11
「よし、きれいになった」
集落に一つしかない井戸の近くにしゃがみ込んで、ハルは皿に汚れが残っていないか確認していた。桶に水を張って作業していると、下女として働いていた時の事を思い出す。ラマーンのような暑い地域でなら水仕事も苦ではない。
「ハディは終わった? 手伝おうか?」
隣で衣服を洗っていたハディに声を掛けると、
「いいえ、大丈夫よ。私ももう終わるから」
そう返事が返ってくる。家事を終えると、ハディもハルも額にじんわりと汗をかいていた。すでに昼近いため、強烈な日差しを放つ太陽が空高く昇り、気温もどんどん上がってきている。洗濯などは本来もっと朝早くに済ませてしまうらしいが、今朝ハディはハルの看病をしてくれていたために遅れたのだ。
汚れた水を捨てて、空の金盥に食器や濡れた洗濯物を入れる。立ち上がって家に戻ろうとしたところで、ハディが遠慮がちに言った。
「ねぇ、ハル。本当にいいの?」
ハルは両手で桶を持って、しゃがんだままのハディを見下ろした。被ったショールが二人の顔に影を落としている。
ハディの言わんとしている事は分かる。ルカを見逃す交換条件として、ハルが竜騎士たちに引き渡される事を心配してくれているのだ。
「うん、私は大丈夫だよ」
「ハル、ごめんなさい。あなたを逃がしてあげたいけど……ティトケペル殿下を失う訳にもいかないの。この国が再興するためには、彼の存在が大切になるのよ。私は私の家族と集落の人たち、そして故郷を守りたいの」
「いいよ、分かってる。自分にとって大事だと思う人の事を、ハディは一番に考えて。それに私が竜騎士たちに引き渡されても必ず殺されるって訳じゃないから、そんなに悲しそうな顔しないで」
死地に赴く兵士じゃないんだよ私は、と笑って言うと、ハディも僅かに唇の端を上げた。
「実際、殺される確率はそんなに高くないんじゃないかなと思ってる。竜騎士たちには逆らうつもりないし、いい子にしてたら命までは奪われないかも」
「私は政治なんて全然分からないけど、国にとって脅威になるなら、“いい子”でも殺すんじゃないかしら」
控えめに指摘され、ハルは唇をとがらせた。
「じゃあこれはどう? 私って父さまに似てるらしいから、先代皇帝にそっくりな娘を殺すなんて、彼らもあまり気乗りしないんじゃないかな。ね、そう思わない? そうだといいよね」
「……希望的観測ね」
「だめ?」
体ごと傾けて首を傾げるハルに、ハディは「心配だわ……」とため息をついた。やがてハルと同じように桶を持って立ち上がると、しっかり者の姉のような口調で話し出す。
「いい? ハルは今すぐに竜騎士たちのところへ連れて行かれる訳じゃないの。だからその日が来るまでに、なんとか彼らに殺されなくて済むよう方法を考えておくのよ」
「私って今日か明日にも引き渡されるんじゃないの?」
「まだ準備が整ってないのよ。ハルを使ってどう交渉するか、向こうの反応も予想しながら細かく決めなくちゃいけないでしょ。でもザナクドたちはただの兵士だし、外交も政治的な駆け引きも専門外だから、王都にいる宰相様たちに使いを出して状況を説明しているところよ」
「そっか」
その後もハディの親切心からの小言を聞きながら、二人で家に向かって歩き出す。
ハディの両親は亡くなっているので、家の中ではしばらくハディとハルの二人きりの生活が続くだろう。
ハディの親は二人とも王族に殺されたらしい。ハディの母は美しい人で、第四王子の第二夫人にと無理矢理連れ攫われそうになったのを拒否したため、幼いハディを残して、同じく妻を奪われまいと抵抗した夫と共に殺された。
酷い話だとハルは憤慨したが、王族が絶対的な権力を持っていたこの国では、割とよくあった事らしい。
ハディの家の隣にはザナクドの実家があるが、通りすがりに外から見ただけでは、中にいるはずのルカの様子はうかがえなかった。
