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竜人の睡眠時間は、人間のそれより短い。
そのためハルはクロナギの眠っている姿を見た事がなかった。オルガやソルがちゃんと横になって休んでいるところもだ。
ソルは竜人の中ではよく眠る方らしいが、大抵は座ったままで目を閉じているだけ。
今日だって一番最初に眠りについたのはハルとラッチで、その時残りの四人はまだ起きていた。
眠る時間が短くて済むというのは羨ましい、とハルは思う。その分色々な事を考えたり、勉強したりできるから。
勉強と言えば、ハルの魔術の腕は一向に上達していない。
時間を見つけては杖を振っているのだが、誰かに教わる訳でもなく、独学で、しかもきちんとした初心者向けの魔術書もない状況で修得しようとしているのだから簡単ではない。
魔賊が使っていた『停止の術』と『透過の術』なら一度見ているし、おまけに直接体感したのだから、何となく発動できるんじゃないかと思ったが、それは甘すぎた。
呪文の発音が違う気がするし、杖を掲げてはいるものの魔力がちゃんと込められているのかすら分からないため、何度やってみたって成功しない。
魔術師には、必ず師がいるものだ。ハルも誰かに教わりたかったが、生憎近くに適当な人物はいない。魔術の修得は手詰まり状態だった。
しかしそれでも、その内コツを掴めるんじゃないかと希望を持って、毎日杖を振っている。
ふと夜中に目を覚ました時、ハルの前でたき火の炎はまだ暖かく燃えていた。
季節は秋。夜になると冷え込むようになってきたが、炎と毛布のおかげでそれほど寒さは感じない。
ラッチはハルにくっつくようにして眠っている。腹を天に向け、口を開けて小さなイビキをかき、野生など忘れてしまったかのような寝方である。
ラッチもクロナギたち四人がいる事を心強く思っていて、こんな風に安心しきって寝ているのかもしれない。
炎を挟んだ向かい側で、アナリアもまた横になって眠っていた。毛布を巻き付けただけで、ハルのような厚い敷き布は使っていない。
ラッチと違ってアナリアの寝顔には隙がなかった。口元がだらしなく緩んだり、重力に負けて頬の肉がたるんだりなどしていないのだ。起きている時と同じく、完璧で美しい。
しかしハルの視界に入ったのは、その二人だけ。
(……クロナギがいない)
それに気づいた瞬間、胸がそわそわして急に不安になった。
自分の側にはクロナギがいてくれるのが普通だと、いつから思うようになったのか。
その姿が少しでも見えなくなると、ハルは無意識に彼を探してしまう。
(オルガとソルも、どこへ行ったんだろう)
ここにいるのは自分と、幼いラッチ、そして眠っているアナリアだけ。そう思った途端に胸がざわめいた。
今まで何とも思っていなかった夜の森が、真っ暗な闇が、突然恐ろしくなる。
「クロナギ――って、わッ!」
ハルはそっと上半身を持ち上げ、寝ぼけ眼で周囲を見渡すと同時に短い悲鳴を上げる。
自分のすぐ後ろに座っていた人物に驚いて。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
クロナギは地面に膝をつき、ハルの肩から落ちた毛布をそっとかけ直した。
「う、ううん、大丈夫」
胸を撫で下ろしながらハルはもう一度横になった。クロナギの姿を確認すると、迷子になったように不安だった気持ちが、あっという間に消え去っていく。
「クロナギはまだ寝ないの? それとももう寝た?」
まだ自分が寝てからそれほど時間が経っていないのか、それとももう夜明けが近いのか、深い闇に包まれた森の風景を見るだけでは今の時間は分からない。
「もうすぐソルと火の番を交代しますので、その後で眠ります」
クロナギは片膝を地面についたままで答えた。しかしそれでも寝転がっているハルを見下ろす形になってしまうので、少し居心地が悪そうだ。
毛布を口元までかぶり直し、あくびをしながらハルが言う。
「ふぁ……ソルとオルガはどこにいるの?」
二人がぐっすり眠っているなら、ちょっとその姿を見てみたい気もする。そしてオルガには、日頃の恨みを晴らすべく、まぶたに目をかいて悪戯してやるのだ。
しかしハルの好奇心と悪戯心は、あっさりと砕かれた。
