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「どうすればいいの」
余裕のない声でアナリアが訴える。
視線は先ほどからずっと、クロナギに抱かれているハルに縫い付けられたまま。
アナリアとラッチ、そしてクロナギとその腕の中のハルの四人は、ただでさえ狭い山小屋の中で一カ所に密集していた。
皆ハルから離れようとしないせいだ。
この小屋は長いこと使われていなかったらしく、雨風が当たりやすい北側の壁は腐って崩れ落ち、外と中を区切るものが無くなっていた。
そのため、狭い小屋の中に無理に入らなかったオルガとソルも、強くなってきた雨に打たれつつ、クロナギたちのすぐ近くでハルの様子を見ることができた。
ハルはひたすら荒い呼吸を続けながら、時々辛そうに眉を寄せている。眠ったかと思えば大きく咳き込んで目を開け、また眠ったかと思えば寒さを訴えてまぶたを開ける。しかし意識ははっきりしておらず、またぐったりと瞳を閉じての繰り返し。
疲れているのに、熱のせいで熟睡する事もできないらしい。
ハルを害する者は誰であろうと倒すつもりだったクロナギだが、相手が病気ではさすがに斬る事も殴る事もできない。
自分たちではどうしようもなく、それが酷くもどかしい。
このまま何をできずにハルが死んでしまったら……。そう考えると、クロナギたちの胸にエドモンドを亡くした時の痛みと虚無感が蘇ってきた。
あんな思いはもう二度としたくない。
「……どうする?」
ソルが珍しく声を出した。
いつも通りの無表情だが、やはり視線は苦しげなハルの顔に注がれている。
元々感情を表には出さないタイプだ。あまり態度で示す事はないが、竜人として、ソルも皇帝一族の血を持つハルには“何か”を感じていた。
彼女をここで死なせてはならない、と漠然と思う。
「ここから一番近い村にハル様をつれて行く」
ハルから目を離さないまま、クロナギが言った。
そこで着替えとベッドを借り、しばらく休ませてもらうのだ。医者がいればさらに都合がいい。
「人間にハル様を診せるってこと?」
アナリアが嫌そうに言い、クロナギが静かに答える。
「風邪は人間にとって珍しくない病気だ。その対処法については、我々より彼らの方が詳しい。もしかすれば、医者がいずとも、薬を常備している家もあるかもしれない」
「だが、人間が俺らを受け入れると思うか?」
オルガが口を挟む。
「ここから一番近い集落を探すとしたら、ジジリアへ戻るよりラマーンへ入った方が早いだろ? ラマーンの連中は俺らを怖がってる。ビビっちまって誰も家の戸を開けてくれねぇかもよ」
「扉くらい、壊せばいい」
ソルが背負っている剣の柄に手をかけて言ったが、即座にクロナギに止められる。
「駄目だ、乱暴な真似はするな。無駄な争いを生みたくない。ハル様の命がかかってるんだ」
そこでため息をついて、先を続ける。
「外はまだ雨が酷い。ハル様の負担を考えて、もう少し小雨になってから移動したいが、それまでただ待機しているつもりはない。二人が山を下り、民家を探す。見つけたらまたここに戻ってきて、最短距離で、なるべく時間をかけずにハル様を運ぶ。ハル様を背負ったまま雨の中で道に迷ったりしたら、本気で生死に関わるからな」
クロナギの持っている地図には小さな町や村の名前は載っておらず、探すには自分たちの足を使うしかなかった。
しかしおそらく、この山の麓にはいくつか村があるはずだ。その村の位置を正確に把握してから、またここへ戻って来るまで、竜人が本気で走れば一時間もかからないだろう。
「山を下りる二人は、俺とアナリアだ」
そう言ったクロナギの声は落ち着いていたが、ハルを映す黒い瞳には、確かな熱が宿っていた。
離れがたいと言うように、その視線はハルから他に移らない。