ルカはあの後も「僕の代わりにハルが犠牲になる必要はない」と訴えていたが、ザナクドは計画を変えなかった。彼もルカを死なせたくないのだ。ルカが生き残る確率が少しでも上がる選択肢があるなら、そちらを取るのは当然。
実際ルカ一人が出て行って竜騎士相手にどう交渉しようとも、処刑を免れるとはハルには思えなかった。「善き王になるから」「二度とドラニアスに手を出さないから」と約束したって、聞き入れてもらえるだろうか。
金や領地などを差し出したとしても、そういう物に対する興味が薄そうな竜人相手では、交渉材料にはなりそうにない。
だから、やはり自分が行くべきだとハルは思った。竜人にとってはよくも悪くも、ハルは無視できない存在だ。ルカの命と十分引き換られるだろう。
竜騎士たちに引き渡された後で自分がどうなるかは分からないが、ハルは本当に、ザナクドたちを恨んではいない。ただ彼らに大事にされているルカを見ていると、クロナギたちが無性に恋しくなって胸が痛んだ。
(皆、今どこにいるんだろう)
必死で自分を捜してくれているかと思うと、申し訳ない気持ちになる。
(でももしドラニアスに戻ってくれていたら……)
ザナクドたちによってハルが竜騎士たちへ引き渡される時に、再会できる可能性がある。ドラニアスで話を聞いて、駆けつけて来てくれるかもしれない。
クロナギたちが側にいてくれれば、見知らぬ竜騎士たちと会うのも、レオルザークと顔を合わせるのも、少しは怖くなくなる。
逆にクロナギたちが今もジジリアやウラグル山脈でハルを探していた場合、彼らがハルの引き渡しに関する情報を得る術はないだろう。ハルは一人きりで、レオルザークと対峙せねばならなくなるのだ。
そしてその時のレオルザークの判断によってはハルの存在は消される事になり、クロナギたちと二度と会えないまま死ぬ事になる。
ハディはそうならないよう策を考えておけと言うが、ハルには何も名案は浮かばなかった。
(……実際にレオルザークに会ってから考えよう)
ハディが聞いたら「度胸あるわね」と呆れられるだろうが、相手の事を知らなければどう対応していいか分からないのだ。
日中は家の中で、ハディに習いながらサンダルのほつれた部分を直したり、おやつに蒸した青いバナナを食べたり、掃除をしたりして過ごした。
日が落ちる前には二人で多めに夕飯を作って、ザナクドと彼の両親、そしてルカへお裾分けに行った。といっても、ハルは留守番しているよう言われたので、家で火の番をして待っていただけだが。
ザナクドもハディも、ハルとルカをあまり頻繁に合わせたくないようだ。仲良くなり過ぎて、ルカがハルに同情するのを心配しているのだろうか。
夕飯の後片付けも終わり、辺りが暗くなってくると、集落もしんと静かになった。皆すでに床に着き始めているらしい。ハルもハディと共に寝室へ移動すると、絨毯の上に敷いた大判の布に包まり、固くて小さい枕に頭を乗せた。
「おやすみ、ハル」
「うん、おやすみハディ」
ハディに挨拶を返して目をつぶる。
砂漠の夜は静かで涼しかったが、刻々と時間が過ぎていっても、ハルは中々寝付けなかった。枕が合わないのかと脇に退けたり、温もりを求めてハディに密かに寄り添ったりしてみるも、目は冴えたままだ。
少し前から寝息を立て始めたハディを起こさぬよう、ひっそりと寝床を抜け出す。眠気がやって来るまで砂漠の星空でも見ていようと、布団代わりの布を巻き付けたまま寝室を出た。
外へ出ると、乾いた風が髪を靡かせていった。さらりとした柔らかな感触が自慢だったというのに、砂埃のせいでハルの髪は少しごわついている。今日は体を拭いただけで、頭は洗っていないのだ。
気温は思ったほど下がっていはいないようだが、薄い寝間着一枚だけだと肌寒いと感じるかもしれない。
