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ラッチといるところを人に見られた。
ラッチの存在が自分以外の人間に知られてしまった。
その日、ハルはラッチと別れて森を出た後、目撃者を探して周囲を歩き回った。
彼、あるいは彼女は領主の屋敷の方向へ駆けていったから、もしかしたら屋敷の人間なのかもしれない。
もしくは、やはりあの怪しい黒尽くめの男か。
彼が一体どうして薔薇園にいたのか、その目的が何なのかは、未だに分かっていない。
もし彼が密猟者の仲間だったらどうしよう。ラッチを追ってここへ潜入してきているのだとしたら?
焦る気持ちを抑えて周囲を丁寧に探しまわったが、目撃者はとうにどこかへ消えてしまっていた。
「大きな騒ぎにならないといいんだけど。ラッチはちゃんと安全な所に隠れて休んでるかな」
日が落ちて暗くなってきたので、ハルは不安な気持ちのまま、四人で一部屋の使用人部屋へと戻ったのだった。
次の日の朝はいつもより早く起きて、仕事に取りかかる前に森へと向かった。
あの黒尽くめの男がラッチを捕まえ、貴族に売るため連れ去ってしまう、という嫌な夢を見たので、ラッチの無事を確認せずにはいられなかったのである。
だが、そんなハルの心配は杞憂だったようだ。
いつもの場所でラッチを呼ぶと、彼は少し寝ぼけた顔をして、それでも嬉しそうにこちらへ飛んできた。『まだ朝なのにハルが来てる!』というような様子である。
「大丈夫? 夜のうちに、私以外の人間が来たりしなかったよね?」
一応聞いてみたが、ラッチはハルの胸に抱かれ、グルグルと喉を鳴らすので忙しいようだった。
これだけ呑気な様子なら、昨晩は誰も来なかったんだろうとハルは一人頷く。
そうして喉を鳴らし続けるラッチを地面にそっと放すと、
「じゃあ私仕事だから行くね! ちゃんと人間に見つからないように隠れてるんだよ」
そう言って手を振りながら、屋敷の方へと走った。
一人残され、甘え足りないラッチが、『あ、そんな!』という表情で哀しげな鳴き声を上げた。
「お前、あの森でドラゴンの子供を匿っているな?」
いつそんなふうに声をかけられ責められるかと一日中ビクビクしていたハルだったが、その日は結局何もなく、平和に終わりそうだった。ラッチの事が屋敷内の人間に広まっている様子もない。
少し、色々心配しすぎだっただろうか。
(森の中は薄暗いし、目撃者ははっきりとラッチの事を見ていなかったのかも。犬やなんかと見間違えてるのかな。というか、そうであってほしい)
ハルはそんな事を思いながら仕事を終え、夕飯を食べた後で、ラッチの様子を見にいつものように森へ向かった。
そしてラッチもいつものように、ハルの姿を見つけると喜んでその胸に飛び込んでくる。
幼いとはいえドラゴンだ。毎度毎度、飛び込まれるたびにその衝撃で後ろへ転がっているハルは、ドラゴンにも『待て』を教える事はできるだろうか、などと考えていた。そのうち肋骨が折れそうである。
しかしラッチがここまで自分に懐いてくるのは、ほかに甘えたり遊んだりできる仲間がいないからだろう。ハルはそう思っている。
ハル以外に心を許せる者がいないのだ。
「ねぇ、ラッチ」
ハルは囁くように言った。
「故郷に帰りたい?」
ラッチは喉を鳴らしてハルに頬をすり寄せるだけで、その質問には答えない。というか聞いていない。
だが、ここまで必死に自分に甘えてくるラッチを見て、ハルは心を決めた。
(ラッチを故郷に帰そう)
ラッチを一人で帰すのは心配だし、そもそもハルから離れるのを嫌がるから、ハルは自分も竜の国までついていく覚悟だった。若い女と子竜一匹という旅の危険性も考えた上での覚悟だ。
実はラッチを見つけた直後から彼を故郷に帰す事は考えていて、コツコツと旅の資金も貯めていたのだが、観光に行くのとはわけが違うので、なかなか決意を固める事ができなかった。
もちろん、可愛いラッチと離れがたかったという理由もある。
しかし今回、他の人間にラッチの事を見られたかもしれないという可能性が出てきて、もうこれは腹を決めなければと思ったのだ。
人間の国にいても、ラッチには良い事がひとつもない。ここには仲間がいないし、常に人間から隠れて生きなければならない。しかも万が一人間に見つかった場合は、自由を、あるいは命を奪われる可能性も出てくるのだ。
ラッチの成長を考えても、今が限界に思えた。
森に隠れていようと、成長して大きくなればなるだけ人目につきやすくなる。
それに今の大きさならまだ、ハルはラッチを持ち上げる事ができる。竜の国までの行程で人の多い町などを通過するとき、ラッチをリュックに入れて隠したまま運ぶ事も可能なのだ。
行くなら今しかない。
ハルの代わりができる人間など他にいくらでもいるのだから、下女の仕事はどうとでもなる。きっと「今すぐ仕事を辞めたい」と言っても、簡単に了承してもらえるだろう。
「よし! そうと決まれば、なるべく早く出発しよう! ……と思ったけど」
上半身を起こしてラッチを膝に乗せながらハルは呟いた。
「カミラ様に指輪を返してもらってからでないとダメだ」
しかし彼女の態度を見る限り、それは簡単な事ではないように思えた。
(母さまの大事な指輪……)
ハルはしゅんと肩を落として、膝の上のラッチを撫でた。そうして、気を取り直すように話題を変える。
「ラッチ、今日はもうごはん食べたの? また魔獣じゃないでしょうね」
が、ちょうどその時、茶色い野うさぎが前を横切り、ハルは話題を変えた事を後悔した。
悲しい事に、ウサギは今日のラッチのごはんになった。しかも狩りたての獲物は、ラッチにくわえられてはいるもののまだ元気に生きている。
一瞬ウサギを逃がしてやりたい衝動に駆られたが、ハルはぐっと堪えた。自分だってウサギの肉は食べるのに、実際目の前で息絶えてしまうのを見るのは嫌なんて、とんでもなく自己中心的ではないか。
(ごめんね、ウサギさん。ラッチの血となり肉となってください)
ハルがウサギの冥福を祈り、これから始まる血みどろのお食事場面から目を背けようとした時である。
ラッチが昨日のようにピクピクと耳を動かし、ハルの背後へ視線を向けた。そちらに気を取られたことで拘束が緩んだのか、ラッチの口元からウサギがこぼれ落ち、目にも留まらぬ早さで逃げ出した。
「何……?」
ハルもラッチにならって後ろを確認する。
(昨日の目撃者がやってきたの? あの黒尽くめの男が?)
