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*前話に【登場人物紹介】を追加しています。
*これまでのあらすじ
ジジリアのとある領主の屋敷で下女として平凡な人生を送っていたハルだったが、竜騎士クロナギによって、自分の父が“竜の国”ドラニアス帝国の先代皇帝だった事実を知る。
帝位継承者はハルしかいないため、次の皇帝になるようクロナギに懇願されるが、ハルは自分には無理だと断った。
しかし、森で拾った迷子の子竜ラッチを故郷に返すため、クロナギと一緒にドラニアスに向かう事に。
途中、トチェッカという大きな街で魔賊と名乗る男たちと交戦したり、平和の森で出会った岩竜二頭に懐かれたりしながら、竜騎士であるアナリア、オルガ、ソルを仲間に加える。
ハルは魔賊のアジトから杖や辞典を拝借し、独学で魔術を身につけようとするが上手くいかない。
トチェッカを出て、ジジリアとラマーンの国境に横たわるウラグル山脈を越えようとしていたところ、一頭でうろついていた赤い飛竜に懐かれるが、ドラニアスに戻るよう言い聞かせ、別れる。
その後、旅の疲れもあって、ハルは風邪をひいて高熱を出す。
さらに、ハルを休ませるためクロナギたちが民家を探しに行っている間に、ハルを気に入ってしまったらしい赤い飛竜に攫われてしまう。
高熱で意識が朦朧とする中、ハルは飛竜に連れられ、一人でラマーンに入ってしまうのだった。
ハルは最悪の気分だった。
今にも胃の中のものを吐いてしまいそうだ。
が、今吐いたら、それは雨と一緒に地上に降り注ぐ事になる。
なぜならハルは現在、飛竜に背中側の服をくわえられて、うつ伏せの状態で空を飛んでいるからだ。
どうしてこんな事になったのか。自分は山小屋にいたはずではないのか。クロナギたちはどこにいるのか。
色々な疑問が浮かんでくるが、今はそれよりも雨と風の冷たさの方が気にかかる。
ハルとは違ってご機嫌な飛竜の飛ぶスピードはのんびりとしたものだが、それでも雨を伴った向かい風は容赦なく体に当たってきた。
おまけに服をくわえられたまま辛い姿勢で飛竜に運ばれ、ただでさえ高熱で苦しむハルは、もう虫の息だった。
頭がぐるぐると回り、視界がかすむ。
いっそ意識を失えたら楽なのにと思うが、気持ち悪さのせいで眠りに落ちる事ができない。
というか、この状況で寝てしまったら、もう二度と目覚める事はできないかも。
そう思うと怖くなって、ハルは必死に意識を保とうとした。
それからどれくらい時間が経っただろうか。
何時間も経過したように思えたのだが、実際には、太陽の位置はあまり変わっていなかった。
深い闇と現実の間をしばらく彷徨っていたハルは、ふと眼下に広がる景色に意識を移した。周囲には広大な砂漠が広がっている。
いつの間にか雨も止んでいた。
(ここは……)
高熱で茹だった頭で考える。
砂漠と言えばラマーンだ。ラマーンは湿気の多いジジリアに比べてずっと気候が乾燥している。ウラグル山脈を超えるだけで、がらりと空気が変わるのだ。
ハルは、自分はラマーンのどこかの空を飛んでいるのだろうと考えた。
ハルたちの真下は一面砂の海というわけではない。視界を広く持てば岩石地帯の方が多いようだし、すぐ下には、砂漠を突っ切るようにして雨期にだけ水が流れる涸れ川が通っている。今は干上がっているものの、その幅広の窪みに沿うようにして背の低い草木も生えていた。地下に水脈があるのだろう。『緑が生い茂る』というには頼りない生え方だが、所々で密集した植物が小さくて低い森を形成していた。
飛竜は鳶のように空の高い所を飛んでいる訳ではない。元々ドラゴンの飛行高度がこれくらいなのか、ハルの重さがあるからなのかは分からないが、ここが街中なら3階建ての建物にぎりぎりぶつかりそうな位置を飛行していた。
気分の悪いまま空の移動を続けると、やがて前方に集落が見えてきた。その光景がゆらゆらと揺れているのは熱のせいだろうか。