日干しレンガの壁に背を預け、出入り口のすぐ側で地べたに座り込む。昼間に日差しを吸い込んだ地面は、まだ温かかった。
「わぁ……きれい」
見上げた先には満天の星空が広がっており、荒涼とした大地ごとハルを包み込んでくれた。この辺りに背の高い木はないし、雨が少ないため雲もない。輝く半月とそれを囲む無数の光は、何にも隠される事なく存在を主張していた。
しかしそのきらめきに惹かれると同時に、それらを引き立たせる夜の闇も愛おしく思う。漆黒は、クロナギの色だ。
寂しさからため息を吐いたハルに、小さく声が掛けられた。
「ハル?」
優しげなその声音から相手がルカだと分かったので、暗闇の中近づいてくる人影にも恐怖は感じなかった。
「眠れないのかい?」
ハルのすぐ隣に腰を下ろしたルカは、貫頭衣風の寝間着の上にハルと同じく大きな布を巻き付けていて、すっぽりと頭と上半身を覆っている。細身だという事もあって、暗闇の中で一瞬見ただけでは女性か男性か見分けがつかないが、夜でも竜騎士の監視を警戒してわざとそういう格好をしているのかもしれない。
「うん、昨日から今日にかけてぐっすり眠ったからかな」
「眠ったというより、高熱で意識を失ってたという方が正しいと思うけど……。熱がぶり返さないように、眠くなくても横になっていた方がいいよ」
「ん、もう少しだけ……」
ハルはねだるように呟くと、再び夜空に目を向けて呟いた。
ルカが静かに隣に座る。
「今日は月も星も綺麗に見えるね。風が強い日は砂塵が巻き上がって、光が霞んでしまうんだ」
「そうなんだ……あ、風と言えば」
はっとルカに向き直って訊いた。
「ルカは魔術が使えるよね? 私を助けてくれた時のように風を起こしたりできるの?」
「うん、ラマーンの王族は強い魔力を持った者が多いんだ。兄姉たちには努力の嫌いな人たちが多かったから、才能があっても全員が魔術を使える訳じゃなかったけど、僕は一応幼い頃から師に習って勉強していたから……」
言いながら、ルカは腰帯にさしていたらしい細長い杖を取り出した。ブロンツの木で出来た、なんの装飾もないシンプルなものだ。そしてそれを天に向けると、ほら、と先から小さな風を発生させた。細い渦を巻くように昇っていくそれは、やがて勢いをなくして自然の風と同化する。
「ルカ、すごい!」
「しっ! ザナクドやハディたちが起きてしまうよ」
「あ、ごめん……」
ハルは慌てて首をすくめ、両手で口を覆った。しかし目はきらきらと輝いたまま、ルカの杖先を見つめて動かない。
ルカはその素直な反応にほほ笑みを浮かべながら、今度は目の前にある丸まった回転草目がけて緩く風を放つ。と、ボール状のそれは荒れ地の上をコロコロと転がっていった。
「僕は風の魔術が得意なんだ。この国の気候とも相性がいいから。そういえばハルも魔力があるみたいだけど、何か術は使えるの?」
ハルは素早く首を振る。
「全然。魔術を使えたらいいなと思って、旅をしている間、一人で練習してたんだけど全くだめ。クロナギたち……あ、クロナギって私の保護者みたいな竜人の事ね、彼らも魔力はあるのに魔術の事はさっぱりみたいだし、詳しい人が周りにいなくて」
魔賊のアジトから拝借してきた魔術書だけでは限界がある。独学で勉強するにしても、指南書などをどこかで買えればとハルは思っていた。
「というか、ルカはどうして私に魔力があるって分かるの? 見えるの? それとも感じるの?」
「そこから?」
よっぽど基本的な事を訊いてしまったらしく、ルカが目を丸くした。
「意識を集中させて僕を見てごらん。目は開けたまま。僕の体の中から発する魔力が、うっすら色づいて見えないかい」
「やってみる」
真剣になるあまり、ルカを見つめるハルの眉間には深い溝が出来ていた。「うー……」と意味のない呻きも上げている。
