17
「ハル様、とどめを刺してもよろしいですか?」
丁寧な口調で恐ろしい事を言ってきたのは、すでに意識のない魔賊に剣を向けているクロナギだ。
その漆黒の瞳には、魔賊に対する情けなど欠片も残ってはいない。むしろ報復を望んでいるように思えた。クロナギは、ハルが彼らに暴行を受けそうになった事にきっと気づいているのだ。
ハルだって魔賊に情けをかけるつもりなどないが、クロナギの申し出には首を振った。
「ううん、殺さないで自警団の人たちに引き渡そう。この街の人たちだって、魔賊にずっと酷い事をされてきたんだし」
「分かりました」
クロナギはハルの提案を受け入れたが、顔はだいぶ残念そうだった。恐る恐るといった様子でクロナギの方へ近づいていく自警団員たちに、魔賊を引き渡している。
魔術師から力を奪うのは、実は結構簡単だ。杖を奪ってしまえばいいのだ。念のため口を塞いで呪文を唱えられないようにすれば、さらに完璧。
自警団の人たちがうっかりしない限り、魔賊の男たちは一生檻の中で過ごす事になる。いや、彼らのやってきた事を考えれば、さらに重い罰を受ける事になるだろう。自らの命で罪を償うのだ。
「クロナギの奴、一人で全部やりやがったな」
不完全燃焼といった感じで、面白くなさそうにオルガが言った。ソルも何だか不満そうである。
「というか、クロナギ大丈夫なの?」
ハルはおずおずと彼に近づき、そっと傷の様子を確かめた。傷口から鮮血が滴り落ちている訳ではないし、血は少しずつ乾いてきているようだが、ハルの目には重傷に映った。
「もう動かない方がいいよ……!」
ハルの声が僅かに震える。
小さかった頃の、あの恐ろしい感覚が蘇ってきた。フレアは体が弱かったため、ハルはいつも『母の死』という恐怖と戦っていたのだ。
フレアが体調を崩して寝込むたび、「母さま、死なないで!」とわんわん泣いてベッドにすがりついた。
少し成長してからはさすがに弱っている病人の前で泣く事はしなくなったが、フレアの看病をしながら「どうか母さまが死にませんように」と本気で神様に祈っていた。
領主の屋敷にいた頃のハルの小さな世界では、フレアだけが全てだった。フレアがいなくなれば世界が終わってしまうものだと思っていた。
そしてその恐怖と言ったら……。
ハルは焦りながら早口で喋った。
「ここでじっとしてて! 急いでお医者さん呼んで来るから」
しかしクロナギは、駆け出そうとしたハルの腕を軽く掴んで制止する。
「医者は必要ありません。竜人にとってはこんな傷、何でもありませんから。すでに傷は塞がりかけています」
「でも……本当に、本当に平気なの? 嘘ついちゃだめだよ。クロナギが死んじゃったら私……」
瞳をじわりと潤ませて、ハルはクロナギの袖口をきゅっと握った。フレアと同じように、クロナギもすでにハルの中で大切な存在になっているのだ。
彼に死んでほしくない。
無理矢理にでも医者にみせようかと思ったハルだが、しかし見上げた先でクロナギがとても嬉しそうに破顔し、
「心配して下さっているのですか?」
と、とろけるような甘い声でそう言ったので、ちょっと考えた末に医者を呼ぶのは止めにした。
なんだか大丈夫そうだなと思って。
「クロナギ、近いわ」
と、その時。ハルの後ろから刺のある薔薇のような声がクロナギを牽制した。この高飛車で魅力的な声の持ち主は、アナリア以外に有り得ない。
振り返ったハルと目が合うと、彼女は優しくほほ笑んだ。
思わず変な汗をかくハル。
(本当に何だろう……この変化は)
逆に怖い。ハルを睨みつけていたアナリアはどこへ行ったのか。
「うわー、ドラゴンだ!」
「すごーい! おっきい!」
突然、無邪気な声が響き渡ったかと思うと、岩竜たちが子どもたちに囲まれていた。
「ぎゃう?」