涸れ川の近くの荒れ地に、まばらに生えた低木に混じり、日干しレンガの家々といくつかの白いテントが並んでいる。
ここで降ろして。
ハルは自分をくわえている飛竜にそう言いたかった。しかし喉がかすれて、もはや声も出ない。ハルにできるのは、ぐったりとしたまま、ただ運ばれる事だけ。
この飛竜にも悪気はないのだ。ハルが熱を出して辛い状況だとは気づいていない。
しかしこのままでは、本格的に命が危うい。ハルは呼吸を続けるのが精一杯で、指一本動かす気力も残っていなかった。
(もうだめだ……)
もう意識を保っていられない。
ぐらり、ハルが暗い意識の中へ落ちそうになった瞬間だった。
地上から放たれた一本の矢が、それを阻止した。
とはいえ、速すぎてその矢はほとんど見えなかった。風圧を感じてハルはビクリと目を開けたものの、鳥か何かが自分のすぐ近くを通過して行ったのだと思ったのだ。
けれどふと地上に目を落として、そこに人がいる事にハッとする。先ほどの集落から少し離れた砂漠の上にいた人々は、全員が上を見上げてこちらの事を認識しているようだった。
そのうち一人は弓を構えて、じっと狙いを定めている。
と、思った瞬間――再び矢は放たれた。
今度はハルもその矢筋を目で追う事ができた。何故ならそれは一直線にこちらへ向かってきたからだ。
「……っ!」
思わず目をつぶって、次の瞬間に襲い来るであろう、体をつんざく強烈な痛みを覚悟する。
が、悲鳴を上げたのはハルではなく、ハルをくわえていた飛竜だった。
「ぎゃう!」
飛竜の口が開いた事で、しかしハルの体は空中に投げ出される事になった。胃の浮くような感覚に、ハルはぞっと鳥肌を立てる。
落ちている、と気づいたのだ。
元々それほど高い所を飛んでいた訳ではない。地上はあっという間に眼前に迫り、ハルの視界は砂漠の黄土色でいっぱいになった。
そして――
地面に激突する寸前、横から急に強い風が吹き付けた。一瞬の暴風はハルの体を数メートルほど吹き飛ばしてしまう。
「うッ……!」
砂漠の砂に半分埋もれるようにして、体全体で着地する。
あの風が何だったのか分からないが、空からそのまま落ちているよりは、ずっと衝撃は少なかったはず。肩と腰が痛いが、骨が折れたりしている訳ではなさそうだ。
ハルは小さなうめき声を上げながら目を開けた。上空では赤い飛竜がまだ矢に追われている。翼に刺さっている一本は、きっと先ほど放たれたものだろう。あとの矢は、飛竜が上手く避けている。
「やめ……て、あげて……」
自分の耳にすら届かないようなかすれた声でハルが訴える。連れ攫われそうになったとは言え、あの飛竜を退治してほしいなどとは思わない。むしろ守らなくては、と強く思う。
けれど飛竜の様子を見ていると、細い矢で翼を射抜かれただけでは、大きなダメージにはなっていないらしかった。ハルを取り返すために地上へ降りようとし、しかし矢を放ってくる人間に阻止され、「ぎゃうぎゃう」と元気に文句を言っているのだ。翼に刺さったままの矢など、大して気にしていない様子で。
しばらく粘っていた飛竜だが、人間からの攻撃が止まないと分かると、渋々ながらハルから離れて行った。
今度こそドラニアスに帰るんだよと、ハルは虚ろな瞳でそれを見送る。視線を動かすのでさえ、今はとても億劫だ。
「大丈夫か!?」
地上にいた人間は、五、六人ほど。皆男性で、砂漠の民らしいラマーン独特の衣装を着ている。布は薄く涼しげだが、肌はほとんど出していない。
数人は赤い飛竜の去って行く後ろ姿を警戒の目で追っているが、残りの数人は慌ててこちらへ駆けてきた。
そのうちの一人、他の成人男性たちより頭一つ分背の低い少年が右手に握っている小さな杖を見て、ハルは先ほど唐突に自分を襲った横風を思い出した。
いや、あれは自分を『襲った』のではなく、『救った』のだ。
風は、地上に激突しそうになった自分を助けてくれた。
(きっとあの子が魔術を使ったんだ……)
