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トチェッカの街を旅立ったのは、翌朝早くの事だった。
それでも完全に空が明るくなってから出発したのだが、昨夜の宴会が大いに盛り上がったため、住民たちはまだぐっすりと眠っているようだ。大通りにはゴミが散らかっていたりしたものの、街はしんと静かだった。
まだ昨日の疲れは完全にとれていないし、街の人たちは親切だし、ハルとしては出発をもう少し遅らせてもよかったのだが、「あまり一所に長居しない方がいい」といクロナギの助言を聞き入れて、早めに旅立つ事に決めた。
また、今日の午前中にはこの地方を治める領主からの使者がやって来る――という話も、ハルたちの出発を早める原因の一つになった。
『魔賊を退治した英雄』としてもてなしてくれるつもりらしいが、そういうのは面倒だったし、クロナギもハルと人間の権力者を近づける事に難色を示したから。
という訳で、街の人たちにはろくに挨拶もできぬままの別れとなった。
この先はもうこれほど大きな街に寄る事はないらしいが、クロナギは昨晩の内にしっかりと必要物資を買い足していたらしく、旅の準備は万全。
ドラニアスの黒い軍服を着ていたアナリアたちも、今日は普通の旅装だ。
威圧感のある軍服と比べるといくらか周囲に馴染んだが、それでもアナリアの魅惑的なスタイルや、オルガたちの鍛え上げられた肉体、竜人らしい野性味を隠す事はできない。
一方何を着たって平凡な人間の少女にしか見えないハルは、後ろを振り向くと、朝の静寂の中で困ったように小さく叫んだ。
「だ、だからついて来ちゃダメだって!」
後ろにいたのは、巨体のドラゴン二頭。平和の森にいた岩竜たちである。
「一号と二号は目立ちすぎるんだよね」
岩竜を見上げてハルが言う。一号と二号というのは、ハルが考えた彼らの名前だ。
黄土色の方が一号で、緑色の方が二号。案外、本人(本竜)たちは気に入っているようである。
「ラッチみたいにリュックに入れて隠す事もできないし……」
旅のお供に巨大なドラゴンを連れて歩くなど無理だ。アナリア、オルガ、ソルという派手な三人が加わって、ただでさえ人目につきやすくなってしまったというのに。
グルグルと喉を鳴らして文句を垂れる岩竜たちを、ハルは何とかなだめようとした。
「そうだ、私たちこれからドラニアスに行くんだよ。だから一号と二号も一足先にドラニアスに戻りなよ。そしたらすぐにまた会えるから。ね?」
一号と二号はその体の大きさ通り、ラッチよりはずっと大人だった。頭もいいし、聞き分けもいい。顔をしかめていじけながらも、人間の国でハルの側にずっといるのは無理だと諦めたようだ。
首を伸ばし、硬い皮膚に覆われた頬をハルに擦り付けると、名残惜しげに鳴いてから二匹一緒に西へと飛び立つ。
「ドラニアスでね!」
ハルが上空を見上げて手を振ると、一号と二号も応えるように太い尾を振った。
「よかったのですか?」
小さくなっていく岩竜たちの姿を見送るハルに、クロナギが尋ねる。
ハルはその質問の意味を理解して頷いた。
クロナギは、あのドラゴンたちを利用しなくてよかったのかと訊きたいのだ。
一号と二号に乗っていけば、ドラニアスまではあっという間。大変な思いをして、地道に地上を歩いて行く必要などなくなるのだから。
けれど、ハルは歩きたかった。
体が弱く、あまり領主の屋敷から出歩かなかったフレアの影響もあり、物心ついた時からハルの世界はとても小さな範囲で展開されていた。
ハルは母の側にいる事に幸せを感じていたため、それを嫌だと思ったことはなかったが、今こうやって自分の住み慣れた世界を抜け出してみると、新しい環境と接するのはとても楽しい事だと気づいた。
見知らぬ土地で見知らぬ人々と言葉を交わし、その生活を知るのは、とても有意義な事だと。
本を読んで十の知識を身につけるより、実際に体験して一を知る事の方が、価値があるように思えたのだ。
ラッチを故郷に帰すためドラニアスに向かう。せっかくそう決意したのだ。自分の足で歩いて、自分の目で見て、色々な事を学びながらドラニアスへ行きたい。
クロナギにそう説明すると、彼もハルの気持ちを理解してくれた。