「どうして私なのよ」
「俺、待機してるより動きてぇんだが」
アナリアとオルガから同時に不満の声が上がった。
クロナギは片手でハルの濡れた前髪を横に流し、淡々と説明する。
「俺とアナリアが行くのは、村を見つけたらそこで交渉しなければならないからだ。病人を休ませてもらえるか、医者を呼んでもらえるか。それが駄目なら、金は払うから薬や着替えだけでも分けてもらえるか……。我々は頼む側だ。脅す以外の交渉法をオルガとソルが使えるとは思えないし、お前たちの容姿は黙っていても相手を威圧してしまう。ただでさえ竜人を恐れているラマーンの人間を、さらに萎縮させる事になる。交渉役としては不適任だ」
アナリアの熾烈な性格を考えれば、彼女も理性的な交渉ができるとは限らないが、オルガとソルよりはマシだと判断した。それに交渉相手が男なら、アナリアの美しい容姿が役立つかもしれない。
だが、アナリアはクロナギの提案を拒否して首を振った。
「嫌よ。私は行かない。ハル様の側を離れたくないわ」
クロナギとアナリアは、ハルに対して同じように過保護だ。だけどそこには違いもある。例えばクロナギはハルを自分の子どものようになど思った事はないが、最近のアナリアはハルに母性を発揮している。
ハルを自分の側から離したがらないアナリアは、まだ幼い雛を自分の体の下に隠しておきたがる親鳥にも似ていた。
そして一度こうと決めたら、アナリアは頑として譲らない。クロナギはそれが分かっているからこそ、あっさりと人選を変えた。
「なら、アナリアはハル様とここで待て。俺と行くのはソルだ」
「おい、俺は?」
クロナギはちらりとオルガへ目をやった。筋骨隆々の彼の図体と、ソルの目つきの鋭さや無口さ。それらはどちらも同じく、人間との交渉の足を引っ張るだろう。
だが、それでもソルを選んだのは、
「ソルの方が足が速いだろう」
そういう理由からだった。スピードだけならソルがこの中では一番なのだ。
オルガはむっとした顔をして「力は俺のがあるけどな」とへそを曲げたが、ハルの状態が状態なので、それ以上文句を言う事なく引き下がった。
クロナギはソルに向かって言う。
「この先、道は二手に分かれている。本来は、なだらかな右側の道を進むはずだったが、俺とソルも別々に進んで集落を探すんだ。なるべくここから近い村や町を見つけ、交渉も済んだら、すぐにまたこの小屋まで戻ってこい。そしてその時俺がまだ戻っていなくても、雨の様子を見てすぐにハル様をつれていけ」
ソルが頷くのを確認して、さらに続けた。
「逆に村が見つからなかったり、交渉が上手く行かなくても、一時間以内にはここに戻ってアナリアたちと俺を待て。もしくは、もしここに戻った時に誰もいなければ、俺たちがハル様をつれて出発したという事だ。お前も後から追ってこい。そして二人とも集落の発見と交渉に成功した場合は、より条件のいい方を選んでハル様を移動させる」
ぼんやりしている暇はない。クロナギは早口で指示を出す。
二人とも失敗した時の話は、あえてしなかった。集落を発見できれば、クロナギは何がなんでも交渉を成功させるつもりだったからだ。
説明を終えると、クロナギは改めて腕の中のハルに視線を移し、ほんの少し彼女を抱く手に力を込めた。
この手を離したくないが、離れなければならない。
アナリアのようにわがままを言えればどんなにいいか。
けれど、それではオルガとソルに交渉を全て任せる事になり、さすがに不安すぎる。
クロナギは身を切るような思いで、ハルをアナリアに引き渡した。
そうして熱に苦しむ少女の髪を掬い、静かに口づけを落とす。
「すぐに戻って参ります」
クロナギは名残を惜しむようにハルの頬をひと撫ですると、すっと表情を引き締めた。
そうして、ソルを引き連れ小屋を後にする。
 




