20
「なぁ、聞いてるのか? うちの娘の話だよ」
ハルとアナリアの後を追うように席を立とうしたクロナギを、酔ったタッドが止めた。肩に手を回して絡んでくる。
「そりゃ、あの竜人の金髪美女と比べりゃ器量良しとは言えないが、家事は得意だぞ」
「そうですか」
適当に返事をしながら退席のタイミングを探るが、
「お、噂をすりゃ、当人が来なさった。おーい、エリザ! こっちだ!」
タッドの娘がちょうど店に入って来たらしく、彼は娘とクロナギを引き合わせようとした。
「お父さん! 明日も仕事なんだから、もうそろそろ……あ、その人って」
「おう! 我らが街の英雄だ。竜人の……クロ、クロ何とかっていう」
「英雄ではありませんが、クロナギです」
クロナギはうんざりしながらも、しかし無視をする訳にはいかなかったのでタッドの娘に挨拶をした。さっさとこの酔いどれ親父を連れて帰ってほしいと思いながら。
しかしエリザというらしいその娘はクロナギを見て頬を桃色に染めると、
「あの、隣座ってもいいですか? わー、竜人の方とお話しするの初めてです! 魔賊を倒して下さってありがとうございます! 私もあの場にいて、クロナギさんたちの事ずっと見てたんですよ。竜人の方って、やっぱりすごいですね! 強くて……それにとっても格好良いし、この街の男たちとは大違い!」
冗談ぽく言って笑った。明るい娘のようだが、しかし父親に似てよく喋る。しばらくは解放してもらえそうにないとクロナギは閉口した。
しかもエリザが話しかけた事によって、それまで遠巻きに様子を伺っていた街の娘たちが、これはチャンスとばかりに一気にこちらへ近寄ってきたのだ。
それまではアナリアに気後れして大人しくしていたのかもしれないが、いざ話してみると皆積極的だった。
「あの、私もあなたが戦われているのを見てました! ぜひお礼が言いたいと思っていて……」
「お礼なら私にさせてください。うちに来てくださいませんか? いいお酒があるんです」
「あ、抜け駆けずるい! じゃあ私のうちには泊まっていってください。もう夜遅いですし!」
「ちょっと、それは駄目でしょ!」
竜人に対して臆する事なく迫ってくる女性たちに、クロナギは内心驚愕した。ある意味度胸があるというか。竜人の女性と変わらないくらい積極的ではないか。
目の前で繰り広げられるバトルに、タッドもさすがに困惑している。
「お、おいおい、お前たち……」
そして人が集まっているのは、クロナギの周りだけではなかった。ふと向こうへ目をやれば、ハルの周囲にも人垣ができている。
『せっかくの機会だし、竜人と話してみたい』→『けど、何か近寄りがたいな。顔怖いし』→『あ、一人普通な感じの子がいるじゃん!』
というような感じで、皆ハルに喋りかけているようだ。
中にはハルと話すふりをして、隣のアナリアとの接触を伺っている男もいるが……氷の美女に話しかけるのは、なかなか勇気がいるらしい。未だ誰もアナリアとは会話を成立させていない。
ここにいる竜人の中で、いや、この世に存在する竜人の中で一番尊い血を持っているのはハルだというのに、人間にはそれが分からないのだろう。
本来ならば、気軽に話しかけることなど許されない存在なのに。
一方その“尊い”ハルは、三つ目のタルトを食べながらニコニコと笑って街の住民たちの相手をしている。「触らせてほしい」とでも言われたのだろうか、時折ラッチを抱いて差し出したりして。
ハルは今のところ楽しそうだが、彼女を皇帝の一族だと知らない住民たちの中には、悪気なく不敬な態度をとる者もいるかもしれない。そうなる前にハルに馴れ馴れしく接する一部の住民たちを牽制するため、クロナギもそちらへ行こうとしたのだが、
「待ってください!」
「もう少しお話ししたいわ」
周囲にいた女性たちによって、あえなく阻止された。腕を引っ張る手を乱暴に払う訳にもいかず、仕方なくその場に留まる。
