21
ドラニアスには夏がない。
春の終わりや秋の始まりに『夏日』と呼ばれる暑い日が何日か続く事があるが、年によっては無い場合もある。
反対に冬は長く、寒さは厳しい。真冬には肌を刺すような空っ風が吹きすさび、中央地区では積雪はほとんどないが、北の方では大雪が降る事も珍しくない。極北の方は、やわな人間では生きていられない環境だ。
主人の厚意で、ただで泊まらせてもらえる事になった宿の一室。
簡素なその部屋の中でハルはベッドに座り、クロナギからドラニアスの話を聞いていた。
遠い昔、ドラニアスは五つの国に分かれていたが、それを初代の皇帝が統一して帝国を作ったという事。
“騎士”という名がついてはいるが、竜騎士というのはドラニアスや皇帝を守る“戦士”の事で、人間の国の騎士とは性質が少し違う事。
竜騎士は子どもたちの憧れの的である事。
ドラニアスは東西南北、そして中央で組織を分けていて、それぞれに竜騎士軍の分団がある事。
名前を、北の“黒”、南の“赤”、東の“青”、西の“白”、そして中央の“黄”と呼ぶ事。
皇帝の住む禁城は中央地区にあって、城の警備などは“黄”が受け持っている事。
色の名前のついた組織は、この他にはクロナギたちの所属する“紫”があるだけだが、“紫”は『団』より小さい『隊』に区分され、形式上は、“黄”の中の一組織とされている事。
けれど“紫”は特殊な隊でもあるので、独立して動く事が許されている事。
簡単な事からと言ったハルだったが、疑問に思った事を聞いていったら、段々と難しい話に発展してきてしまった。
部屋の中にはアナリアとオルガ、ラッチもいるが、ラッチは小さないびきをかいて眠ったまま。
ちなみにソルは酔いつぶれて、隣の部屋で熟睡している。
二つあるベッドの内、クロナギはハルが座っていない方に腰を下ろしていたが、ハルがあくびをすると、そっと近寄ってきて床に片膝をついた。
「もうお休みください。今日は疲れたでしょう。ドラニアスの話は明日でもできます」
やんわりと肩を押されてベッドに寝かされる。ハルもまぶたが重くなってきていたのだが、もう一つ知りたい事があったので、暖かい毛布の誘惑と戦った。
「じゃあ最後に一つ教えて。みんなが『総長』って呼ぶ人のこと」
ハルの質問に、クロナギは口をつぐんだ。しかし一瞬の沈黙の後、説明を始める。
「総長は、竜騎士軍の司令官――つまり最高責任者で、“黄”の団長でもあります。同じ人物がその二つを兼任するのが、古くからの慣習ですので」
「名前はなんていうの?」
「……レオルザーク・バティスタ。年齢は七十八。人間から見れば四十代くらいにしか見えないでしょうが」
部屋の扉のそばに立っているオルガと窓際にいるアナリアへ、ハルは順番に視線を向けた。
「オルガたちはその人から命令を受けてここに来たんでしょ? クロナギを国へ連れ帰る事と、私をドラニアスに入れない事だっけ? それ、実行するのやめたの?」
ハルが訊くと、オルガは腕を組んで壁に寄りかかったままで答えた。
「そうだな、気が変わった。クロナギだけ連れて国へ帰っても、またそこで退屈な毎日が始まるだけだろ。先代が死んでからどいつもこいつも死んだ魚みたいな目ぇして、喧嘩仕掛けても反応がいまいちだし、クソつまんなくなったんだよな。クロナギだって今お前から引き離したら、また辛気臭ぇ面晒すようになるんだぜ、きっと。だったら総長の命令は無視する」
オルガは堂々と命令違反を宣言した後、白い歯を見せてニッと笑った。
「それにお前をドラニアスへ連れて帰ったら、色々と面白い事になりそうだしな。混血の皇帝ってのもいいじゃねぇか」
「だから皇帝にはならないって……」
