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雨の中、アナリアがレッドウィルプの実を摘み、オルガが次々と魔獣を壊滅させ、ハルの枕に徹しているラッチがすやすやと寝息を立て始めた頃、山小屋の中に一匹の招かれざる客が現れた。
“彼”は小屋の壁が崩れている所から、そうっと中に侵入してきた。
周りに誰も――クロナギやオルガたち――がいないのを確認して、静かにハルの元に近づいてくる。
ハルは高熱のため眠っており、侵入者には気づかない。
丸い鼻先をくっつけられ、しつこく匂いを嗅がれても、大きな舌でべろんと顔を舐められてもだ。
侵入者は、一匹のドラゴンだった。
なめらかで少し硬質な鱗の色は、派手な赤。小屋に入ってくるまで雨に打たれていたため、つやつやと濡れて水滴をしたたらせている。
彼は飛竜と呼ばれる種類のドラゴンで、見上げるほど大きな岩竜と比べるとずっと小柄だ。
竜人にとっての飛竜は、人間にとっての馬のようなもの。体は大きすぎず小さすぎず、機動力があり小回りもきく飛竜は、野生で生きている以外にもドラニアスの竜騎士軍で飼育、訓練されている。
必要に応じ、竜騎士は飛竜に乗って戦うのだ。
今ここにいる真っ赤な飛竜も、元は竜騎士軍で育てられたドラゴンだった。
話は二日前に遡る。
山を登り始めた当初に、このドラゴンは一度ハルたちの前に姿を現していた。
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「ねぇ、あれ見て。ドラゴンだよね?」
自分たちの上空を旋回する赤い物体を、ハルは指差した。
クロナギも空を見上げて頷く。
「ええ、飛竜ですね」
「飛竜だって! ほら、ラッチ! 寝てないで見てごらん。ラッチも大きくなったらあんな風になるんだよ」
「きゅ?」
話をしているうちに赤いドラゴンはどんどん降下してきて、ハルたちの目の前に降り立った。
まだ成体になったばかりなのか顎の辺りが少し丸く、いたずらっ子のような瞳をキラキラさせていて、どこか落ち着きがない。
体は大きいが、精神年齢はラッチとあまり変わらないような気がした。
少なくとも、トチェッカで出会った岩竜たちほど大人ではないようだ。
地上に降り立った飛竜は最初、竜人四人とラッチに気を取られていたものの、ハルを視界に入れると、ゆっくり、しかし一直線にハルの元へと向かってきた。
「わ、わ!」
どこか人懐っこい表情のドラゴンを恐ろしいとは思わなかったが、自分の背丈ほどもある猛獣がドスドスと足を踏み鳴らして近づいてきては、さすがのハルもクロナギの背後に隠れずにはいられない。
「止まれ」
遠慮のない飛竜に、クロナギがそう言って手をかざした。手のひらをドラゴンに見せるその動作は、『待て』の合図だ。
条件反射のようにピタリと立ち止まり、解除の指示を待つように上目遣いでクロナギを見つめる飛竜に、ハルは驚きの声を上げた。
「すごい! 賢いね」
クロナギは『待て』を解かないまま、言った。
「おそらくこの飛竜はドラニアスの竜騎士軍で飼っていた個体ですね。ハル様に惹かれて寄って来たとしても、野生の個体なら我々竜人には多少の警戒を示すはずですから。――まだ動くな」
解除の合図を待たずに動き出そうとした飛竜を、クロナギが視線と声だけで再び止める。
ハルは感心して言った。
「だから『待て』が分かるんだね」
続いてクロナギが『伏せ』の合図を出すと、飛竜はちらちらとハルの方を意識しながらも、おずおずとその指示に従った。
どうやらクロナギの事が少し怖いらしい。自分より強い人、逆らってはいけない人だと認識している様子だ。
ぺたんと体を伏せて、顎まで地面にくっつけている飛竜に、ハルは「かわいい!」を連呼した。飛竜が少し得意げな顔をして、ラッチが拗ねたようにハルの服を引っ張る。
