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山の天気は変わりやすいと言うが、それはあまりにも突然だった。
先ほどまで爽やかに晴れていたのに、急に辺りが暗くなったかと思えば一瞬でどしゃ降りになる。
「うわぁ! すっごい雨!」
ハルは興奮ぎみに言った。地面を叩く激しい雨音で、自分の声すらよく聞こえなかったが。
降り始めてからものの数十秒で服や髪の奥にまで雨がしみ込んでしまったので、もはや「雨宿りしなきゃ!」という焦りはない。
さっきまで寝ていたラッチも今は嬉々として大降りの雨の中を飛び回っていて、ハルも少しわくわくしていた。
「雨が目にしみて、まぶたが上げられない! 喋ったら雨が口に!」などと困った風に言いつつ、喜んではしゃぐ。
しかしそんなお馬鹿な子ども心が分からないのが、大人というものである。
「ハル様、こちらへ」
クロナギの腕に捕われたかと思えば、抱き上げられて、あっという間に大きな木の下に避難させられた。
アナリアたちも後からついてくる。
ハルは少ししょぼくれながら言った。
「雨宿りは意味ないよ。もう全身びしょ濡れだもん」
下着まで雨がしみてしまっているのが分かるほど。
ハルはまだ雨を楽しんでいるラッチの元へ向かおうとして、クロナギにやんわりと、しかし有無を言わさぬ強い力で木の下へ押し戻された。
アナリアはハルのために荷物の中から体を拭く布を引っ張り出してきたが、それも雨に降られてずぶ濡れである。着替えの服だって同じような有り様だ。それを見たクロナギが珍しく舌打ちなどしている。
雨はさらに激しさを増し、地面に穴を開けるのではないかという勢いで降り注いでいた。
そしてそんな大雨の中では、木の下にいるだけで全ての雨粒を防ぐ事はできない。
クロナギがハルの前に立ち、体を張って雨を防ごうとしてくれているが、多少の風があったので横からも吹き込んでくるし、木の葉を伝って上からも落ちてくる。さらに地面に当たって跳ね返った雨は、ハルのブーツを地味に濡らしていった。
「なかなか! 止みそうに! ないねー!」
うるさい雨音の中で、ハルは声を張った。
が、クロナギとアナリアはハルの世話で忙しく返事をしてくれない。自分の着ていた服を脱いで絞り、それでハルを拭いたり、ハルの羽織っていた薄めの外套を脱がせてまた絞ったりを繰り返している。
ハルも自分の薄茶色の髪を束ねてぎゅっと絞った。少なくはない量の水滴が落ち、足下に小さな水たまりができる。
トチェッカで買った雨用の外套があれば多少は雨を防げたかもしれないが、あれは岩竜の牙で穴が開いていた上、街の住民たちに追われたどさくさに紛れて失くしてしまっていた。
「この雨では先に進めませんね」
しっとりと濡れた黒髪をかきあげ、クロナギがため息をついた。その仕草が色っぽく、ハルは少し見とれてしまう。
なんだろう、濡れたクロナギから溢れ出るこの色気は……などと、女としてちょっぴり悔しく思いながら。
一体いつまでここで足止めを食わされるのかと心配したハルだったが、わりとすぐに雨は弱まった。
どしゃ降りだったのは一瞬で、今は肌に当たっても気にならないほどの霧のような雨。
ずっとここにいても冷えた体は温まらないし、服が早く乾く訳ではない。動いて体を温めるため、そしてさっさと山を抜けるためにも、ハルたちは雨宿りしていた大木を離れ、小康状態の雨の中を進んだ。
「寒くはありませんか?」
「んー……」
クロナギの気遣いに、ハルは曖昧な返事をした。
正直、寒い。
元々、秋の山の気温はそれほど高くない上、雨が降ってさらに下がってしまっている。
