16
「ハル様」
アナリアにそう呼ばれて、ハルは己の耳を疑った。
クロナギならともかく、自分を憎んでいるはずのアナリアからそう呼ばれるなんて有り得ない。
(きっと聞き間違いだ)
一人で頷き、そう結論づける。
ハルは知る由もなかったのだ。アナリアが今この瞬間、フレアへの憎しみを捨てて大きく変わった事など。
けれどアナリアが鞭を手放しているのを見て、彼女にはもう戦闘の意思はない、という事だけは気づいた。なんだかよく分からないが、彼女の雰囲気が少し丸くなっている事にも。
(でも一応、作戦は成功したってことかな)
ハルの作戦は、ドラゴンで魔賊たちを威嚇している間に、自分がアナリアとオルガ、ソルを説得するというものだった。
竜人三人さえどうにかできれば、魔賊の男たちはクロナギ一人でも倒してくれそうだと思ったからだ。
実際、オルガとソルが来るまでは、魔賊相手に優勢を保っていた。
今、アナリア、オルガ、ソルの三人は、ハルの望み通りにクロナギへの攻撃をやめてくれている。
自分は戦闘では力になれないし、怪我を負ったクロナギをさらに戦わせるのは辛いけれど、今のうちに魔賊たちを倒してしまうのが得策に思えた。
「二人もクロナギを手伝ってくれる?」
自分の乗っている黄土色のドラゴンと、その隣に降り立った緑色のドラゴンに声をかけた。二匹はハルの言葉を理解したかのように小さく吠える。
ハルは「ありがとう」と言ってから、膝をついたままのクロナギへと視線を向けた。
血に濡れた彼の姿を見るのは胸が痛いし、本当はもう、怪我を癒すために休ませてあげたかった。
けれど、それではこちらに喧嘩を売ってきた魔賊に対して示しがつかない。
一度関わった以上、自分たちの手でこの件を終わらせないといけないと思った。ここで魔賊を逃がすつもりはない。
それにクロナギも、きっと今は休息など求めてはいないはず。
その証拠に、こちらを見つめてくる彼は、ハルからの命令を従順に待っていた。――魔賊を倒せという命令を。
ハルはその意を汲み取ると、主人らしい威厳を精一杯持ってクロナギを見下ろした。
「それじゃあクロナギ、彼らに竜人の強さを改めて見せつけてあげて。もう悪い事なんてできなくなるように」
ハルの言葉にクロナギは笑う。唇の端をかすかに上げて、自信たっぷりに。
「仰せの通りに、我が君」
しかしそう言ってクロナギが立ち上がり、ドラゴンたちがやる気に満ちた唸り声を上げた時だった。
「竜人の強さだと? いいだろう、思う存分俺たちに見せつけてくれよ」
魔賊の一人、紫の髪をした細い男が馬鹿にするように言い放ったかと思うと、別の魔賊の男が杖の先を通りの端へと向けた。
そこには戦いを不安そうに見守っていたまだ若い妊婦の住民が一人いて、魔賊の術は彼女へと一直線に向かっていったのだ。
ずっと魔賊が小声で長い呪文の詠唱を続け、反撃の隙を狙っていた事にハルは気づけていなかった。
「きゃあ!」
女性の体は、一瞬まばゆい光に覆われた。
しかし次の瞬間には光は消え、彼女の瞳はどんよりと虚ろになる。
「こっちへ来い」
紫の髪の男がそう命令すると、お腹の大きな妊婦は、素直にそれに従った。
「おい、どうしたんだ!? 行くな、危ない!」
彼女の夫らしき男が止めようと手を伸ばすが、妊婦はその手を振り払って魔賊たちの側までやってきた。
紫の髪の男が冷酷な笑みを浮かべ、小型のナイフを彼女に手渡す。そうしてハルやクロナギ、街の住民たち皆に聞こえるように声を張ってこう言った。
「いいか、よく聞け。まずは街の自警団の奴ら! お前たちはあの竜人を一人残らず拘束するんだ。そして竜人ども! お前らは一切抵抗せずにそれを受け入れろ。お前たちの誰か一人でもこの命令に逆らってみろ。この女と……腹のガキの命はないぞ」
妊婦の女性が、自分の大きな腹にゆっくりとナイフを当てる。普通の精神状態の人がそんな事をするはずはないから、彼女は先ほどの術を受けた事によって、魔賊の言いなりとなってしまっているのだ。
妊婦の女性は、奴隷のように魔賊の望み通りの行動をとる。
自らの腹にナイフを突き刺し、まだ生まれてもいない子どもを殺す事にすら抵抗を抱かないはず。
「やめてくれっ! 妻を、子どもを助けてくれ! やっと授かった命なんだッ……!」
「それは俺たち言われても困るな。自警団の奴らと、竜人どもに言ってもらわねぇと」
心底楽しそうに言い返す魔賊の男。
「さぁ、どうするんだ? 従わねぇのか?」
「頼む、団長さん! 言う通りにしてくれ! 妻を助けてくれ!」
夫らしき男性は、近くにいた中年の男にすがりついた。先ほどハルの拘束を解いてくれたタッドだ。