「ごめん、ラッチも可愛いよ。……でも、何で竜騎士軍の飛竜が一匹でこんな所をふらふらしてるの?」
ラッチの頭を撫でながら質問する。不安になって辺りを見回してみたが、この赤い飛竜に乗ってきたと思われる竜騎士は見当たらない。
「おそらく竜騎士軍のどこかの『竜舎』から、勝手に抜け出してきたのでしょう」
クロナギの説明によると、竜舎というのは厩舎のようなもので、ドラゴンを飼うための小屋らしい。
「勝手に抜け出せるものなの?」
「ええ、調教を終えたドラゴンたちは鎖で繋いだりして不自由な拘束をされている訳ではありませんから。力の強いドラゴンがその気になれば、竜舎の扉など壊して外に出るくらい簡単でしょう」
「でも、今まであまりそんな事なかったわよね」
伏せを続ける飛竜を見ながら、アナリアが口を挟んだ。
「前に、竜舎の外にいた野良猫を追いかけようとして思わず扉を壊しちゃった子がいたけど、その後自分でちゃんと小屋の中に戻ってたわ。扉を壊した事を怒られると思ったのか、端の方でずっと後ろめたそうな顔してたけど」
その他にも、中でドラゴン同士じゃれ合ったり、喧嘩をしたりして、竜舎が破壊される事は珍しくない。しかしそれをチャンスと外に逃げ出すドラゴンは、一匹たりともいなかった。
ドラゴンたちは、自分の世話をしてくれたり、狩りに連れ出してくれたり、楽しい戦闘で一緒に戦う竜騎士たちに懐いているからだ。
そしてもう一つの理由は、“皇帝”から離れたくないから。
竜舎があるのは、皇帝のいる禁城近くだけではない。中央の他にも、東西南北それぞれの地に竜舎はあり、多くの飛竜たちがいる。直接皇帝を見た事のあるドラゴンの方が少ないかもしれない。
しかし野生のドラゴンと同じく、飼育されている彼らも、理屈ではなく本能でその存在を感じ取って生きている。
皇帝の持つ不思議な“磁力”は、竜人だけでなくドラゴンをも惹き付け、ドラニアスに留まらせているのだ。
「やはりドラニアスに皇帝がいなくなったせいだろう」
クロナギがアナリアに答えた。
「つまりこの子は、トチェッカにいた岩竜たちと同じような理由でここにいるのね」
「皇帝のいないドラニアスに、何となく魅力を感じなくなったんだろうな」
皇帝という特殊な磁力を発する存在が消えた事で、一部のドラゴンの意識は今まで見向きもしなかったドラニアスの外へと向いた。
そしてこの赤い飛竜のような好奇心旺盛な個体が、こうやって気まぐれに国外に出てくるのだ。あるいは無意識に、皇帝の血を継ぐ者を探しているのかもしれない。
「触ってもいい?」
ハルが落ち着いた声で言い、クロナギを見上げる。クロナギは頷いて合図を出していた手を引いた。
すると『伏せ』を解かれた赤い飛竜が、そろそろとクロナギの様子をうかがいながらハルに近づいていく。
そしてクロナギに叱られないとわかると、ぺろぺろとハルの手を舐め出した。ラッチが抗議の声をあげていようがお構いなしだ。クロナギは怖いが、子どものラッチなど恐るるに足りないらしい。
「お前もドラニアスにお帰り。そっちの方が友達もいっぱいいるでしょ? 国の外に出たって、あまり良い事ないよ。人間はドラゴンが怖いから……見つかったら殺されるかもしれない。捕まって売られたり、見せ物にされたりするかもしれないよ」
ハルは少し心苦しかった。
自分がドラニアスで皇帝の地位に就けば、こうやって国外に出てくるドラゴンたちを止める事ができるのだろうか、と。
そして何だか悲しくもなる。
ドラニアスは、皇帝を中心とした一つの強固な塊だったという。
しかしその塊が、今はぽろぽろと崩れてきているのだ。
クロナギたちの説明でドラニアスも崩壊しつつある事は知っているが、こういった『はぐれドラゴン』に遭遇する事で、その末端を見せつけられた気持ちになった。
