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雨は一向に止む気配がない。北側の壁が崩れた小屋の中で、アナリアたちはじっとクロナギたちの帰りを待っていた。
小屋の中には朽ちかけた木の棚があるだけで、清潔な布とか、着替えとかベッドとか、ハルに使えそうな都合のいい物は一つとして置いていない。
土埃の溜まった固い床の上に寝かせるなんてできなかったので、アナリアはしっかりとハルを抱いたまま、寒くないようにとなるべく体を密着させた。時々片手で肩もさすってやる。
しかしハルの容態は変わらず、熱にうなされ、苦しげな呼吸を続けるばかり。
「きゅん、きゅん!」
「シーッ、静かに」
動かないハルを起こそうとしているのだろうか。ぱたぱたと飛び回りながら寂しそうに鳴くラッチを、アナリアは諌めた。
オルガは腕を組み、ハルとアナリアを風から守るように壁のない北側に立っている。小屋の内側に体を向け、熱のために赤くなっているハルの顔を神妙な眼差しで見つめたまま、ごく真面目に呟く。
「……川にでも落としてみるか」
アナリアはその呟きに軽く片眉を上げた。
「何を?」
「ハルを」
「!?」
アナリアはカッと目を見開いて、「何を考えているの!?」「馬鹿なの!?」とオルガを散々罵った。
「だって、そうすりゃ体温下がるだろうが」などと弱々しく反論していたオルガも、アナリアの勢いについには何も言えなくなる。ただただ言葉の矢に心臓を貫かれるだけだ。
そうしてオルガを意気消沈させ、やっと口撃を終えると、アナリアはハルをぎゅっと抱きしめ、ため息をついた。
「やっぱり私はクロナギと一緒に行かなくてよかったわ。オルガとソルとラッチの馬鹿三匹残したんじゃ、ハル様をどう扱うか分かったものじゃないもの」
ソルとラッチも、とばっちりで罵られる。
そうして唐突に、女王様からオルガに命令が下された。
「ねぇ、暇ならハル様のためにレッドウィルプを摘んできてちょうだい」
「何だよその……レッド何とかって」
「昨日、ハル様が歩きながら摘んで食べていらしたやつよ。私も初めて見たけど、ドラニアスにはない小さくて赤い果物よ。中は白くて、とても瑞々しくて甘いらしいわ。ハル様はそれが好きみたいだから、熱があっても食べられるんじゃないかしら」
風邪を治すためには栄養も必要。食べられそうならば、何か口にした方がいいとアナリアは思ったのだ。
オルガは顔をしかめて言う。
「ハル、昨日そんなもん食ってたか?」
「食べてらしたわよ。どうして見てないのよ」
「俺はアナやクロナギみてぇに、ハルの一挙一動をいちいち確認してねぇんだよ。どこに生えてたんだよ、そんなもん」
「もういいわ。私が行くから」
呆れたように言って、アナリアはハルの体をそっとオルガに抱かせた。――ハルが冷えないよう、雨に濡れたオルガのびしょびしょの服を強制的に脱がせて半裸にし、「絶対に乱暴に扱わないで」と釘を刺してから。
しかしオルガは体も大きく体温も高いので、抱かれているハルも安定感があるだろうし、寒さもマシになるかもしれない。
小さなハルを慣れない手つきで丁寧に抱きかかえる上半身裸のオルガ、という目の前の光景にアナリアは少しだけ唇を緩めた。
オルガの顎を意味ありげに指でなぞって、ささやく。
「ハル様に負担がかからないよう、なるべく動いちゃ駄目よ」
「……おう」
オルガはアナリアの魅惑的な厚い唇に視線を落としながら答える。
二人の間にハルが挟まっていなければ、あるいはラッチが周りをぐるぐると飛んでいなければ、とてもいい雰囲気だったのだが。
アナリアはくすりと笑って、ハルの額にキスを落としてから小屋を出ていった。