タッドは男性に「大丈夫だ」と声をかけると、苦い顔をして部下に指示を出した。
「竜人たちを捕えるんだ」
自警団員たちは縄を手に持ち、緊張した面持ちでそろりそろりとこちらへ近づいてきた。その表情には僅かな恐怖が滲み出ている。
彼らだって竜人と相対するのは嫌なのだ。だけど今は魔賊に従うしかない。人質となった二人の命を守るために。
ハルは急いで頭を回転させた。無い知恵を絞って、事態を好転させるような妙案はと考えるが、悲しいほど何も浮かんでこない。
ハルたちがいる位置と、魔術師や人質の女性がいる位置は距離がある。クロナギの足がいくら速いと言っても、彼がここから走っていってナイフを落とすのと、妊婦がすでに自分の腹に当てているナイフを腹に突き立てるのとでは、おそらく後者の方が早い。
自分の体にナイフを刺す事に何の迷いも恐怖も感じていない今の彼女なら尚更だ。
何とか両者の間の距離を詰められれば……。そうハルは考えていた。そうすれば、一瞬の隙をついてクロナギは動いてくれる。
けれど近づいてくるのは人質の女性ではなく、自警団の人たちだった。こちらの様子を伺うようにして着実に距離を詰めてきている。
しかし彼らに手を出す事も、またできないのだ。彼らは悪者ではないし、ハルたちが抵抗をみせれば人質の命もない。
きっと魔賊の奴らは、自警団員たちが手にしているような荒縄ひとつで、竜人を完璧に拘束できるとは考えていないだろう。縄で簡単にしばった後、魔術で何か仕掛けてくるつもりだとハルは予想した。
それはもしかしたら、あの妊婦の女性にかけたような術かもしれない。
クロナギやオルガたちが虚ろな目をして魔賊の手下になっている光景を想像し、ハルは身を震わせた。
魔賊がこれ以上戦力を上げる事に恐怖を覚えてというより、クロナギやオルガ、ソル、アナリアが自らの意思を奪われる事に怒りを感じてだ。
何故だろうか。自分はクロナギたちの意思の自由を守らなければならないのだと、ハルは強く思った。それが自分の義務だと。
「腹の立つ奴らだな」
殺気に満ちた低い声。
その声のした方へハルは顔を向けた。
好戦的な目をしたオルガが、獲物を狙うような視線をじっと魔賊に注いでいる。それに気づき、急いでドラゴンの背から滑り降りる。
威圧感たっぷりに、オルガが一歩足を進めた。
自警団員たちが顔を引きつらせ、魔賊が片眉をはね上げる。
妊婦の女性がナイフに力を込め、その切っ先が彼女の服にめり込んだ。
「やめてくれぇッ!」
夫らしき男性が悲痛な声を上げるが、オルガはそれを聞かずに地面を蹴った。
――と同時に、ハルがオルガの前に立ちはだかる。
「ぐふっ……!」
が、オルガの巨体に簡単に吹っ飛ばされ、ごろごろと地面を転がった。
しかしハルをひいたオルガが「あ?」と声をこぼして足を止めた事で、人質の女性もナイフを自らの体の奥に進めるのを止めた。服の下の皮膚には刃は到達していなかったらしく、血は出ていない。
だが、あとほんの少しでも力を込めれば、ナイフの切っ先は腹を突き破るだろう。
「ハル様」
クロナギが慌てたようにハルを助け起こした。「いてて」と後頭部を押さえながら、ハルはオルガを見やる。
「だめだよ、オルガ。動いちゃだめ」
「なら、このままあの野郎どもの言いなりになれってか?」
オルガは言われた通りに動きを止めつつも、反抗を諦めてはいないようだった。
「だけど、あのお母さんとお腹の赤ちゃんを見捨てる事はできない」
「大丈夫だって。ナイフが中の胎児を貫く前に取り上げてやるよ」
「それじゃ遅いよ、もっと前に取り上げなきゃだめなの。お腹に刺さる前!」
「そりゃ無理だな。この際母親の方の命は諦めようぜ」
向こうで人質の女性の夫が顔面蒼白になっている。
ハルはブンブンと首を横に振った。
「だめだめ! 絶対だめ」
「けど、それが最善だろ。犠牲は一人で済むんだ。けど、このままあの魔術師どもの言いなりになってたら、被害はもっと増えるぞ」
それはオルガの言う通りだった。ハルはきゅっと唇を噛む。
この事態を打開するために、どうしたらいい? ハルに使えるものは、ハル自身の体と命、そしてドラゴン二匹とクロナギの戦闘力だ。それでどうやってこの状況を――
「ハル様」
アナリアにそう声をかけられ、ハルは思考を中断した。アナリアの視線は真っ直ぐにこちらに向いていたが、一応ハルは後ろを振り返ってみる。
自分の後ろに、アナリアが敬称をつけて呼ぶ、自分とは別のハルなる人物がいるのではないかと思って。
しかし背後には誰もいない。
とするとやはり、アナリアは自分を呼んでいるのだろうか。先ほどのも聞き間違いではなかった?