ちょろちょろと動き回る小さな生物を、ドラゴンたちは興味深げに目で追っている。襲うような様子はないが、お願いだから甘噛みすらもしないでねとハルは願った。おそらく周りでそわそわしている保護者たちもそう思っているはず。
ハルは子どもたちがドラゴンの体によじ登って遊んでいる様子をしばらく見守っていたが、ある事を思い出して「あ!」と声を上げた。
「ラッチ!」
魔賊のアジトに急いで駆けつけ、拘束されていたラッチを解放した途端、彼はぎゃんぎゃんと鳴き出した。
しかし別に「怖かった」と泣いている訳でも、「助けにくるのが遅い」と文句をたれている訳でもないようだ。
彼は拘束を解かれると、いの一番にハルの匂いを嗅いで、
「ぎゃうぎゃう!」
ハルの浮気を責めた。
「だ、だってしょうがないじゃん。岩竜たちの方が大きくて戦力になるし……い、いやいや大丈夫だよ、ラッチもすぐに大きくなるから」
飛竜であるラッチは大人になっても岩竜ほど大きくはなれないのだが、ハルはそう言って慰めるしかなかった。
「ぎゃうー!」
「わきまえろ、ラッチ」
クロナギが冷静に言って、ハルからラッチを引きはがした。クロナギも、ついでに言えばアナリアも、そして何故かオルガとソルもこのアジトにやって来ていたのだ。
オルガは面白そうだから何となく、ソルは暇だし何となく、という感じで来たのだろうが、強そうな竜人たちをぞろぞろと引き連れて歩く形になったハルは落ち着かなかった。
「このドラゴンには調教が必要ですね」
アナリアに話しかけられたが、彼女の敬語に慣れていないハルは、うっかりそれを無視しそうになった。自分に話しかけられているとは思わなくて。
慌てて返事を返す。
「うーん、あんまり厳しいのは……」
聞けばドラニアスでは、竜人に飼われているドラゴンは皆ある程度の調教を受けているのだとか。
人間の国で言うところの馬のような扱いであるから、特に帝国竜騎士団で飼育しているドラゴンは、きっちりと騎手の命令を聞くように躾けられているらしい。
「ラッチは友達というか、弟というか……なんかそんな感じだし」
フレアが死んだ後も、ハルは決して独りぼっちではなかった。同じ領主の館で働いていた下女仲間たちは、母親を亡くしたハルが寂しくないようにと、よく話しかけてきてくれたから。
ハルは彼女たちのおかげで毎日気丈に過ごす事ができたが、しかし唯一の家族を亡くした喪失感は簡単には埋まらなかった。
――自分の事を心から慕ってくれるラッチに出会うまでは。
ラッチという守るべき存在ができた事で、ハルはいつまでも「母さま……」と泣いている訳にはいかなくなり、気づけばめそめそとフレアの事を考えている時間が減っていったのだ。
ぐいぐいと遠慮なくすり寄ってくるラッチが、ハルの喪失感なんて埋めてしまった。
そう説明すれば、クロナギとアナリアは複雑そうな表情でラッチの事を見直した。
オルガとソルは話に興味が無いらしく、日が傾いて薄暗くなってきたアジトの中を勝手に漁っていた。魔術に使う道具なのか、髑髏を見つけたオルガがそれをソルに投げつけて遊んでいる。
「もっと早くにハル様を見つけてさしあげるべきでした」
申し訳なさそうにアナリアが言い、クロナギは自分のセリフを奪われた、みたいな顔をして彼女を見る。
そしてハルは我が目を疑うように、アナリアをまじまじと見つめた。
「アナリア、さっきからどうしたの? 熱でもあるの?」
「何がでしょうか?」
「だっていきなり敬語だし、ハル様とか言うし。私アナリアに嫌われてたはずじゃ……」
ハルが困ったように眉を下げると、アナリアも同じように眉尻を下げた。
「無礼な態度をとった事は申し訳ありません。けれど私はハル様を憎んでいた訳ではなく、フレアを憎んでいたのです。ハル様の中に流れる血の半分を許せなかった」
辛そうに唇を噛んでそう言った直後、アナリアはぱっと表情を変えた。うっとりするような魅惑の笑みを浮かべる。