しばらく続けて、根を上げた。
「わからないよ! 今までだって一応自分の手とか見たりしてやってたんだけど、感覚が掴めなくて」
「コツがあるんだよ。誰かに聞いた事ない? 魔力は第三の目で見ろって」
「第三の目?」
ハルはきょとんと目を瞬かせる。初めて聞いた言葉だ。
ルカが呆れを通り越し、一周回って尊敬の眼差しを向けてきた。
「それすら知らずに一体どうやって魔術を練習してたの?」
「言ったでしょ、全然駄目だったって。毎日魔力を込めたつもりで杖を振ってたんだけど、なんにも出なかった」
「ただの素振りになってたんだよ、それ。魔力すら見れないのに、よく諦めずに毎日やってたね」
それは褒め言葉ではないと、さすがのハルでも分かった。拗ねたいような気持ちになったが、しかしせっかく出会えた魔術師が目の前にいるのだからと、ルカに教えを乞う。
「第三の目って何ですか。教えてください」
「拗ねるか頼むか、どっちかにしなよ」
唇を尖らせながら言うと、ルカは困った子どもを見るように苦笑した。だがその瞳はどこか楽しげだ。こんな風に歳の近い子と気軽に話せる機会が少なかったのかもしれない。
「額の真ん中に三つめの眼球があると想像して」
「うん」
「その目で僕を見てみて」
「難しい事言うなぁ……」
「ハル、両目はつぶらないで。だけど魔力を見るために使うのは想像上の第三の目だけだから、両目の存在は今は無視して」
「待って……開けたままだけど、無視して……」
おでこに目がある、と思い込むようにして、それでルカを見ようと試みる。両眼の視界が定まらず、少しぼんやりと霞みがかった。
すると思ったよりも早く感覚を掴めた。まだ魔力は見えないが、ルカの体に流れる“何か”は感じる。
「うー……」
「ハルって集中すると呻くんだね。また眉間に皺が寄ってるよ」
とんと、優しく眉の間を突つかれた。
「あまりやると最初の内は頭が痛くなるかもしれないし、ハルは昨日死にかけてたんだから、今日は根を詰めない方がいい。眠れなくなるよ。明日からやればいいさ」
「ルカもついててくれる? 私に魔術を教えてほしい。……迷惑でなければだけど」
「もちろんいいよ。昼間はあまり外へ出られないから、家の中で出来る事だけだけどね。ザナクドにも頼んでみるよ」
快く了承してくれたルカにハルは顔をほころばせ、夜空の星たちにも負けない笑顔を見せた。
「ありがとう、やった! これで私の魔術がちょっとは進歩しそう」
「魔術を教えるくらい、何でもないよ。僕は結局、ハルを竜騎士たちに引き渡さないようザナクドを説得できなかったしね。ラマーンの事情に巻き込んでしまって申し訳ないと思ってる」
静かに言って、ルカは顔を伏せた。つられてハルも笑みを消す。
「巻き込まれたとは思ってないよ。私には私の事情があって、いつかはドラニアスの竜人たちと会って話をしなきゃならなかったんだから。それが少し早まっただけだよ」
「だけど僕がハルに謝らなきゃいけないのは、それだけじゃない」
ルカはどこか辛そうな表情でハルと目を合わせた。
「……僕の父の事だ」
「お父さんがどうしたの?」
罪悪感に満ちたルカの声は小さく、ハルは彼の顔を覗き込むように首を傾けた。
ルカは一呼吸置いてから、抑揚のない声で言う。
「僕の父が、ハルの父君の命を奪った事」
その言葉を頭の中で反芻させてから、ハルは「あー」と分かっているのかいないのか微妙な相づちを打った。が、ルカはその反応が気に入らなかったらしい。
「あー、じゃないよ。自分の父親が殺されてるんだから。憎いと思わないのかい? 僕や、僕の父の事を」
「ルカを? ありえないよ」
ハルは本気で驚いて否定した。
「ルカのお父さんの事も憎いとまでは思わない。何でそんな事したんだろうとは思うけど」