ハルはそう結論付けながら、ゆるやかに意識を手放した。
夢とも現実ともつかぬ狭間で、ハルは何度が意識を浮上させた。
ある時は上半身を起こされ、何か苦い液体を飲まされた。
そしてある時は、体の汗を柔らかな布で拭われた。
知らない女の人の声を何度か聞いた。
次に目覚めた時、ハルはとても爽快な気分だった。
汗をかいたため服が肌に張りついて気持ち悪いが、悪寒や吐き気、頭痛や関節の痛みなどの症状は、きれいさっぱり無くなったのだ。
自分でおでこを触ってみる。体温を吸収して生暖かくなった布が置かれていた。きっと最初はもっと冷たかったのだろう。
「熱は下がったみたい……」
そう判断する。
上半身を起こすと軽くめまいがしたが、それはしばらく眠っていたせいだ。
今は体が軽く、食欲もある。
健康って大事。普通の状態って素晴らしい。改めてそう思うほど、健康優良児だったハルにとって風邪は辛いものだった。もう二度と経験したくない。
生前、母が風邪で寝込んでいた時の自分の行動を思い返して深く反省する。このまま死んでしまうのではと不安になって、静かに眠っている母を「だいじょうぶ?」と何度も起こしていたのだ。
優しい母はその度弱々しくほほ笑んで「すぐに良くなるからね」と応えてくれていたが、きっと話すのも辛かったに違いない。小さかったとは言え、どうしてあの頃の自分はそれくらいの事も分からなかったのかと後悔する事しかできない。
(母さま、ごめんなさい。あなたの娘は今やっと、風邪を引いている人の辛さが解るようになりました)
そう心の中で呟いてから、見慣れない狭い部屋をぐるりと見回した。床には固くて薄い絨毯が敷かれてあるが、その下にはひんやりとした土の感触がある。ハルが寝かせられていたのはベッドではなく、床の上に作られた寝床だ。ここは寝室らしいが内装はシンプルで、調度品は衣装入れがあるくらい。
壁は植物を練り込んだ日干しレンガで、部屋の出入り口には木の扉の代わりに派手な柄の布が吊るされている。
と、次の瞬間にはその布が引かれて、奥から一人の女性が姿を現した。
「あら、もう起きられるの?」
まばたきをしながら長い睫毛を揺らしてハルを観察してくるのは、落ち着いた雰囲気の美人だった。
彼女は焦茶色の髪を緩い三つ編みにして体の前面に流しており、浅黒い肌をしていた。背は高く手足は長いが、しっかりした体の凹凸もあって、健康的な色気を感じる体型。
着ている服は薄着で、柔らかそうな二の腕や細い肩が惜しげもなく晒されていた。言葉は世界共通語だったが、ジジリアとは違う独特の訛りがある。
「熱は?」
女性がハルにあわせて屈むと、大きく開いた襟元から立派な谷間が覗いて、同性であるハルも思わず照れてしまった。ジジリアの男性がラマーンに来たらパラダイスだと思うに違いない。
「あら、もう下がってる。あれだけ酷い熱だったのに、若いからかすごい回復力ね」
女性は驚いたように言って、持ってきた水差しとコップを床に置いた。
ハルはぱちぱちと瞬きをする。確かに今は体調がいい。ちょっと外を走ってきたいくらいに体が軽いのだ。
「あの……私どのくらい寝込んでたんですか?」
ハルはおずおずと訊いた。声は少しかすれたままだ。
女性はコップに注いだ水をハルに差し出しながら答えた。
「まだ一日も経ってないわよ。昨日の事は覚えてる? あなたが赤いドラゴンに連れ攫われそうになっているのを、うちの集落の男たちが見つけて助けたのが昨日の夕方頃。で、今はその次の日の朝。薬も飲ませたけど、あなた一晩眠っただけですっかり元気になっちゃったのよ」
昨日は死にそうになってたのに、と女性は続けた。
きっとその驚異的な回復力は、自分に竜人の血が流れているせいだろう。そう思いながらも、ハルはそれを隠して礼を言った。
このラマーンで、自分に竜人の血が流れている事を告白したっていい事は有りそうにない。
「あの、ありがとうございます。助けていただいた上に看病までして下さって……このご恩は一生忘れません」
