう実を摘みに行ってて不在だったんです。それでオルガさんが留守番だったんですけど、魔獣の襲撃に遭って……それを撃退している隙にハル様は攫われたんですよ。あ、ちなみにラッチという子竜はずっと寝てましたけど」


 その時のことは、あまりよく覚えていなかった。意識が朦朧としていたからだ。


「つまりハル様がドラゴンに攫われるところを見たのは、ずっと陰から尾行していた俺だけだったんです。やばいと思って飛び立ったドラゴンの後を追ったんですけど、途中で見失って……でも飛んでいった方角は分かってたので、目撃情報を聞きながらここまで来たんですよ。よかった、本当に見つかって。そういえば熱は大丈夫ですか? ちょっと失礼を」


 腰をかがめたヤマトが手を伸ばしておでこに触れてきたが、ハルは抵抗しなかった。ヤマトの平凡顔に親近感を覚えてしまって、どうにも気を抜いてしまう。


「えーっと、熱を測るのはおでこでいいんでしたっけ? ほっぺた? 首の動脈?」


 ぺたぺたと移動してくるヤマトの手にされるがままになりながら、「熱はもうないから大丈夫」とハルは伝えた。クロナギたちは風邪を知らなかったし、ヤマトも竜人なので熱の測り方なんて知らないのだろう。

 ハルはヤマトをじっと見て尋ねた。


「どうして私の心配をするの? レオルザーク側の人なら、私が死んだって何も問題はないと思うけど」


 ヤマトは軽く瞠目してから、ハルの前に膝をついて話し出した。


「確かに俺はレオルザーク総長の部下ですし、あの人に逆らうつもりもありません。怖いですから。でもだからと言って、完全にハル様の敵に回るつもりも……今ではありません」


 ハルはヤマトからの視線を受け止めながら、それを聞いていた。


「クロナギ先輩がハル様と出会った時から、何気に俺もずっとあなたの側にいたんですよ。まぁ、監視してましたから。だけど俺だってハル様の事をよく知っているってことです。――情を移してしまうくらいにはね。例えば今、総長からあなたの抹殺命令が出されたら、反旗を翻すまではしなくても、ハル様を連れてクロナギ先輩たちのところへ逃げるくらいはします」


 総長と戦う役目はあの人たちに任せましょう、俺には無理です。そう言ってヤマトはぶるりと体を震わせた。レオルザークとはそんなに恐ろしい人物なのだろうか。


「じゃあ、敵じゃないんだね」


 クロナギのような絶対的な庇護者でもないけれど。


「はい。ハル様に敵だと思われるのは悲しいのでやめてください」

「わかった、やめる」

「ハル」


 素直に頷いているハルに、ザナクドが声をかけた。


「いいのか、簡単に信用して……」

「うん、嘘は言ってないと思う」


 呆れたようにため息をつかれたが、ハルは自分の直感とヤマトを信じた。

 と、それまで周りに目を向けていなかったヤマトが初めてザナクドを視界に入れ、その奥に匿われているルカにも気づいた。ザナクドと、神経質に顔をこわばらせたハディがお互いの距離を縮め、隙間をなくして完全にルカを見えなくする。

 しかし子どもというには大きすぎる少年を大げさに庇うその行動は、やはりハルの目には不自然に映った。人を観察し慣れているヤマトの目には尚更だろう。

 おまけにヤマトは元々『ティトケペル王子』の人相を知っていたようだ。一瞬見えたルカの顔を見て、すっと瞳を凍らせた。


「おっと、まさかこんなところで王族最後の生き残りに出会うとは。あの肖像画はかなり美化して描かれているんだと思ってたけど、結構似てるな」


 足を踏み出し、じわりとルカに近づこうとしたヤマトの首筋に、アスタのナイフの切っ先が当たった。

 

「動くな」


 ヤマトはちらりとアスタへ視線を向けた。道端に転がっている石ころを見るような目で。

 部屋の空気は一変して、重い緊張感に包まれ始めた。誰かが少しでも動けば、この狭い家の中で戦いが始まりそうな張り詰めた雰囲気。

 ヤマトはルカへ冷たい眼差しを注ぎ、吐き捨てるように言った。


「あの男の息子が、一体どの面下げてハル様の前に立っているんだ?」


 ルカの表情は見えないが、ザナクドはきつく眉根を寄せてヤマトを睨んだ。

 穏やかそうに見えたヤマトの変化に、ハルは驚きを隠せなかった。彼の瞳の奥に宿る憎しみの炎は、ハルというよりエドモンドの事を想って激しく燃えている。

 