「病人と子竜のお守りか……」
三人になった小屋の中で、オルガが密かに息を吐く。
アナリアに言われた通り微動だにせずハルを抱きかかえていたオルガだったが、ラッチがうとうとと船をこぎ始めた頃に、ふと周囲を見回し始めた。
小屋の中から、外の気配を探る。
――複数の魔獣の気配を。
「段々増えてきてるな」
魔獣の気配自体は、この山に入った時からずっとしていた。それはオルガだけでなく、クロナギたちも気づいていたはずだ。気づいていたが、放っておいた。
相手は小さな魔獣一匹で――おそらく元は狼だったらしい――、こちらの様子を窺うように距離を開けて後をついて来てはいたものの、天敵のドラゴンがいるからか、正面切って襲ってくる事はしなかったからだ。
向こうから来ないなら、わざわざこちらから追いかけて倒すほどの敵でもない。
けれど初めは一匹だったはずの魔獣が、ここへ来てどんどん数を増やしてきている。
魔獣は基本的に単独行動をとるが、群れごと魔獣化した場合、その後も群れで行動する場合がある。
今、外にいる元狼の魔獣たちも、きっと集団で魔獣化したのだ。
小屋の中から姿は見えなかったが、虎視眈々とこちらを狙っている気配を感じた。今にも襲撃を始めそうな雰囲気。
きっとクロナギやソル、アナリアが離れていったのも見ていたに違いない。
こちらの“群れ”の人数が少なくなった今がチャンスだと思って、最初の一匹が仲間を呼んだらしい。
「魔獣のくせに、なかなか頭が働くな」
褒めるように言う。
例えばだが、オルガが狩る側で相手の集団を襲う場合、狙うのは一番の強者だ。強い相手と戦いたいから。
だが、野生の動物や魔獣の狩りは全くの逆。
相手の群れを襲う時には、怪我をしたものであったり子どもであったりといった一番の弱者を狙う。確実に獲物を捕らえるために。
そして今、この集団の中で一番の弱者はハルだ。
外の魔獣たちは、最初からハルに狙いをつけている。
オルガは獣じみた笑みを浮かべ、白い歯をぎらりと輝かせた。
「……俺の前でこいつを狩ろうってか?」
好戦的で残忍な表情。
ハルの意識があったなら、きっと震えて後ずさっていただろう。今のオルガは気のいい兄ではない。
オルガの殺気を感じてか、外にいる魔獣たちが低い唸り声を上げ始めた。
しかしハルがこの状態なのに、近くで魔獣を狩るのは気が引ける。さすがのオルガもそう思った。あまり騒がしくはしたくない。
しかし無謀にもハルを狙っている魔獣には、無性に腹が立っていた。お前らの汚い牙がこいつに届くと思うなと、こちらまで唸り声を上げてしまいそうだ。
しかも、外の魔獣たちは今にもこの小屋を襲撃してきそうな気配である。この狭い空間で複数の敵を相手に戦闘が始まったら、ハルを無傷で庇い続けるのは難しい。
おまけにこの小屋を破壊されたら、雨からハルを守るものがなくなってしまう。
向こうが攻撃を仕掛けてくる前に、オルガが外に出ていって相手を全滅させる。それが得策に思えた。
「さくっと片付けてくるか。群れの仲間がいるんだと分かってりゃ、一匹だったうちに始末してたのによ」
オルガはラッチを枕にさせて、ハルの体を床に横たえた。雨と汗で濡れているハルの頭を乱雑に撫でる。
「ちょっと待ってろよ」
オルガ一人でも魔獣の群れを全滅させる事は難しくない。一匹たりともこの小屋に近づけさせない自信はあるので、ハルは確実に安全のはずだ。
しかし一応小屋を出る時に、近くにいるはずの『姿の見えない後輩』に声をかけていった。
「おい! ハルを見張ってろよ、ヤマト」
もちろん返事はなかったが、どこからか疲れたようなため息が聞こえた気がした。