「あいつらは暇つぶしに行っています。森の奥で戦闘訓練でもしているか、獲物を追うだけの狩りでもしているか」
「そうなんだ……」
ハルが眠っている間、二人は暇を持て余しているようだ。
けれどどこかでオルガとソルが走り回っていると思ったら、さっき恐ろしいと感じたこの夜の森もそれほど怖くはない。クロナギが側にいてくれるなら尚更だ。彼の顔を見ると、とても安心する。
ハルはもう一度あくびをして目をとろんとさせながら、じっとクロナギを見つめた。
「ありがとう、いつも側にいてくれて」
一瞬の静寂が辺りを包む。
「大好きだよ。これからもずっと側にいてほしい」
クロナギには、炎の燃えるチリチリとした音も、風が木の葉を揺らす音さえも消えたように感じられた。
大きく目を見開いて固まる彼の動揺を知るよしもなく、ハルは自分の言葉に照れて笑っている。
「がるるッ……」
眠っていたはずのラッチにもハルの声が聞こえたのだろうか。目をつぶったまま歯ぎしりして文句を言っている。夢の中で嫉妬しているみたいに。
ハルは笑いながらも、眠気に誘われるがまま、またまぶたを閉じた。
「大丈夫、ラッチも大好きだよ……アナリアも、ソルもオルガも……みん、な……」
すうすうと寝息を立て始めたハルを見て、行き場のない感情を持て余した人物が一人。
「皆、ですか」
クロナギは残念そうにため息をついた。ハルの素直な言葉は時々彼をどきりと高揚させ、そして落胆させる。
そっと手を伸ばすと、クロナギは静かにハルの頬を撫でた。まるで貴重な宝石を扱うかのように、うやうやしく。
「自分の欲深さにぞっとします。……“みんな”と同じでは満足できないのです」
***
「今日から山越えかぁ……」
朝日を浴びながらハルが呟いた。寝起きのぼーっとした頭で、その大変さを想像する。
このジジリア王国から隣のラマーン王国へ行くには、国境に横たわるウラグル山脈を越えなければならないのだ。
クロナギの説明によると、一番高低差の少ない緩やかなルートを通って三日はかかるらしい。
これから先三日間は、野宿必至の山の中というわけ。
「自分の足で歩きたい」とは言ったものの、ハルは今、岩竜たちを先に帰してしまった事を少し後悔していた。
(一号と二号がいれば、ひとっ飛びだったんだけど)
ここまで来てうだうだ言っていても仕方がないのだが。
ハルは自分に気合いを入れるべく立ち上がった。髪の毛は寝癖であっちこっちに跳ねている。
「ちょっと体洗ってくる」
荷物をまとめていたクロナギたちに声をかけ、森の中にある泉へと向かう。野宿していた場所からはすぐ近くで、昨日も服や下着を洗いに来たため迷う事はない。大声を出せば聞こえる距離しか離れていないので、過保護なクロナギとアナリアも一人で行かせてくれた。
ラッチだけは当たり前のようについてきたが、彼に裸を見られたところで何でもないので、追い返しはしない。
泉まで来ると、辺りに人がいない事を確かめ、クロナギたちの方からこちらの姿が見えない事を確認して、ハルはいそいそと服を脱いだ。
生まれたままの姿になって、足からゆっくり水につかっていく。
「冷たっ!」
泉の水は澄んでおり、手で触るよりずっと冷たく感じた。あまり長く浸かっていると凍えそうだ。ラッチが隣で豪快に泉に突っ込み、水しぶきを上げる。
「ラッチ! 冷たいっ!」
二人ではしゃぎながら、ハルは濡れたついでにと髪と顔も洗った。そして「さむいさむい」と言いながら泉から上がろうとしたところで、体や髪を拭く布を忘れた事に気づく。
ハルは首を振って水滴を飛ばしているラッチに、クロナギたちのところへ戻って体を拭く布を借りてくるよう頼んだ。
「うー、さむい」
自分の体を抱きしめると、肌が温度を奪われて冷たくなっていた。唇は紫になっているかもしれない。
クロナギたちがまだたき火の炎を消していない事を祈りながらラッチを待っていると、ハルの背後から聞き慣れない女の子たちの声が聞こえてきた。
森の中をだんだんとこちらに近づいてくる。
「泉の方はもうほとんど採っちゃったわよ」
「え、そうだっけ?」
木々の間から現れたのは、地味な格好をした少女二人だ。ハルと同じか、少し年上といった感じ。
近くの村に住んでいるのだろう。垢抜けない、純朴そうな印象。