タッドが「悪いな」と申し訳なさそうな顔をしているのが分かったが、娘たちを追い払ってくれる気はないようだ。
クロナギは諦めて、深いため息をついた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。
自分に話しかけてくる男たちと十分な距離を保とうとしないハルにやきもきして席を立ち、そしてその度女性たちに止められて、仕方なく座り直すという事をクロナギは何度となく繰り返していた。
同じ店内にいるというのに、この些細な距離がもどかしい。
もう十分に女性たちの相手はしたし退席したっていいだろう。クロナギがそう思った時だ。
ハルが満腹になって眠ってしまったラッチを椅子に横たえ、静かに席を立ったのが見えた。
周りにいる住民たちは内輪での話で盛り上がっているらしく、大きな笑い声を上げていて気づかない。
ハルの隣にいたはずのアナリアは、いつの間にかオルガたちの所へ移動していて――おそらく飲み過ぎだと注意しているのだろう。顔がとても険しい――、同じく気づいていない。
ハルは出入り口からそっと店を出た。
クロナギは急いで後を追う。「待って」という女性たちの声は、もう聞こえていなかった。
「ハル様……!」
少し焦ったクロナギだったが、ハルはちゃんと店の前にいた。大きな体を地面に横たえて眠っている岩竜の背の上で、膝を抱えてちょこんと座り、空を見上げている。
クロナギもつられて夜空を確認したが、今日は雲が出ているらしく、星はほとんど出ていない。
「どうかされましたか?」
ハルは元気がない様子で、藍色の夜空を見上げる瞳はどこか寂しそうだ。
まさか店で住民たちに何か嫌な事を言われたのでは? そう思ったクロナギがぐっと眉根を寄せた時、
「なんか……私なんにも知らないんだなぁって思って」
上を向いたまま、独り言のように小さな声でハルが言った。
「何も知らないとは?」
「……竜の国のこと」
クロナギの眉間のしわがさらに深くなった。
「人間たちに何か言われたのですか?」
冷え冷えとしたものに変化した口調に気づき、ハルは慌てて否定した。
「ち、違う違う。何も言われてないよ」
クロナギは怒りを収めると共に、ハルの視線が空からこちらに移った事に満足を覚えた。ハルの緑金の瞳は、夜の闇の中でも淡く輝いている。
ハルはしょんぼりと肩を落とした。
「ただ質問されただけ。ドラニアスはどういう国なのかって。それで私、何も答えられなくて……困って『ドラゴンと竜人がいる国だよ』って言ったら、『そんな事は俺たちだって知ってる』って言われて」
「ハル様はずっと人間の国で暮らしてこられたのですから、ドラニアスについて詳しくないのは当たり前です」
クロナギがはっきり言い切るが、ハルはゆるゆると首を振った。水を与えられていない花のように、しゅんと下を向く。
「でもクロナギと会ってからは、いくらでもドラニアスの事を聞く事ができた。なのに私は父さまと母さまの事ばかりで、それ以外の事は何も知ろうとしてなかったなって」
「ハル様……」
しかしそこで顔を上げると、ハルはクロナギに問うように、小さく首をかしげた。
「けど、今からでも遅くないよね。クロナギ、私にドラニアスの事教えてくれる?」
その瞳に力がこもる。
「政治の事とか、あまり難しい事は最初は理解できないかもしれない。だから初めは簡単な事から教えて。四季はこの国と同じように巡ってくるのかとか、どんな花が咲くのかとか、食べ物はどうかとか……甘いお菓子はあるのかとか」
ハルは肩をすくめ、ちょっと恥ずかしそうに最後の言葉を付け加えた。
残念ながらドラニアスには甘い菓子の類は少ない。けれどハルが食べたいと言えば、国中の料理人がその望みを叶えようと奮闘するだろう。
クロナギはその事もハルに伝えようと思い、笑った。
彼女がドラニアスを知ろうとしている事が、純粋に嬉しかった。