彼は基本的に人の話を聞いていない。
ハルがアナリアの方をちらっと見ると、目が合った途端に彼女は言い切った。
「私はこれからずっとハル様のお側にいる事に決めましたので」
そうですか、決めましたんですか……。
ハルは潔く諦めた。ハルの意思とは関係なく、それはアナリアの中で決定事項になってしまったらしい。
しかしつまりは二人とも――たぶんソルもだろうが――、もう敵ではないと思っていいのだろう。
少なくとも、ラッチを送り届けるため、父の故郷を見るためにドラニアスへ行きたいというハルの邪魔はしないでくれるようである。
「さぁ、ではもうお休みに」
クロナギは何としてでもハルを休ませたいらしい。毛布の上からそっと肩を撫でられて、ハルも大人しく目を閉じる。
アナリアがベッド脇のランプの炎を消し、オルガとクロナギに小声で「あなたたちは隣の部屋で寝て」と忠告している。クロナギは少し渋ったようだが、やがて扉の開く音がして、二人分の足音が去っていった。
(レオルザーク。私の事を殺そうとするかもしれない人)
会った事もないその人の顔を思い浮かべて、ハルは不安になるより、やるせなくなった。人から嫌われたり疎まれたりするのは、やっぱり悲しいから。
それでも今のハルにはクロナギたちがついている。そう思うと心から安心した。自分の事を受け入れてくれる竜人もいるのだと。
アナリアの細くひんやりした指で髪をすかれながら、ハルは静寂な眠りの中へ落ちていった。
さて、その様子を宿の外――通りを挟んで向かいにある武器屋の屋根の上からひっそりと監視していた人物が一人。
ヤマトという名の、竜人にしては地味な容姿の男だ。
しかし地味といっても陰気な雰囲気ではなく、何もかもが平均的。
身長は竜人の成人男子に比べれば低い方だが、人間からすれば普通くらい。顔つきもこれといった特徴のない印象に残らない顔をしているが、運動の得意そうな好青年風でもある。
髪は短く黒髪で、目の色も黒。けれどその色にクロナギのような艶やかさや落ち着いた色気はなく、単なる地味な黒といった感じ。
けれどヤマトは、この容姿を気に入っている。得する事も多いからだ。
一つは先代のエドモンドからやけに親近感を持たれて可愛がられた事。
そしてもう一つは、隠密活動がしやすいという事である。
存在感の薄さと派手すぎず地味すぎない外見を買われ、中央の“黄”にいた頃も、その後にエリート集団の“紫”に配属されてからも、密偵の仕事を任されるようになった。
エドモンドが生きていた頃は、彼直々の指令を受けて、人間の国へ偵察に行く事も多かったのだ。
特殊な“紫”の中でも、さらに特殊な役割を担っていた。
そのヤマトでも、レオルザークから受けた今回の任務は少々難易度が高かった。
勝手に国を出ていったクロナギを探して、その目的を探ってこいというのである。
彼はもしかしてフレアの元に向かったのでは? と予想をつけ、痕跡を残さないクロナギよりフレアの居所を探ったのは、結果的に正解だった。
フレアらしき人物が働いていたという地方領主の屋敷に着く前に、同じくそこへ向かおうとするクロナギを発見する事ができたのだから。
一度まかれてしまったが、クロナギの目的地は分かっていたので追跡を続けるのは難しくなかった。
クロナギがフレアとエドモンドの娘であるハルと出会い、領主の屋敷を出てからもずっと、ヤマトは彼らの動向を監視していたのである。
今回の任務の難易度が高いのは、その尾行対象がクロナギだという事につきる。
隠密活動に関しては誰にも負けない技術を身につけたつもりだったが、クロナギ相手ではちょっとでも気を抜くと居場所を勘づかれ、たまに遠くで目が合う事もある。一体どれだけ鋭いんだと思ってしまう。