どちらの少女も手に籠を持っていて、中には茸らしきものが入っていた。彼女たちの方も裸のハルに気づいて、一瞬目を丸くする。
「あの、ど、どうも……」
ハルは頬を赤らめて、気まずげに言った。寒かったけれど、もう一度肩の上まで水に浸かって体を隠す。
村の少女たちはお互いに顔を見合わせた後で、気の強そうな一人が口を開いた。
「あんた、こんな所で一人っきりで何をしているの? 村の人間じゃないわよね?」
「うん、私は旅の途中で、ラマーン――」
――に、これから向かうつもり、とハルが言い終わらないうちに、少女は「ラマーン!?」と声を荒げた。
「肌は白いけど……まさかあんた、ラマーン人なの?」
彼女の言葉に、もう一人の少女が息をのむ。その顔には恐怖がありありと映っていた。
ハルは内心首を傾げた。どうやら自分はラマーンから来たと勘違いされているらしいが、けれどそれで彼女たちが恐怖を感じる理由が分からない。
ジジリアとラマーンの関係は、良いわけでもないが悪いわけでもなかったはずだ。
力関係ではジジリアの方が上だし、近年では戦争も起こっていない。
「私――」
疑問に思いながらハルが何か言おうとすると、発言する事を許さないかのように、気の強そうな少女が叫ぶ。
「さっさと自分の国に帰りなさいよ! あんたたちがこっちへ来たら、関係ない私たちまで巻き込まれるかもしれないじゃない!」
「そ、そうよ……早く帰って。ジジリアには来ないで!」
少女たちは側に落ちていた小枝を拾い上げ、泉の中のハルへ投げつけてきた。しかし両者の間に距離があったため、彼女たちの攻撃は届く事はなく、小枝はハルの近くの水面へと落ちるだけ。
「??」
ハルはただ困惑して、まばたきを繰り返した。
「あんたらを匿ってると思われたら……あたしらまで竜人に殺されるっ!」
最後はもう、ほとんど悲鳴のような声だった。ハルは『竜人』『殺される』という単語にひっかかりながら、今聞いた情報を整理しようをした。
が、目の前の少女たちがさっと顔色を変えた事に気づき、また意識をそちらに集中させる。
彼女たちはガクガクと膝を震わせ、持っていた籠を地面に落とした。せっかく採った茸が無惨に散らばる。
「あ、う……嘘でしょ……? ドラゴンに……竜人?」
少女たちの視線はハルの後方へと向けられていた。現れた人物は想像がつくが、ハルは振り向いて一応確認する。
布をくわえたラッチを先頭に、クロナギ、アナリア、オルガ、ソル。つまり全員がいた。
水に浸かっているとはいえ、ひとり全裸なハルは恥ずかしくなって、慌てて口元まで水に浸かる。
「ち、違うんです!」
少女が必死になって叫ぶ。恐怖に見開かれた目は、ラッチを含めた五人の間をせわしなく揺れ動く。
「あたしたちはラマーン人じゃないし、この子を匿ったりもしていません! 殺すなら、この子だけにして」
勝手に勘違いして勝手に怯えている少女たちに、クロナギが声をかけた。他人行儀だが、落ち着いた穏やかな声で。
「何を勘違いしているのか知らないが、この方はラマーン人ではないし、俺たちがお前たちに手を出す事もないから安心しろ」
少女たちの頭には、特に最後の「安心しろ」という言葉が印象深く残ったらしい。その言葉の優しさと、改めて気づいたクロナギの整った容姿に、分かりやすく頬を紅潮させる。恋に落ちるとまではいかないが、それに近い状態だ。
(さっきまで竜人を死ぬほど怖がってたはずじゃ……)
少女たちの心変わりにハルはちょっぴり呆れたが、
(でも、きっと彼女たちも実際に竜人と接したのは初めてだったんだろうな。トチェッカの人たちと同じ。知らないから、噂だけ聞いて怖がってた)
鼻まで水に浸かって、ぶくぶくと泡を出す。
けれど彼女たちはトチェッカの人々より、ずっと強い恐怖を竜人に感じていたようである。ここはトチェッカよりもずっとラマーンに近く、竜人の脅威にも近いからだろうか。
しかしその疑問は後で訊くとして――
「さ、さむい……」
ハルは泉の中で震え、それに気づいたクロナギがラッチから布を受け取って広げた。
「ハル様、早くお上がりください」
「や、やだ。恥ずかしい……」
「私がやるわ」
アナリアはクロナギから布を奪い取り、男三人に後ろを向くよう命令した。
「さぁ、ハル様」
「うん」