「ザナクド、ハディ」


 ルカはヤマトと話をするため前にいる二人を退かそうとしたが、ザナクドたちは決して動かなかった。


「危険です」

「おい、動くなと言っているだろ」


 ザナクドがルカに、そしてアスタがヤマトに警告する。アスタの持つナイフが、ヤマトの皮膚に薄く傷をつけた。


「ヤマト」


 彼がアスタに反撃を仕掛けそうな気配を感じて、ハルは先手を打った。名前を呼んでこちらに注意を向けるとヤマトは平和な顔をして笑った。


「やっぱりいいですね。名前を呼んでもらえるのは。なんて言うんでしょう、魂が震えるような、久しぶりの感覚」

「名前ならいくらでも呼んであげるから、ちょっと話を聞いてくれる?」

「もちろんです」


 ナイフを突きつけられたまま軽い反応を返すヤマトに、ハルは急いでこれまでの事を説明した。ルカやザナクド、ハディたちに助けられた事を。


「ルカたちがいなかったら、私はあのまま空の上で死んでたかもしれない。命の恩人なんだよ。彼らに危害を加えたりしたら、私許さないからね」


 なるべく強い口調で言うと、ヤマトは不満気に顔をしかめた。ルカとハルを交互に見て、やがて嫌そうに口を開く。


「うちのハル様を助けていただいてありがとーございます」

「ヤマト」


 睨むと、ヤマトは口をへの字に曲げつつザナクドたちに向かって言い直した。


「ハル様を助けてくれた事、看病してくれた事には感謝する」

「礼を言われる必要はない」


 即座に返したのはルカで、その声音は冷たいというよりただひたすらに謙虚だった。

 ヤマトは改めてこの国の最後の王子を見据え、憎しみを呑み込むように唇を引き結んだ。目の前の痩せ気味の少年は、この一年の心労のせいか少し疲れたような表情をしていたが、元々の聡明さと意志の強さをその瞳に宿している。


「こうして見ると、思っていたよりまともそうな王子だな」


 処刑される間際、「金も民も妃たちも、何でもやるから私の命だけは助けてくれ」とみっともなく泣き喚いたラマーン国王に、宝飾品やドレスを腕いっぱいに抱えて我先にと逃げ出した妃たち、そして臣下を身代わりに置いて同じく自分の身だけを救おうとしたラマーン王子、王女たち。

 窮地に陥った途端、一気にその本質を晒した彼らの事を、ヤマトは思い出していた。


 大した器ではないと最初から分かっていたけれど、何故もっと早くに、正確に彼らの内面を見抜いてエドモンドへ警告できなかったのかと、何度自分を殴りたくなったか。


 自分に対する怒りから唇を噛みしめるヤマトの腕に、そっと小さな手が触れた。ハルは何も言わず、緑金の瞳で心配げにヤマトを覗きこんでいる。

 と、その途端、ヤマトは心がすっと軽くなったような気がした。

 ハルを見ていると、前を向くことが出来る。この危なっかしい少女を守るには、いつまでも過去に縋り付いてはいられないのだ。


「ハル様、ここを出ましょう。クロナギ先輩たちと合流しないと」

「そうはさせない」


 ザナクドが再び剣に手をかけ、力のこもった低い声で言った。


「出て行くなら一人で行くがいい。我々はその子を手放す訳にはいかない。来たるドラニアスとの交渉において、彼女は我々の切り札となる」

「ちょっとザナクド、わざわざ竜人を怒らせるような事……」


 ハディが慌てて言うが、ヤマトはザナクドをきつくねめつけて声を荒げる。


「なるほどハル様と引き換えに、王子の助命を請おうってか。小賢しい人間め。エドモンド様の命を奪っておきながら、ハル様までも自分たちのために使おうっていうのかよ、くそが」

「ヤマト、口が悪くなってる」

「好きに言うがいい。我々は殿下を守るためなら何でもする」


 ハルの呟きは、ヤマトとザナクドの迫力ある言い合いに打ち消された。


「ハル様、こんな奴ら放っておいて行きましょう――……って、ハル様!?」


 ハルの腕を取ろうとしたヤマトの手が空を掴む。隣にいたはずのハルがいつの間にか剣を構えるザナクドの側に移動していて、ヤマトは大いに狼狽した。


「ちょ、何でそっち行くんですか! 危ないからこっち戻って来てください!」

「まぁまぁ、落ち着いて」

「落ち着けないです! ハル様に何かあったら、クロナギ先輩やアナリアさんにどんな制裁を受けるか……!」

「あのね、私もレオルザークと会って話をしようと思ってるんだよ」

「は?」


 思わず丁寧に接する事も忘れて、ヤマトは呑気な少女を凝視した。


「あ、すみませんつい。でも総長と会うって? 正気ですか?」

「うん、いずれ話をしないといけないって思ってた」

「総長すげー怖いですよ? 会うにしてもクロナギ先輩たちと合流した後の方がいいですよ。万が一の事が起こったら、俺だけではハル様を守れません」


 ハルはヤマトの言葉に――正確には『総長すげー怖いですよ』の一文に顔を青くさせたが、ぷるぷると顔を振って恐怖を吹き飛ばし、続けた。


「私だってクロナギたちがついててくれた方が心強いけど、それだけの時間があるか……。私、ルカを死なせたくない」


 そっとルカを振り返ったハルの人懐こい表情を見て、ヤマトの心に腹立ちと諦めが入り交じる。自分がここに到着するまでの間に、ハルがすっかり彼らに心を砕いている事に苛立ったのだ。

 そして諦めは――


「もう決めたの」


 真っ直ぐヤマトに注がれた強い視線に、降伏するしかなかった。容姿だけでなく性格もエドモンドに似ているのなら、ハルも一度決めたことは覆さないだろうと悟ったのだ。


「あー、もー……分かりましたよ、従います」


 ヤマトはため息をついて、ハルに頭を垂れた。彼女の意志に従う事自体には抵抗がない。むしろ喜びだ。

 それに冷静に考えれば、ハルを連れて砂漠を安全に越えるのも難しい。クロナギはジジリアかラマーンにいるのではと予想をつけているが、正確な居場所も分からないのにハルを連れ回すのは良くないだろう。ハルは普通の竜人よりやわだし、ヤマトも護衛としての能力はそれほど高くないのだ。


 二人でここを立つか、レオルザークに会うか。その二つを比べると、危険度は同じくらいに思えた。

 後者の方が、ずっとずっと恐ろしいけれど。



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