「大げさね。当たり前の事をしただけよ」
女性は明るく笑い飛ばしたが、けれどあのまま飛竜に連れ回されて空の散歩をしていたら、ハルの命は本当に危うかったかもしれない。
とはいえ、やはりあの飛竜を嫌う事はできないけれど。
「それで? あなたどこから攫われてきたの? ラマーンの人間ではないようだけど……」
「あ、えっと……ジジリアです。ウラグル山脈の辺りであのドラゴンに出会って」
ハルはコップの水をちびちびと飲みながら言う。今はジジリア人という事にしておいた方が都合がいいのに、はっきりとそう断言するのには何だか抵抗があった。
やはりどこかで、自分の故郷はドラニアスだと感じているのだろうか。ドラニアスには一度も行った事がないというのに、自分でも少し不思議だ。
「あー、やっぱりジジリアの子なのね。肌も白いし、服もそれっぽかったもんね。だけどあの服はここでは暑過ぎるから、私のお古で悪いけど、勝手に着替えさせたわよ」
言われて、改めて自分の格好を観察する。麻っぽい素材の、無地のワンピース。確かに着古した感はあるし――目の前の女性はどう見ても二十代だから、きっと十年くらい前のものなのかもしれない――何の飾り気もないものだが、動きやすくてハルは気に入った。
「いいえ、どうもありがとうございます」
女性は軽く頷くと、話題を変えた。
「ところであなたのご両親は? ドラゴンに襲われたのはあなただけ?」
ハルは少し顔を曇らせた。クロナギたちは今どうしているだろう。風邪を引いた上に飛竜に拉致されて、すごく迷惑をかけてしまった。
「両親はすでに亡くなっていていないんです。保護者と呼べる人たちはいたんですが、逸れてしまいました」
「そう。きっと心配してるわね。恐ろしいドラゴンに連れ攫われたんだもの。今頃最悪の事態を想像してるわよ」
彼女の言う最悪の事態とは、ハルがあの飛竜にむしゃむしゃと食べられて死ぬ事を指しているのだろう。
ハルは前にアナリアに聞いた事実を思い出した。ドラゴンは普通、人間を食べたりはしない。むしろ人間を襲う魔獣を好んで食べるのだと。
「ドラゴンはそんなに恐ろしい生き物じゃないですよ。大きいし、見た目は怖いけど、結構愛嬌あるし……」
言ってからハッとした。ドラゴンに攫われそうになっていた“普通のジジリア人”がする発言ではない。
目の前の女性も瞠目している。何を言っているんだ、この子はと。
まずい。
ハルは冷や汗をかいた。
自分に竜人の血が流れている事がバレたら、ドラニアスの帝位継承権を持っている存在だと分かったら……ラマーンの人たちはどうするだろうか。
殺される? 利用される?
けれどラマーンの人たちは竜人を恐れているらしいので、殺される事は無いと信じたい。
「変な子ね」
女性は肩をすくめてそう言うと、ハルの心配をよそに、その話題をさらりと流した。
ハルも慌てて別の話を振る。
「ところでここはラマーンのどの辺ですか? ジジリアからは近いですか?」
「残念ながらジジリアからは遠いわね。歩けるようなら、ちょっと外に出てみる?」
女性に促され、ハルは借りたサンダルを履いて家の外へと出た。
「わ、何か眩しい」
ジジリアよりも太陽が近いような気がした。まだ朝だというのに、強烈な日差しが容赦なく地上へ降り注いでいる。
「ほら、これ被って」
女性はそう言って、ハルの頭から大きな一枚布のショールを被せた。落ち着いたえんじ色の太いラインの中に、渋い黄色と鮮やかな青の細いラインが入っているものだ。
確かにこの強烈な日差しに長く肌を焼かれれば、単なる日焼けでは済みそうもない。暑かったけれど、ハルは大人しくその布を体に巻き付けた。隣では、いつの間にか女性も同じように肌を隠している。