クロナギたちがこっちを見ていないのを確認しながら――オルガがからかうように笑っていたので不安だったが、クロナギが片手でがっちりと後頭部を抑えてくれたので急に振り向く事はできないだろう――ハルは素早く泉から上がった。
アナリアはその手に広げていた大きな布をハルの頭や体に巻き付け、すっぽりとその裸体を隠す。
「もういいわよ」
アナリアが合図をし、クロナギたちも体の向きを元に戻した。と同時にハルが「ぶえくしッ!」という男らしいくしゃみを放つ。
「その子……人間でしょ?」
体を冷やしてしまったハルを心配し、体をさするクロナギとアナリアを見て、村の少女は自分の目を疑ったようだった。
「何で人間が竜人と一緒にいるの? 何で人間が竜人に優しくされてるの? 何で――」
疑問が尽きない様子の少女を、アナリアが氷の視線でひと睨みして黙らせた。美人にしか出せない迫力に少女は圧倒されたようだ。
ハルとしても自分の事情――皇帝一族の血を継いでいるとか、混血だとかを、今出会ったばかりの少女たちに説明するつもりはなかったので、こちらから質問し返した。
「あなたたちはどうしてそんなに竜人を怖がるの? ドラニアスがラマーンと戦争をしたから?」
一年ほど前、ラマーンの国王がドラニアスの皇帝を殺害した。そしてそれがきっかけで、両国間で戦争が始まった事は、政治に疎い暮らしを送っていたハルでも知っている。
気の強そうな少女はハルの言葉に噛みついた。
「戦争? 違う。うちの村はラマーンに近いからよく戦況は聞こえてきたけど、あれは戦争じゃなかった。ドラニアスがラマーンの王族を一方的に処刑しただけよ。軍事力の差は圧倒的だから、そもそもラマーン軍は抵抗をしなかったと聞いたわ」
もう一人の少女も頷く。
「ラマーンは王族がいなくなって、もうボロボロよね。けど仕方ないよ。最初に仕掛けたのはラマーンだもの。ドラニアスの皇帝を殺して眠れる竜を起こすなんてとんでもない事してくれたって、爺ちゃんたちも言ってたし。竜人たちは恐ろしく強いけど、こちらから刺激しなければ自分たちの土地から出てくる事はなかったのにって」
「そうよ、悪いのはラマーンよ。あたしたちを含めて、ジジリアの国民は皆そう思ってる」
村の少女たちはちらちらとクロナギの方を見ながら言った。その言葉にはクロナギに気に入られたいという下心が透けて見えていたが、しかし嘘を言っているわけではなさそうだ。
実際、今までジジリア国民として生きてきたハルも、非があるのはラマーンだと思っていた。
自分たちの皇帝を殺されたのなら、竜人たちは怒って当たり前。ラマーンは報復されて当たり前だと。
「あの、じゃあ、あんた……あなたたちはどうしてここに? 噂は本当なの……なんですか? 竜人たちは生き残ったラマーンの王子を探してるって。王子はジジリアに逃げてきてるの?」
「それをお前たちに説明する必要はないのよ」
少女たちはクロナギを熱心に見つめて言ったのだが、彼はハルの濡れた髪を拭くので忙しく、答えたのはアナリアだった。
竜人に対する恐怖は消えたようだが、アナリアの事は別の意味で怖いようだ。少女たちは大人しく口をつぐむ。
「ハル様、あちらへ戻りましょう。まだ火は消していませんから」
クロナギが裸足のハルを抱き上げ、アナリアは地面に脱ぎ置かれていた服と靴を回収する。
あ、まだあの子たちと話したかったのに……と思ってクロナギを見上げるが、彼はその視線を感じていながら目を合わせてくれない。
ハルはきびすを返して歩き出したクロナギの肩越しに少女たちを見た。
向こうもまだこちらを見ている。
「あの! 村に戻ったら言っておいてね! 竜人はあんまり怖くなかったって!」
ハルが大きな声で呼びかけた。最初の少女たちの様子からして、彼女たちも、彼女たちが住む村の人々も、竜人に対して必要以上に恐怖を感じているのは明らかだった。
ラマーンから近い地域ゆえに、それは仕方のない事なのかもしれないが、これからもずっと「ラマーン人が逃げてくれば、それを追って竜人たちもやって来るのでは?」「自分たちも巻き込まれるのでは?」などと怯えて生活していくのは可哀想だ。
少女たちはハッとしてクロナギからハルに視線を戻し、
「う、うん……そうするわ。皆信じてくれるか分からないけど」
ぎくしゃくと頷いた。
ハルの正体が分からないため、どう接していいのか戸惑っている様子で。