あるいはクロナギたちが今ここにいる事も、ドラニアスの結束力の降下を表す事実の一つだ。
何故なら彼らはドラニアスの竜騎士軍に属しているのに、その長であるレオルザークに背いてハルの側についているのだから。
ドラニアスは、ハルにとって遠い国だった。
自分とは何の関係もない国だと思っていた。
けれど今は違う。故郷はどこかと訊かれれば、ハルはドラニアスの名を挙げるだろう。
自分の父が竜人だと聞かされた時から、一度も訪れた事のないドラニアスに、生まれ育ったジジリアよりも強い郷愁を感じるのだ。
故郷が壊れていくのを見るのは辛い。
死んだ父の無念を思えば尚更。
けれど混血のハルを認めない竜人たちを全員説き伏せて、一つの国を背負って立つ。その勇気はまだハルの中にはなく……。
「ね、ドラニアスに帰ろうよ」
目の前の『はぐれドラゴン』を説得する事くらいしかできなかった。
しかし説得されている飛竜は、そんなハルの心境など知る由もない。太い尾をブンブンと振って楽しそうにじゃれつき、ついにはハルを押し倒してしまった。
「ぐえ」と、ハルが蛙の潰れたような声を出すと、クロナギたちが慌てて赤い飛竜を引きはがす。
「人に飛びかかってはいけないと教わらなかった? お仕置きされたいのかしら」
アナリアが鞭を取り出し、脅すように地面を叩くと、飛竜は怯んだように後退する。
「お前の居場所はここではないのよ。ドラニアスに戻りなさい」
アナリアがもう一度地面を鞭打つと、未練がましくハルを見つめていた飛竜も、諦めたように空に飛び立った。
「このままドラニアスに戻ってくれるといいんだけど……」
ハルは服についた汚れを払いながら、上空を見上げて呟いた。
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熱を出して眠り込んでいるハルの顔を、飛竜は遠慮なく舐め回した。
今、ここに彼がいるという事は、つまり二日前のハルの願いは届かなかったという事だ。赤い飛竜はあのまま素直にドラニアスには戻らず、まだウラグル山脈付近を当てもなくうろついていたのである。
そうして突然の雨に振られて地上に降り立ったところで、偶然にもハルの気配を近くに感じ、再び興味をひかれてこの小屋までやってきたらしい。
飛竜はとても気分が良かった。
ハルの近くにいると、心が満たされる感じがするのだ。
自分より強いドラゴンや竜人に感じる憧れ。
世話をしてくれる調教師たちに感じる親しみ。
タイプの雌ドラゴンに感じる恋情。
赤い飛竜は、そのどれとも違う感情をハルに抱いていた。
赤い飛竜は一通りの調教を終えたばかりで、まだパートナーと呼べるような竜騎士と出会ってはいないのだが、しかしパートナーがいる飛竜でも、ハルにはパートナーに感じる信頼とはまた別の感情を持つだろう。
それは全てのドラゴンが皇帝一族の血を持つ者に感じるものだ。
動物である彼らは、人である竜人たちよりもずっと素直に、ずっと露骨にその好意を表す。
そしてそれは、この赤い飛竜も例外ではない。彼は散々ハルの顔を舐め回して満足すると、次にはきょろきょろと小屋の中を見回し始めた。
ちょっぴり怖いクロナギやアナリアの姿がないことを確認し、ライバルのラッチがハルの枕になりながら呑気に眠っているのを見ると、いそいそと行動を始めた。
意識のないハルをつんと突ついて転がし、うつ伏せにすると、背中側の服を口でくわえた。そしてそっと体を持ち上げると――あっという間に小屋から飛び立っていったのだ。
「♪〜」
飛竜はご機嫌だった。お気に入りの玩具をくわえて尻尾を振る犬のように、ハルをくわえて雨の中を飛び続ける。
目的地は特に決めないままに……。