そしてその外気を浴びて、濡れた服はひんやりと冷たくなり、ハルの体温を奪っていた。鳥肌が立っているのが自分で分かる。
しかしここで「寒い!」と訴えても、できる事はほとんどない。
着替えようにも服の入った荷物は全て濡れてしまっているし、火をおこそうにも、雨が降った後ではよく乾いた枯れ草や小枝など落ちているはずもない。
このまま歩き続けて体を温めるのが一番いいように思えたので、ハルはクロナギに寒さを訴える事はしなかった。
しかし、それが悪かったのかもしれない。
歩き始めてしばらくしても、ぞくぞくと背筋が粟立つ感覚は治まらなかった。
寒気は酷くなるばかりなのに、しかし一方で頭はぼーっと熱を帯びている。
体は重く、一歩進むのでさえ億劫だった。
「ハル様?」
ハルの様子がおかしい事に気づき、クロナギが声をかけてくる。
のろのろと引きずるように足を動かしてはいるが、ハルは今にも倒れそうだったのだ。
「どうされたのですか?」
「わかんない……何か、つらい」
はぁはぁと呼吸が荒くなっていき、声を出すのにさえ気力を振り絞らなければならない。
体の芯は熱いまま、寒気も止まらない。そのうち視界がぐるぐる回り出した。
ついに足を止めたハルをクロナギが後ろから支え、心配したアナリアにも顔を覗き込まれる。
「顔が赤いわ」
ハルは立っていられなくなり、クロナギに体重を預けた。体はだるく、胸の当たりに気持ち悪さも込み上げてきている。脈の速さに合わせて頭がズキズキと痛み、最悪な気分だった。
「酒に酔ってんのか?」
オルガもハルの顔を覗き込んだ。薄く開けられたハルの視界は、心配そうな顔をするアナリアと困惑顔のラッチ、そして冷静にこっちを観察しているオルガでいっぱいになる。皆がすぐ近くまで寄ってきているからだ。
後ろで体を支えてくれているクロナギの表情は分からず、ソルは少し離れたところからこちらを見ている。
「アルコールなんてとらせてないわよ」
ハルの代わりに、アナリアがオルガに反論する。
「じゃあ何だ、この症状は? 毒か? 知らないうちに毒蜘蛛にでも噛まれたか、あるいは昨日ハルが食ってた茸の中に……」
眉間にしわを寄せて言うオルガの言葉に、アナリアは凍りついた。が、今度はクロナギが否定する。
「それはない。茸は俺もきちんと調べたし、この辺に毒のある蜘蛛など生息していない」
「じゃあ毒ではないのね?」
アナリアがホッとしたように息を吐くが、けれど表情は険しいままだった。
「でも、だったら一体どうして急に体調が悪化したの? 確かに疲れてらっしゃるようだったけれど、さっきまで普通に歩いていらしたのに」
「ハルは半分人間だからな。人間にしか発症しない奇病にかかったのかもしんねぇぞ」
「そんな……!」
アナリアが青い顔をして息をのみ、ラッチが悲痛な鳴き声を上げる。まるでハルの命が残り僅かだとでもいうように。
「……あ、あの」
彼らの認識を改めなければ、と、ハルは苦しい呼吸の中で言葉を紡いだ。
「たぶん、ただの……風邪……」
むしろなぜ、その可能性を一番に疑わないのかと不思議に思う。
旅の疲れが溜まり、体力が落ちていたところへ、この大雨。抵抗力の下がっていた体は、少し冷えただけで体内で潜伏していた風邪の悪化を許した。この前、冷たい泉で水浴びしたのも悪かったかもしれない。
「カゼ?」
オルガとアナリアが同じように眉根を寄せる。
その反応にハルも困惑するしかない。知らないの? と。
しかし竜人たちの中で、ただ一人クロナギだけがその病気を知っていた。
「人間がかかる病気のひとつですね。フレア様もドラニアスにおられた一年間で、三度ほど風邪を引かれていました」
ハルは心の中で頷いた。一年に三回。体の弱かった母からすれば、それは少ない方だ。