混乱するハルを置いてけぼりにして、アナリアは尋ねた。
「ハル様、あなたの望みは?」
「望み?」
ハルはそう聞き返した後で、一度妊婦の女性の方へ視線を向けた。今は無表情だが、術が解ければきっと優しげに笑うのだろう。子ども慈しむ母親らしい、柔らかな笑みを。
一瞬、ハルの頭にフレアの姿がよぎり、人質の女性と重なった。
ハルは視線をアナリアに戻して言う。
「今の私の望みは、人質二人の命を守りながら、あの魔賊たちをこてんぱんにやっつける事」
「……それでは、その通りに」
ハルがふと気づくと、アナリアは落としたはずの鞭を右手で握っていた。そしてその右手を素早く、かつ指揮者のように優雅な動きで振り抜くと、隣でクロナギが疾風のように駆け出した。
「だめっ!」
魔賊の方へ向かって走り出したクロナギに、ハルは思わず声を上げた。
クロナギが彼らの元へと到達する前に、人質の女性は自分の子どもを殺してしまう!
目を見開いて彼女の方を確認すると、やはり女性は、自らの腹に強く両手を押し付けていた。
しかしそこには……
「……あ、れ?」
ハルはぽかんと口を開けた。
人質の女性の手から、ナイフがなくなっている。彼女は何も握っていない両手を腹に押し当てていたのだ。
今になって、本人もやっとその事に気づいたらしい。ぼんやりした目で、不思議そうに自分の手を眺めている。
「どういう事?」
ハルが首を傾げている間に、クロナギが魔賊を一掃していた。耳に届く彼らの悲鳴は、しかしハルの良心を痛ませる事はない。
ハルは「もしかして……」とアナリアの方へ顔を向けた。金髪の美女が、そこでにっこりと笑っている。得意げに。
「アナリアが? その鞭で?」
ハルはアナリアの持つ鞭へと視線を落とした。握り手は細い棒状で、その先には黒い革紐が続いている。ハルが知っている一般的な鞭よりもずっとずっと長く、扱うのが難しそうだった。
しかしアナリアは先ほど、ほんの一回腕を振っただけでその鞭を正確に操り、人質の女性の持っていたナイフを落としたのだ。ハルの目には、鞭の軌道など全く見えなかったけれど。
女性の握り方からしてナイフだけを狙うのは無理だったようで、よく見れば女性の左手には赤いミミズ腫れが浮かび上がってきていた。
正気に戻れば痛みを感じるだろうし、しばらくは左手が使えなくなるかもしれない。
けれど、自らの手で自分の腹を刺すよりは……大事な赤ん坊を殺すよりはマシなはずだ。
クロナギの手によって魔賊は全員再起不能にされており、人質の女性はまだ我に返っていないようだが、
「セリーナ!」
と涙を流して駆け寄ってきた夫に大人しく抱きすくめられている。
一瞬の沈黙の後、周囲の住民たちからドッと歓声が沸き起こる。
「やったー!」
「すごいぞ、竜人たち!」
「魔賊が倒された……もう俺たちは解放されるんだ!」
興奮の渦の中、アナリアはハルに向かって目が覚めるような美しい笑みを浮かべた。
「全てはあなたの望みのままに、小さな我が君」