「ドラニアスに着いてからも、色んな所を見て回りたいけど……それは無理かな」
誰に言うでもなくハルが呟く。
『レオルザーク総長』なる人物は、自分を歓迎していない。皇帝の血を引きながらも、人間の血も引くハルの存在は、ドラニアスを混乱させると考えているのだ。
国内へ入る事すら拒否されているのに、うろつく事は尚更許さないだろう。
「ハル様の好きになされば良いのです。ドラニアスはハル様の故郷でもあるのですから」
とぼとぼと歩き出したハルの後ろから、クロナギが優しく声をかける。
オルガも余裕の笑みを浮かべて言った。
「なんなら俺が案内してやろうか? 北の雪山で山登りしようぜ。かなり過酷で楽しいぞ」
オルガで過酷と感じるならば、自分は間違いなく死ぬ事になるだろう。ハルは青い顔をしてぶんぶんと首を振った。アナリアが「馬鹿なこと提案しないで」とオルガを叱る。
ちなみにソルはといえば、さっきからずっと黙ったままだ。ソルが無言なのはいつもの事なのだが、今朝に限っては理由が違う。
二日酔いで気持ち悪いのである。
吐きそうな顔をしているソルを、ハルは心配そうに見つめた。体調を気遣ってではない。「ここで吐かれると、匂いで私もつられちゃいそうだな」と不安になってだ。昨晩はハルも甘い物を食べ過ぎたから。
いくら好物と言っても、消化能力には限度があるのだと学んだ。これもいい経験である。
気持ち悪そうなソルの表情を見ていると吐き気を催してくるので、ハルはそちらを見ないようにして顔を前に向けた。
気を取り直して、高らかに言う。
「さ、じゃあ行こっか。ドラニアスへ」
◆◆◆
ハルの生まれ育った国の名前は『ジジリア』。その西側には『ラマーン』があり、海を超えてさらに西へ行くと、島国『ドラニアス』がある。
トチェッカの街を出発し、まずはラマーンを目指す旅は、初日にハルとソルが道ばたで盛大に吐くという事件が起きたものの、あとは何事もなく順調に進んでいった。
なんせ竜人の中でもさらに戦闘に長けた心強い四人が一緒なのだ。
ハルとラッチだけならばこんな安全な旅にはならなかっただろうが、クロナギたちがいれば危険とは無縁。
しかしトチェッカ以降は小さな町や村があるばかりだったので、ハルは何度も野宿を経験した。
小規模な町ではハル以外の四人の容姿は目立ち過ぎ、住民たちにいらぬ不安を与える事になるからだ。
食料などを買うために立ち寄ったりする事はあっても、休息がてら町に何日か泊まるという事はしなかった。
そしてこの日もまた、森の中での野宿である。すぐ近くに村の灯りが見えるものの、訪ねていったところで泊めてくれる者はいないだろう。
見た目も中身も無害なハルはともかく、夜中にいきなりオルガのような男が「泊めてくれ」と家にやって来たら、誰だって躊躇する。
「ハル様、体調はどうですか? 慣れない野宿ばかりで、そろそろ疲れが溜まってきた頃なのでは?」
なるべく平坦な地面の上を選び、小枝や石を取り除き、人ひとりが寝られるほどの敷き布を広げる。
その作業をてきぱきと進めながら、クロナギがハルに訊いた。
ハルはそれを手伝おうと周りをうろちょろして結局邪魔になりながら、「平気だよ」と答える。
そしてクロナギに促されて、その少し厚めの敷き布の上に腰を下ろした。地面の固さも冷たさも、直接体に伝わってくる事はない。
確かに室内のベッドでぐっすり休めたらとも思うが、クロナギたちがいてくれるおかげで、野宿でもそこそこ快適に休む事ができているのだ。
この敷き布しかり、毛布しかり、枕しかり。ハルの小さな体だけでは持ち歩けない寝具を、クロナギやオルガが日中背負って運んでくれているから、外でも簡単な寝床を作る事ができる。
歩き通しでむくんでしまった足を休めようと、ハルが編み上げのブーツ脱ごうとした時だ。
目の前に膝をついたクロナギが当たり前のようにその紐を解いて、ハルの足から丁寧にブーツを脱がせていく。
照れて頬を赤らめたものの、抵抗したって受け入れてもらえないのは分かっているので、ハルは大人しくされるがままになっていた。
主人の靴を脱がすのも従者の仕事だ、と真面目なクロナギは考えているに違いない。
「どうぞ、ハル様。温かいうちに」