ハルはおもむろに周囲を見回した。集落はそれほど大きくはない。飛竜にくわえられて空から見た時と変わりなく、日干しレンガの家と白い布が張られたテントの家があり、近くには干上がった川がある。視線を遠くに移すと涸れ川とは逆の方角になだらかな砂丘が広がっているが、この集落の辺りは荒野といった雰囲気で、地面は踏み固められていて硬く、少し茶色っぽい葉を持つ植物もまばらに生えていた。
時折吹く風はからりとしていて気持ちいいものの、砂塵が混ざっているので口から吸い込むと舌がざらつく。
集落の住民はとっくに働きだしているようで、桶に汲まれた水で皿を濯いだり服を洗ったりしている女性たちの姿が目立つ。集落には井戸があるようだ。皆頭からショールを被っていて顔立ちや体型の特徴は掴み辛いが、やはり肌は浅黒く、ハルは異国情緒を感じずにいられなかった。
好奇心いっぱいに辺りを見回すハルに、隣にいた女性がくすりと笑みをこぼす。
「そういえば名前を訊いていなかったわね。私はハディ。あなたは?」
「ハルです」
ショールから顔を覗かせて答える。ハディは美人だが家庭的で面倒見の良さそうな印象で、アナリアが放っているような美女独特の威圧感はない。ハルは自分を介抱してくれたハディにすっかり気を許していた。
「ほら、あっちに宮殿が見えるでしょう?」
集落の端まで歩いて視界を遮る家々が無くなってから、ハディはおもむろに腕を持ち上げ、涸れ川の下流にある、彼方の街を指さした。宮殿というのは、その中心に鎮座している一際大きな建造物のようだ。
王族の住居らしいが、ジジリアの城と比べるとやけに派手だし形も変わっている。一番目立つのは塔の先に乗っている王冠のような黄金のドームだ。外壁の半分以上は白で、残りは緑や赤、鮮やかな橙色や金で塗装されていて、人工的な美しさをこれでもかと主張していた。
華美だが、明る過ぎる陽光も手伝って目に痛い。
「あそこがこの国の中心。王都よ」
宮殿を中心とした王都の街並みはここからではハルの両手で隠れてしまいそうなほど小さいので、実際に歩いて行くとなると結構な時間がかかるのだろう。見えているからといって安易に足を踏み出せば、砂漠の洗礼を受けて命を落としかねない。
「あの宮殿は少し派手だけど、水の上に街があるのは素敵だね。一体どうやって浮いているの?」
興味津々にハルが言った。街を呑み込んでしまえるほど大きなオアシスが建物の下に見えていたのだが、ハディは笑ってそれを否定した。
「それは蜃気楼よ。私たちは『逃げ水』とも言ってる。オアシスがあると喜んで近づいて行っても、決して辿り着く事ができないから。あれは幻よ。王都に巨大なオアシスなんて広がってないわ」
「え、幻? 魔術なの?」
「いいえ、自然現象よ。私は難しい事は分からないけどね」
「じゃあさ、あの宮殿や周りの建物がぼやけて見えるというか、少し揺れているのもその蜃気楼のせい?」
ハディが「そうよ」と頷くと、ハルはホッと胸を撫で下ろした。
「よかった。私視力はいいはずなのに何でだろうって、ちょっと怖かったから。熱を出した後遺症かと思った」
「ジジリアでは見た事ないの? 蜃気楼」
「うん、私はない」
ハルは砂に埋もれたこの大地を、改めて眺めた。獣や魔獣と遭遇する可能性のあるジジリアの森と、一見すると何の生物の姿も見えないこの砂漠とでは、どちらが危険なのだろうか。
「ジジリアはどっちの方向にどれくらい歩けば着くの?」
クロナギたちはまだラマーンへ入っていない確率が高いと思って尋ねた。何とかして合流しなければ。
「ラマーンの王都は、国の西寄りにあるの。東にあるジジリアからは遠いわ。ハルみたいな子どもが一人で砂漠を渡って帰るのは無理よ」
「でも……みんなきっと心配してるし戻らなきゃ。病み上がりで言うのもなんだけど私結構体力あるし、暑さにさえ気をつけていれば――」
「駄目よ」
喋っている途中で、厳しい顔をしたハディに遮られた。
「ハルは砂漠の怖さを知らないでしょう? 暑さや水の確保だけが問題じゃないの。季節によって夜は気温が大きく下がるし、毒を持った虫や蛇もよく出るのよ。それに砂丘を超えるのは大人でもきついわ。さらさらと崩れる砂に足を取られて、なかなか前に進めないからね」