警戒しながら振り向くと、生い茂る木々を縫うようにして、見慣れた人物が一人、二人……と現れた。
全部で七人はいるだろうか。一番先頭にいるのは魔術師のカミラだ。
その後ろには領主の息子アルフォンスと、彼に仕える騎士が五人。しかもそのうちの三人は、昨日薔薇園でカミラを巡って静かなる攻防を繰り広げていた騎士たちである。
「ほら! わたくしの言った通りだったでしょう、アルフォンス様! まだ幼いようですが、あれは間違いなくドラゴンです!」
カミラが勝利を確信したような声で言う。
昨日の目撃者はカミラ様だったのかと、ハルは唇を噛んだ。一番面倒くさそうな人に見つかってしまった。
カミラに指をさされたラッチが、ウウ……と低い唸り声をあげる。
「ラッチ、だめだよ」
ハルは咄嗟にラッチをなだめた。間違っても、カミラやアルフォンスに襲いかからないように。そんな事をすれば一巻の終わりだ。ラッチを殺すための口実を相手に与えるようなもの。
「そんな風に相手を睨まないで、いつも私に見せてくれるような可愛い顔して!」と、ハルは小声でラッチに忠告する。
ラッチのことがバレてしまっては仕方がない。こうなったら彼の可愛さをアピールして、ドラゴンが危険な生物でない事を示すのだ。名付けてラッチメロメロ大作戦。
ハルがそんな馬鹿な作戦を考えている間に、カミラはもっと狡猾な作戦を実行に移した。
見事な演技で恐怖に震える声を出し、叫ぶ。
「あの娘は、あのドラゴンを使ってわたくしたちを襲うつもりなのです! この指輪を……売れば一生遊んで暮らせる金額になる、この高価な指輪をわたくしから奪うために!」
「……え?」
全く予想していなかった嫌疑をかけられて、ハルは口をぽかんと開けた。
ラッチの心配ばかりしていたので、自分が責められる事をあまり考えていなかった。
アルフォンスや騎士たちは、険しい顔をしてこちらを見ている。
完全にハルの事を『指輪を盗るために殺人を企てる強欲な人間』と思っている目だ。
彼らにとっては、カミラから発せられた言葉は全て、疑う余地もない真実なのである。美しいカミラが嘘を言うはずないとでも思っているのだろうか。
カミラは魔術を使うための杖を掲げて続けた。
「アルフォンス様、どうか許可をくださいませ。このままではわたくしたち皆、あのドラゴンにやられてしまいます。どうか、あのドラゴンと娘を始末する許可を!」
「え、ええー!?」
あまりの展開に、ハルはもう、ただあわあわと意味のない動きをする事しかできなかった。ラッチだけでなく、自分も殺されようとしているなんて。
だいたい、ドラゴンとはいえまだ赤ちゃんのようなのラッチに、魔術師のカミラと五人の騎士を倒せるはずがない。ラッチの体の大きさを見て、分からないのだろうか。
それとも必要以上にドラゴンを警戒して恐れているだけ?
(とにかく誤解を解かなくっちゃ)
カミラは、ハルとラッチが森でこそこそと会っている場面を見て、『自分を襲おうとしているのでは?』と、ただ“誤解”しているだけだと思ったのだ。
しかし――
「許可を出す。どこでドラゴンを手に入れてきたのか知らないが、そこまでして指輪を自分のものにしたいとは……」
アルフォンスが呆れたように首を振った瞬間、堪えきれなかったようにして唇の端を持ち上げたカミラを見て、ハルはやっと気がついた。
(違う。彼女は誤解しているんじゃない)
意図して、ハルを陥れようとしている。
でも、何故?
そんなの決まってる。
指輪を……『売れば一生遊んで暮らせる金額になる』あの『高価な指輪』を、自分のものにするためだ。