ブーツを脱いだハルが布の上に座り直すと、タイミングよく今度はアナリアが食事を手渡してくる。
たき火であぶってトロリととろけさせたチーズを挟んだパンに、肉と野菜のたっぷり入った具沢山スープ、デザートには果物もある。
「ありがとう」
受け取りながら礼を言うハルだが、スープはさっき自分で作ったものだ。
クロナギは簡単なものなら作れるらしいが、あとの三人は料理はからっきしだから。
オルガとソルは食材を焼いて塩をまぶすくらいはできるが、最悪なのはアナリアだった。下手よりひどい料理の腕で、彼女が手を加えた食材はもれなく殺人的な味のする何かに生まれ変わる。
ハルはそれに気づいてから二度とアナリアに料理はさせなかった。というか「どうかお願いだからやめて」と頼み込んだのだ。自分の命がかかっているから真剣である。
調理担当は自然とハルになっていた。
「うん、美味しくできた」
スープを一口飲んで、母の味には及ばないものの、まずまずの出来だと自画自賛していると、
「駄目だな、この辺りは。大型の肉食獣なんていやしねえ」
狩りに出かけていたオルガが、ソルとラッチと共に戻ってきた。――立派な角を生やした、大きな雄鹿を引きずりながら。
旅を続けるうちにこんな光景にすら慣れてきてしまったハルは、息絶えた鹿からそっと視線を外すと、急いで食事を続けた。
オルガたちがあの鹿をバラす前に食べきらなくては……! と思ったのだ。目の前で解体作業をされては食欲がなくなってしまう。
皆もハルの作った料理やパンを食べるのだが、それだけでは足りないらしく、毎回こうやって何かしらの獲物を獲ってくるのだ。
しかもその獲物が危険であればあるだけ、狩りは楽しくなるらしい。ハルにはいまいち分からない感覚だが。
荷物の中から大きなナイフを取り出したオルガは、鹿の首を落とす前にハルの方を見てにやりと笑うと、
「おっと、ここではやめておいた方がいいな。誰かさんがまた吐いて、泣き出しちまう」
と、意地悪く言った。
ハルはカッと顔を赤らめると、食事の手をとめて叫んだ。
「もういい加減忘れてよ!」
トチェッカの街を出た直後に二日酔いのソルが道端に嘔吐し、それにつられて前日甘い物を食べ過ぎていたハルも戻してしまったのだが、その時の事をオルガはずっとからかい続けてくるのだ。
しかも吐いただけでなく、ハルが泣いてしまったのも悪かった。
吐いた瞬間、クロナギやアナリアが心配して駆け寄ってきたので、
「汚いからこっち来なくていい。後始末は自分でするから向こうに行ってて……」
と青い顔で抵抗するも、クロナギたちはそれを聞かずに側を離れない。
思春期まっただ中のハルは、人前で吐いてしまった事と、自分の嘔吐物を他人に見られたことに強烈な羞恥心を感じ、恥ずかしさと吐いてしまったショックと気持ち悪さで「うう……」と涙をこぼしてしまったのだ。
しかもまだ胃の中に残留物があったので、泣きながらもう一度吐いた。
ちなみにこの間、ハルより酷い勢いで吐いていたソルの方は、誰に心配されるでもなく放置されていた。
いつも暇を持て余しているオルガにとってこの騒動はなかなか印象深い出来事だったらしく、ハルの思いとは裏腹に一生忘れてくれそうにない。
ハルがちょっとでも気分の悪そうな顔をしたなら、「吐くのか?」「泣くのか?」と頭をぐしゃぐしゃと撫でられながら、この先延々からかわれ続けるのである。
しかしそれはオルガの親愛の表現の一つなのだ。とても迷惑で、全然嬉しくない方法だが、彼なりの可愛がり方。
オルガは興味のない人間には、話しかけすらしないから。
「吐きながら泣くって、なかなか器用だよな」
「もうっ……!」
「オルガそろそろ止めておけ。無駄口ばかり叩くその口、二度と開かないようにしてやろうか?」
クロナギにきつく忠告されても、オルガはニッと笑うだけだ。しかしその楽天的で明るい表情はどこか憎めない。
「しょうがない。ハルから見えないところで捌いてくるか」と言いつつ、雄鹿を引きずって森の奥へと行ってしまう。腹をすかせたラッチが、待ちきれない様子でその後を追った。
「もう……」
ハルはもう一度呟いて、諦めたようにため息をついた。けれどその後で、ほんのりと笑顔になってしまう。
なんだかんだで、この賑やかな状況が楽しいのだ。