叱るように警告されれば、ハルはそれ以上反論できなかった。確かに砂漠に対して自分は無知だ。知識のないハルを無事に進ませてくれるほど、この地は優しくないだろう。
「でも、じゃあ……私どうしよう」
絶望したようにハルが呟く。大人しく待っていればその内クロナギたちが見つけてくれる、なんて楽観的に考える事は出来なかった。あの赤い飛竜に連れ攫われた時の事は覚えていないけど、クロナギたちはハルがラマーンにいる事すら気づいてないかもしれないのだ。ジジリアへ戻って、全く見当違いの場所で必死にハルを捜索している可能性もある。
「もし、このまま会えなかったら……」
不安でいっぱいになったハルは、涙の代わりにそう言葉を零した。同情したらしいハディが、そっと肩に触れてくる。
「ハル一人ではジジリアに行かせられないけど、ラマーンの人間も一緒なら無事に砂漠を越えられると思う。時々王都の商隊がこの集落を通ってジジリアに向かうのよ。だからその時にハルを一緒に連れて行ってくれるよう頼んでみるわ」
慰めるように頭を撫でられて、ハルは思わずハディの腰に抱きついた。
「ありがとう、ハディ」
「うん、いいのよ。でも……希望を持たせておいてちょっと言いにくいんだけど、たぶんしばらくは商隊は組まれないと思うのよね。だって、ほら、国がこんな状況でしょ?」
「あ……そっか」
ハルはハディを見上げて、しゅんと眉を垂れた。
今、ラマーンは大変な状況なのだ。確かドラニアスの竜騎士たちによって、ラマーンの王族は皆――逃げている一番若い王子を除いて全員――処刑されたのだから。
ハディはため息をついた。
「まだ国は混乱してるの。絶対的な権力を持っていた王族が、ほとんどいなくなってしまったからね」
その状況は、やはりドラニアスと似ているとハルは思った。お互い皇帝と王を失って、まとまりがなくなっている。どちらの国も崩壊の危機にあるが、しかしラマーンは内部分裂を危惧しているのではないようだ。
この機に乗じて領土を拡大させようと、周辺国が行動を起こし始めているらしい。
「ジジリアもラマーンを狙っているの?」
ハルが訊くと、ハディは「そうよ」と頷いた。ジジリアから来たと言った手前気まずくなるハルに、ハディは苦笑しながら説明する。
「ジジリアの使者はちゃんと話し合いをしに来ているからマシよ。南のサイポスなんて、そもそも対話をする気もないわ。すでにラマーンの南部はサイポス軍に侵略されてる」
「そうなの?」
「奴隷制のあるサイポスに国を乗っ取られるくらいなら、ジジリアの属国になった方がマシな気がするわ。それならそこまで酷い扱いは受けないでしょうし。……それかいっそ、ドラニアスに支配された方がいいのかもしれない。だってそうすれば誰もラマーンに手出しできないでしょう? サイポスもジジリアも、竜人と戦う気はないはずだから。まぁ、ドラニアスの執着は行方不明の王子を殺す事だけで、うちの土地には何の興味も無さそうだけどね」
ハディの言い分に、ハルは少なからず驚きを覚えた。
「自分の国の王族を殺した人たちに支配されてもいいの?」
「だって、先にドラニアスの皇帝の命を奪ったのはこっちでしょう? ラマーンの国民は皆分かってるわよ。愚かなのは、自分たちの国王だったって」
そう話すハディの表情からは、王に対する敬意はこれっぽっちも感じられない。一年前の事件で失望したというより、元々尊敬していなかったようだ。確かクロナギも前に、ラマーンの王族たちは国民から慕われていないというような事を言っていた。
「ラマーンの王様ってどんな人だったの?」
「独裁者よ。自分に少しでも逆らったり、反抗する人間は容赦なく死刑にするようなね。あの王のせいで何人の優秀な議員が、良識ある兵士が殺されたか――なんて、こんな風に王を悪く言う事すらできなかったのよ。それくらい支配は徹底していた」