あまりこの話題に興味を持っていないハルに、何故かルカは不満げだ。もっと怒って罵られる事を覚悟していたのに、肩すかしを食ったのだろうか。
ハルは思わず早口で言い訳した。
「私、父さまとは会った事ないから、殺したルカのお父さんを憎むほど思い入れがないの。もちろん、生きていてくれればよかったのにと寂しく思うけどね」
「だけど僕は謝らなければならないし、謝りたい。ハル、僕の父がしでかした愚かな行為を、彼に代わって心から謝罪する。本当に申し訳ない」
その場で深く頭を下げるルカを黙って見下ろしてから、ハルは頷いた。
「うん、わかった。謝罪を受け入れるよ」
「……そんな簡単に」
「もう、だったらどうしたらいいの!」
ハルが頬を膨らませて大げさに怒ったふりをすると、ルカもやっと表情を崩した。
「ごめん、ありがとう……謝らせてくれて。これで少し気持ちが軽くなったよ」
とは言うものの、しかしルカの瞳には依然として暗い影が残っている。父親が犯した罪を、ルカはこの先一生背負っていくのだろうか。
「お父さんの事、恨んでる?」
ハルは静かに切り出した。空に浮かぶのは灼熱の太陽ではなく、無数の優しい光たちだ。ゆっくりとした時間が流れるこんな夜なら、多少繊細な話をしたっていいのではないだろうか。
ルカは唇を引き結んでハルを見た後、座っている自分のつま先へ視線を落としてその質問に答えた。
「もちろんそうだ。父があんな父でなかったら、僕の人生はもっと違っただろう。今もこうやって身を隠す事なく、誰に命を狙われる事もなく、堂々と太陽の下を歩けたんだ。恨んでいるよ、本当」
「そっか」
ハルは短く相槌を打った。ルカは慰めの言葉を欲している訳じゃなさそうだったので、無理に話を続けるよりも、空で瞬く星たちを眺めた。人は死んだら星になる、と昔誰かが言っていた気がするけれど、だとしたら母さまの星はどれだろう。そんな事を考えながら。
同じ星になったのならもう種族の違いに悩む事もないし、きっと父と寄り添って輝いているのだろうとハルは予想する。
「父は臆病な人だったんだ」
長い沈黙の後で、ルカが再び口を開いた。
「僕が生まれる前の話だけど、父は、自分の父――僕にとっての祖父を殺して王位についたらしい」
ハルは夜空に父と母を探しながらそれを聞いた。
「そういう経緯があったから、若い頃は豪胆だった父も長く王の椅子に座っている内に、自分のこの地位もいずれ誰かに奪われるのではと恐れ、周囲を疑い始めたんだ。少しでも自分に反抗する者に容赦のない制裁を与えていたのは、彼らが怖かったから。民たちからぎりぎりまで税を搾り取っていたのは、反乱する気力すら持たせないため。そしてその血税を私利私欲に使って贅沢をしていたのは、自分の権力を見せつけるため。父は自分の子どもにさえも警戒は解かなかったけれど、従順な者は優遇した。おべっかの上手い兄姉たちは随分可愛がられていたよ」
ルカはそこでほんの少し間を置いた。
「僕が物心ついた時から、父はずっと怯えた目をしていた。まるで今にもナイフを持った反逆者が襲い掛かってくると言わんばかりに、宮殿の中でも常にきょろきょろと視線を忙しなく動かしていたのを覚えてる。食事やお酒には金をかけていたけれど、毒殺を恐れていたせいで小食で、寝込みを襲われるのではと危惧して不眠気味だった」
「生きてて楽しくなかっただろうね」
ハルは甘いものさえあれば、一日幸せに過ごせるというのに。
ルカはハルの言葉に同意するように頷き、僅かに口角を持ち上げた。父親に対する嘲笑だが、その奥に憐れみも混じっている。
「これは別に言い訳ではないんだけど、今まで他国に関心を持っていなかったドラニアスから突然手紙が届いた時も、父は恐怖を感じていたみたいだ」
ハルはいつだったかクロナギがしてくれた説明を思い出した。エドモンドは積極的に人間と交流を持とうとしていて、まず隣国のラマーンに接触したと。