「けれど今は、そのフレアに対する憎しみも消えました。ですから、ハル様を憎む理由もない。皇帝一族の血を受け継ぎ、愛しいエドモンド様の娘であるあなたを、どうして嫌う事ができましょうか。あなたは我々竜人の頂点に立つお方なのです」
当然のように述べられた言葉に、ハルはたじろぐ。自分のような平凡な人間が、竜人の頂点にだなんて。
心底困った顔をしつつ、助けを求めてクロナギを見上げた。が、クロナギはアナリアの味方だった。
「フレア様を亡くされた後、ハル様は大きな喪失感を感じたとおっしゃいました。それはエドモンド様を失った我々の気持ちと似ています。そして我々のその喪失感を埋める事ができるのは、ハル様しかいないのです。アナリアの変化も自然な事」
「うー……」
ハルは冷や汗をかいた。クロナギ一人にかしずかれるのでさえ慣れないのに、さらにアナリアのような美女を従える事などできそうもない。自分はそんな器じゃないのだ。
「他にもっと、アナリアたちが仕えるにふさわしい人がいるんじゃないかな」
私にクロナギやアナリアはもったいない。
思わずそう呟けば、二人の視線が一気に冷えた。怒ったような口調でアナリアが言う。
「私たちは、自分が仕えるべき主人は自分で決めます」
「ご、ごめんなさい」
美人の怒り顔は怖い。おろおろと謝れば、クロナギがすかさずフォローに入った。
「アナリア、ハル様は今までずっと普通の人間として育ってこられたんだ。小さい頃から皇帝としての教育を受けてきた訳じゃない。いきなり自分たちの主だと言われても、戸惑うのは無理ないだろう。少しずつ自覚させていかないと」
「……そうね、私たちの手で次期皇帝を育てていくのも楽しそうだわ」
何やら不穏な会話が聞こえてきたので、ハルは一応念押ししておいた。
「私、皇帝にはならないからね」
クロナギはハルをなだめるように「承知しています」と頷いたが、アナリアは納得していないようだった。
「けれど、ドラニアスの皇帝になれるのはハル様しかいないのです」
アナリアの言葉に、それまで話に入ってこなかったオルガまでもが同意する。
「そうそう、諦めろよ」
曲芸師のように、髑髏を片手でポンポンと器用に放りながら続けた。
「陛下が死んで、ドラニアスの奴らは皆、皇帝の血は途絶えたと思ってる。けど国をまとめるためには、新たな皇帝をたてなきゃならねぇ」
「だから私が?」
ハルの声は不安でいっぱいだった。
「今、ドラニアス国内で新たな皇帝にと推されてるのは『総長』だけどな。ドラニアスの軍事の最高責任者だ」
「だったらその人でいいじゃん」
「俺もそう思ってたけどな。総長が一番適任だって」
オルガは髑髏を放るのをやめて、じっとこちらを見た。いつの間にかソルもハルへと視線を向けている。
「けど、やっぱ違うわ。あの人は強ぇし、頭もいいし、責任感もあるが……やっぱ違うんだよ。お前を見てそう思った。総長は俺らの上司であって、主じゃない。皇帝の血を引く者以外に、皇帝は務まらねぇんだ」
オルガに真面目に話をされて、ハルは何も言い返せなくなった。のしかかってくる重圧に潰されそう。
しかしオルガはニカッと笑って、重い空気を吹き飛ばした。
「まぁ心配すんなって。プレッシャーを感じる必要はねぇよ。お前が最初っから完璧な皇帝になれるとは誰も思ってねぇから」
軽い口調に、ハルも息をつく。
「『お前』とか言わないで」
「ハル様とお呼びしろ」
アナリアとクロナギがオルガを睨んでいるが、オルガにまで「ハル様」とか呼ばれたら、居心地が悪くてたまらない。
「まだ正式に皇帝になった訳じゃねぇし、固い事言うなよ」
「駄目だ」
言い合いを続けるオルガたちから逃げるように離れたハルは、魔道具や魔石の散らばるアジトの中をふと見回して、ある事を思いついた。
魔術書がぎっしり詰まった本棚へと近づき、その一つを手に取る。
「私にも魔術、使えるかなぁ」
 