クロナギが神妙な声で言う。
「けれど、ハル様の症状はフレア様の症状とは全く違うようですが……。フレア様は喉の痛みを訴えておられました」
「風邪には、いろいろ……症状、が、あって……」
フレアの場合、風邪を引いた時の症状の表れ方として、まず喉が痛み出すのだ。そしてその後、必ず熱が上がってくる。
一旦熱が出ると微熱で治まる事はほとんどなく、数日は寝込む事になり、その時の看病はハルの役目だった。
母ひとり子ひとりの関係だったから、小さい頃はフレアが高熱を出すたび、「これで母さまが死んだらどうしよう」と看病しながらよく泣いたものだ。
けれどドラニアスにいた時は風邪を引いても熱が出なかったという事は、逆に言うと、熱が出る前に風邪の侵攻を防げていたという事だ。
栄養満点の食事に、高価でよく効く薬、暖かな部屋や寝床など、子どものハルでは十分用意できなかったものをエドモンドはフレアに用意し、万全の体制で看病していたのだろう。だから風邪は悪化しなかった。
クロナギの情報から、母が父に大事にされていた事が分かって、ハルは嬉しくなった。熱に浮かされながら、ほんのりと笑ってしまう。
へらへらと笑うハルを、オルガが「頭がやられたか」と真剣に心配し出した。
「風邪ならば、他の病気と同じく安静が第一だ。このままハル様を雨天の下にさらしておく訳にはいかない」
クロナギの言葉にアナリアが同意する。小雨だった雨がまた段々強くなり、眠ろうとするハルの頬を叩いた。
クロナギたちは相談して、道を少し戻る事に決めたようだ。先ほど見かけた古い山小屋で、この雨をやり過ごすらしい。
気づけば、ハルはクロナギに抱きかかえられながら山の中を疾走していた。誰かの上着が頭から被せられているから、雨が素肌に当たる事はない。
(風邪なんて、ひいた事なかったのにな……)
フレアと違い、今までハルは病気をした事がなかった。そしてその体の強さがちょっとした自慢だったのだが、今思えば、それはハルが半分竜人の血を継いでいたからなのだろう。
しかし同じように、ハルは体の弱かった母の血も継いでいるのだ。無理をすれば高熱を出す事だってある。
別に自分の体力を過信していた訳ではないが、これからは体調管理にも気をつけないととハルは思った。特に最近の旅では、クロナギたちに合わせようと少し無理をしていた部分もあったから。
でもそうする事でこんな風に倒れてしまうくらいなら、休みたい時は休みたいと素直に言うべきだった。今になってそう後悔する。
迷惑をかけるのも申し訳ないが、心配をかけるのも辛い。先ほどのアナリアやラッチの顔を見てそう思った。
寝込んだフレアを「母さま死なないで」と泣きながら看病していたハルと同じような顔を、彼女たちもしていたのだ。
山小屋に着いて、被せられていた上着を取られた時には、クロナギが厳しい表情をしているのも見えた。きっと彼にも心配をかけている。
(早く治さないと……)
くらくらする頭でハルは思った。
初めて引いた風邪は、しんどくて気持ち悪くて吐きそうで、熱くて寒くて想像よりずっと辛いものだった。
そしてこんな辛い風邪と戦う気力は自分にはないと諦めそうになったのだが、クロナギたちの事を思ったらそんな弱音は吐けない。
(きっと母さまもこんな気持ちだったんだろうな)
いっそ死んだ方が楽になれると思うくらい病気が辛くても、ハルのために何度も戦ってくれた。
(だから私も風邪くらい吹き飛ばしてやるんだ……)
元気になった姿を見せれば、クロナギたちもきっと安心して笑顔を見せてくれる。
ハルはそんな事を思いながら、熱にうなされ、決して心地よくはない眠りの中へと落ちていった。