「手紙の内容はうちと友好を深めたいと願うものだったらしいけど、国同士のやり取りなら、その裏に政治的な駆け引きがあると思うのが普通だ。排他的な竜人が、単純に人間と仲良くしたくて手紙を寄越しただなんてまさか思わないじゃないか」
だが、エドモンドの目的はそのまさかだったのだろう。外交的な側面もあったかもしれないし、ゆくゆくは貿易を始める計画でも立てていたかもしれない。しかしエドモンドの第一の意図は『人間と交流を持とう』だった。それ以上でも以下でもなく、裏もない。ドラニアスをより良い国にするため、人間たちから学べる事もあると考えたのだ。
いきなり竜人から仲良くしたいと言われて恐怖心を抱く人間側の気持ちもハルには理解出来たが、純粋な竜人だったエドモンドはそれが分からず、その辺りの配慮が十分ではなかったのではないだろうか。
「僕は離れた所から見守っているだけだったけど、初めてドラニアスの使者がやって来た時は正直恐ろしかったよ。竜人は戦闘好きだと聞いていたし、本当は戦争を仕掛けてくる可能性もあると少しだけ思ってた。僕や、普通の人間でさえそうなんだから、精神が弱っていた父がどう思うかは想像がつくだろう? ドラニアスは絶対にラマーンを滅ぼすつもりなのだと思い込んでいたんだ。現にそれから父は怪しい魔術師を呼び寄せて部屋に籠りがちになって、数か月後にドラニアス皇帝をラマーンに招いたかと思ったら、あんな凶行に……」
攻撃を仕掛けられる前に皇帝を魔術で操って、逆にドラニアスを支配下に置こうとしたのだろう。
一方でエドモンドは、実際に会って初めて、ラマーン国王が怯えている事に気づいていたのかもしれない。だから二人きりでの会談に応じた。いかめしい護衛の竜騎士たち抜きで話をして、相手を安心させたかったのではないだろうか。
自分とそっくりだったという父の姿を、ハルは頭の中で想像した。竜人にしては背が低く華奢で、少し童顔だという事くらいしか特徴のない平凡な容姿だったようだが、やはり瞳はハルと同じ美しい緑金だったらしい。そしてハルに唯一受け継がれなかった髪色はエメラルドを溶かしたような緑で――
と、想像上の父がどんどん形を成していく中、ハルの耳が遠くから妙な音を拾った。
暗い空を何かが飛んでいるようだが、鳥の羽音にしては大きく、重量感がある。
「なんだろう、どこかで聞いたことがあるような……」
「ハル、隠れて!」
小声でルカが叫ぶと同時に、腕を掴まれハディの家の中へと押し込まれた。
「痛、なに、ど、どうしたの?」
「ドラゴンだ」
しっ、と人差し指を口に当てて、切羽詰まった表情でルカが言う。かと思うと、低くしゃがんでから、扉代わりの大きな布を僅かに開いた。隙間から外を覗いているようだ。ハルもルカの頭に顎を乗せるようにして、縦に並んで空を見上げた。
ドラゴンという言葉にすぐさまラッチを思い浮かべたが、羽音はそれより大きかった。飛んでいるのはきっとラッチではない。自分をここまで連れてきた赤い飛竜がまた戻ってきたのかとも思ったが、それも違うようだ。
「竜人が乗ってる」
ハルが呟いた。空を飛んでこちらへやって来たドラゴンは二匹。暗くてはっきりとした体色はわからないが、どちらも飛竜で、鞍をつけて竜人を背に乗せていた。
「竜騎士かな? ルカを探しているの?」
緊張から速くなっていく鼓動を感じながら、ハルはルカの服を引っ張った。家の奥に隠れた方がいいのではないだろうか。竜人は目がいいのだ。こんな暗闇の中でも、距離があっても、ルカを見つけてしまうかもしれない。
しかしルカは動かずに、集落を通過していく竜人たちを注意深く観察しながら言った。
「いや、軍服は着ていないみたいだ。よく見えないけど……旅装かな」