クロナギは確実にこちらの尾行に気づいている訳だが、今のところ何の行動にも移していない。
もしクロナギが戦いを仕掛けてきたらヤマトは速攻で逃げるつもりなので(確実に負けるから)、あちらもそれを承知しているのだろう。
歳は違えど元々は同僚だ。お互いの事はよく知っている。
ヤマトは気配を消して姿をくらませるのが得意な事も、それをされるとクロナギでもなかなか追いかけるのが難しい事も分かっているから、ヤマトを放っておいているのだ。
(あとはアレだな、俺があの子に直接危害を加えるつもりがないっていうのも大きい。だから尾行を許されてる)
ヤマトは闇の中で目を凝らし、向かいの宿の二階、一番端の部屋の窓に視線を定めた。
ヤマトのいる屋根の方が少し高いので、ちょうど部屋のベッドで眠っているハルの姿を見下ろす事ができる。
不思議な子だと思う。
あの顔立ち、そしてドラゴンを従えていた事からも、彼女がエドモンドの娘である事は間違いない。
頼りなさそうに見えていざとなると相手を圧倒したり、気弱そうに見えて実は芯のある性格をしていたり、そういうところもエドモンドに似ていた。
直接話した事はないが、尾行しながら客観的にハルを観察していたヤマトは、ある程度彼女の人となりを掴んでいた。
(確かに彼女は魅力のある少女なのかもしれないが……)
しかしアナリアが寝返ったのは衝撃だった。あの気性の激しい美女が、憎んでいたはずのフレアの娘を受け入れるとは。
眠っているハルを愛おしそうに見つめるアナリアを、ヤマトは驚きを持って観察した。
(ま、反対にオルガさんとソルの行動に驚きはないけどな)
ヤマトは視線を少し横にずらした。ハルたちの隣の部屋からは僅かな蝋燭の灯りが漏れている。
ヤマトのいる位置から確認できるのは、ベッドにうつ伏せに寝たままピクリとも動かないソルと、そのベッドに腰を下ろして何か話しているオルガの姿だ。
おそらく向かい側にはクロナギがいて、オルガは彼と会話をしているのだろう。
唇の動きを読むに、これから先ドラニアスへ行くためのルートを確認しているらしい。
酔い潰れたソルも、クロナギと普通に会話をしているオルガも、総長からの命令などもうすっかり頭から消えてしまっているに違いない。
あの二人は基本的に自由だ。いつだって自分が楽しい方につく。
最初はクロナギと戦えるということでこの任務を引き受けたのだろうが、どうせ今は「総長と戦うのも楽しそうだな」とでも思っているのだろう。
ドラニアスから身軽に動けて、クロナギを倒せる可能性のある者。その二つの条件を満たせる人物は少ない。特に後者の難易度が高すぎるから。
そしてその数少ない人物がオルガとソルだ。
総長も消去法で浮かび上がった二人に仕事を任せたようだが、こういう結果になったからには、その人選はやはり失敗だったという事になる。
オルガもソルも、ついでに言えばアナリアも自己中心的過ぎるのだ。
上官の指示に忠実に、真面目に仕事をするタイプじゃない。後先考えず、自分の思った通りに行動するタイプ。
長いものには巻かれる主義のヤマトとは正反対の性格だ。
あの総長を裏切るなど、ヤマトには恐ろしくてとてもできそうにない。ある意味、あの三人を尊敬する。
(けど、俺の立場も考えてほしいよなぁ。オルガさんとソル、アナリアさん、三人揃って任務を放棄しました……なんて総長に報告しなきゃならない俺の立場も……)
ヤマトは深いため息をついた。
きっと自分の書いた報告書はドラニアスの禁城に着いた後、ただの紙くずになるのだ。
そこにいる総長が報告書を読めば、きっと怒ってビリビリに破り捨てるだろうから。