ハディの口から語られる、今は亡き王族に対する不満。国民は貧しい生活を送っているのに、王族はその民から巻き上げた金で贅沢三昧していた事。国民の中には、王族だけを殺した竜騎士たちに対して感謝している者も多いという事。
だけど国民が王族を嫌っているなら……。
ハルはふと疑問に思った。
「じゃあ、今竜騎士から逃げ延びている王子はどうなの? ラマーンの国民によって匿われているっていう噂を聞いたけど」
クロナギがしていた話を思い出しながら尋ねると、ハディは特に何の警戒もなくこう答えた。
「ああ、ティトケペル王子ね。彼と彼の母親であるシャーリィ妃だけは別よ。国民から愛されてた」
「どうして?」
「シャーリィ妃はとてもお優しい方だったからね……。彼女はたくさんいる王の妃たちの中でも一番若く、美しい女性だったから、王からの寵愛も厚かったの。何でもお願い事を聞いてもらえたとか。それでシャーリィ妃はいつも王に“わがまま”を言っていたのよ。貧しくて充分な治療が受けられない人のために病院を、親を亡くした子どもたちのために養護施設を作ってほしいってね」
ハディはそこで茶目っ気たっぷりにウインクした。
「そのおねだりのおかげで実際に病院や孤児院が作られて、何人もの人が救われた。だけど彼女のやった事はそれだけじゃない。王に媚を売るか、恐れて何もしない妃たちの中で、シャーリィ妃は上手く王を操っていたようよ。兵士をやっている私の伯父もそれで救われたの。王に軽く意見しただけで『生意気だ』と殺されそうになったところを、シャーリィ妃が助けてくださった」
「今は、そのシャーリィ妃は?」
「二年ほど前に亡くなったわ。シャーリィ妃が国民から愛され、自分よりも支持を受け始めている事に気づいた王が、その人気を恐れて殺したと言われているの」
件のティトケペル王子が国民から庇われているのは、そんなシャーリィ妃の生前の行いのおかげのようだ。
ハディは続ける。
「できればティトケペル王子に新たな王になってほしいけど、まずは竜人たちの怒りを解かなきゃ無理ね。見つかった途端に殺されてしまうもの」
「ドラニアスの竜騎士は、今もラマーンにいるの?」
「ええ、ティトケペル王子を捜して、国中を飛び回ってる。文字通り、ドラゴンに乗って空をね」
ハルは思わず上空を見上げた。薄い雲がたなびいているだけの景色に胸を撫で下ろす。
自分とティトケペル王子の立場は似ている。ハルだって、クロナギたち以外の竜騎士に見つかったらどうなるか分からないのだから。最悪命を奪われる可能性もある。
赤い飛竜に連れ去られている所を発見してくれたのが、ハディたちラマーンの人でよかったのかもしれない。
「さぁ、家に戻りましょう。食欲があるなら朝ご飯を食べないとまた倒れるわよ」
「あの、私ハディのところでお世話になっていいの? お金も何も持ってなくて……」
「そんな事気にしなくていいわよ。助けておいて砂漠に放り出すような真似はしないわ。それに体調が万全になったら家事を手伝ってもらうつもりだから」
「それくらい任せて。もうすっかり元気だし、私掃除と洗濯は得意だよ。あと野菜の皮むきとかも」
「頼もしいわね」
ハディに笑って頭を撫でられ、ハルは何とかこの親切な人の役に立てるように頑張ろうと思った。残念ながら赤い飛竜はハルの全財産が入ったバッグを一緒に連れ去ってはくれなかったようで無一文だが、労働力なら――
と、そこまで考えたところで、ハルはふと自分の胸元を見下ろした。確かに自分は今お金を持っていないが、母の形見の指輪は肌身離さず身につけていたはずだ。
しかし巻き付けたショールの上からみぞおちに何度触れても、大きな宝石のついた指輪は見つからない。
「……途中で落とした?」
赤い飛竜に服をくわえられ、うつ伏せの状態で空を飛んでいたのだ。鎖をつけた指輪が、首から抜けても不思議ではない。
ハルは顔を青くしてハディに訴えた。
「あのっ、助けてくれた時、私首から指輪を下げてなかった? 母の……大事な形見なの!」