「竜騎士ではないって事?」
「うん、竜騎士団に入っていない普通の竜人かもしれないし、あるいは竜騎士だとしても任務の途中ではないんじゃないかな。僕を探している様子はない。ほら、ちっとも下を見てないだろう?」
ルカの声はすっかり安心しきっている。
「本当だ」
ドラゴンに乗る竜人らしき人物は、片方は男で、片方は女のようだった。二人とも二十代くらいでどこか武人めいた雰囲気があったが、アナリアやオルガたちが最初に身につけていたような黒の軍服は着ておらず、砂塵避けのマントを羽織って大きな荷物をドラゴンに取り付けていた。どこかへ遠出でもするのだろうか。
ルカの言う通り、彼らの目的は行方不明のラマーン王子とは別にあるようだ。この集落や人間たちになど全く興味が無いといった様子で、厳しい顔をして進行方向だけを見つめている。
「時々夜中に見るんだ、ああいう竜人たちを」
頭上を通り過ぎていったドラゴンと竜人たちの背を視線で追いかけながら、ルカが何気なく言った。
「ああいう、って?」
「軍人っぽいけれど軍服は着ていない、旅装に身を包んでドラゴンに乗った竜人たちの事だよ。大抵二人か三人の少人数で、夜の闇に紛れるようにして、ラマーンを素通りしてジジリアの方角へ向かって飛んで行くんだ」
ルカ曰く、彼を捜している竜騎士たちは昼間に姿を見かける事が多く、地上の人間たちを監視するように、もっと空の低い位置をゆっくりと飛行していくという。
「ジジリアに向かっているんだとしたら、そこで何をするんだろう。何かの任務かな?」
「分からない、けど任務だったならどうして軍服を着て全員で一緒に行かないんだ? 目指している所は同じのように思えるけど、バラバラに行動しているのは何故だろう」
ルカは外を覗くのを止め、床に座り込んだ。疑問はハルに対して問いかけた訳ではないらしく、一人で考え込むようにして腕を組む。
ハルはまだ布の隙間から夜空を観察したまま、もう姿の見えなくなってしまった竜人たちの事を想う。彼らの追い詰められたような表情が気になった。ハルも半分は竜人の血が流れているので夜目がきくし、視力も良いほうなのだ。離れていても、彼らが厳しい顔つきをしている事は分かった。
向かう先にあるほんの僅かな希望を求めて、それだけに縋って、先を急いでいるような雰囲気だった。
「ハル、君は今までずっとジジリアにいたんだよね?」
やおら顔を上げて、ルカがこちらを見た。
「え、私? うん、そうだけど……」
ルカの出そうとしている予想が恐ろしくて、ハルはもごもごと小さく答えた。
「彼らはハルを捜しているのかもしれない。ジジリアにいる混血の帝位継承者を」
暗闇の中で、ルカの瞳がきらりと光った気がした。彼はこの結論に自信を持っているらしい。
しかしハルはすぐにそれを否定する。
「それはないと思う。私の存在を知っている竜人は、クロナギたち以外ではレオルザークっていう偉い人だけみたいだから」
「レオルザーク総長か……。今のドラニアスを治めている軍の最高司令官だね」
レオルザークはよけいな混乱と争いを生まぬようハルの存在を隠したがっているから、他の竜騎士やドラニアスの国民に暴露するはずはない。彼にとってのハルは、エドモンドの血を引く帝位継承者ではなく、人間として育ったフレアの子だ。
「どこかからハルの事が漏れたのかもしれないよ」
「そう……なのかな。分からないけど、でもそうだとしたら……」
自分はどうしたらいいのだろう――。
夜空を見上げたまま迷うハルが、天高くに仲良く並ぶ二つの星を見つけた時、
「こら! こんな時間に何してるのよ、ハル! 病み上がりなんだから夜はしっかり寝なさい。それに殿下まで!」
寝室から起き出してきたハディに二人揃って叱られ、ルカはザナクドの所へ、ハルは寝床へと強制連行されたのだった。




