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ドラニアスの国民にとって皇帝は無類の存在だ。
しかしアナリアは、他の者よりさらに特別な想いをエドモンドに抱いていた。
ドラニアスの上級貴族の生まれであるアナリアは、父や母について小さな頃から皇帝の住む禁城に出入りし、エドモンドともよく顔を合わせていた。そして会うたび、思慕を募らせていったのだ。
かの人と間近で接し、視線を交えて言葉をかわしていながら、その魅力に抗える者などいるはずがない。エドモンドは優しくユーモアがあり、寛容だ。彼は大きくて暖かな太陽に似ていた。
アナリアは皇帝の妃候補として両親に育てられていたため、幼い時から、どうしてもエドモンドを異性として意識せずにはいられなかった。
皇帝の妻になるなど、一般の帝国民にとっては夢のまた夢だが、家柄も良く、美しく、戦闘の才能もあったアナリアには、それは十分有り得る未来のひとつだったのだ。
二人の年の差は十以上あったが、寿命の長い竜人にとっては大した差ではない。
十三歳の時に竜騎士団に入った後も、臣下が主に持つ以上の感情を、アナリアはエドモンドに募らせていた。
しかし年を経るごとに膨らむばかりのその想いは、フレアの出現によって簡単に打ち砕かれる事になる。
『君は自分を過小評価している。君ほど美しい女性を、ぼくは他に知らない』
エドモンドがフレアにそう言ってほほ笑みかけている場面を目撃した時、アナリアの心は激しい嫉妬に支配された。
小さい頃から両親に蝶よ花よと育てられたアナリアだ。美しい容姿は誰の心も奪ったし、同性の友達からは羨望の眼差しを向けられるのが常だった。
まだ十三歳ながら、アナリアの美貌は完成されていた。自分でも、自分がこの世で一番美しいと思っていたのだ。
だが、エドモンドがフレアを選んだ事で、その自信は打ち砕かれた。エドモンドはアナリアよりフレアの方を美しいと思っている。それが事実だった。
胸の奥で炎が狂ったように燃えて、心臓が焼き尽くされるような感覚がした。
初めて経験する嫉妬という感情は、アナリアにとってそれほど激しいものだった。
自分より恵まれている者に抱くねたみを嫉妬と言うなら、彼女は今までそんな感情を持ったことがない。特に容姿に関しては、自分より優れた者など見た事がないから。それはフレアに対してもそうだった。自分とは違う柔らかな美しさを持っているのは認めるが、それでも彼女が自分以上だとは思っていなかった。
それなのに。
それなのに……。
エドモンドに選ばれたフレアの事を考えると、嫉妬で心が真っ黒に濁っていくような気さえした。
そしてそのような気持ちの時にふと鏡を見ると、眉間にしわを寄せて目を吊り上げた、醜い表情をした自分が映っているのだ。
それはアナリアにとってとても衝撃的な事だった。自分の顔を醜いと感じるなんて。
けれど嫉妬を止める事もできない。
エドモンドのいない所でフレアと対峙し、口汚く罵った事もあった。けれどそれに対して彼女は、心底困ったような悲しそうな顔をするばかりで、言い返してくる事もない。フレアはその時十八歳で、年下のアナリアに大人げなくやり返す事はできなかったのかもしれないが。
それでもフレアがそうやって落ち着いた対応をする事で、アナリアはさらに惨めな気持ちになっていった。
醜く嫉妬して、一方的にフレアを罵って……。そんな自分が嫌だった。
私はもっと気高く、美しく、完璧だったはず。そう思ってしまう。
でも駄目なのだ。そう思っていたって嫉妬を理性で抑える事はできない。心と頭は別だから。エドモンドとフレアが一緒にいる所を見ると、また淀んだ感情が心を覆う。
そしてその嫉妬心は、フレアが指輪を持ったままドラニアスから去った後、憎しみへと変化した。
エドモンドは臣下たちに心配をかけさせまいと平気な顔をしているが、ずっと彼だけを見つめてきたアナリアの目には、酷く傷ついているように見えたから。
エドモンドを傷つけたフレアが憎い。
彼に選ばれておきながら、あっさりとその寵愛を手放したフレアが憎い。
側を離れて尚、エドモンドの心を離さないフレアが憎い。
フレアがドラニアスを去ってからエドモンドが亡くなるまでの約十五年の間に、アナリアは準騎士から正式な竜騎士へと成長し、体も大人の女性へと変貌を遂げた。
強さと美しさにさらに磨きがかかり、女性らしい魅力も備わった。
しかしそれでも、エドモンドがアナリアを異性として意識する事はなかったのだ。
『アナリアは今日も綺麗だなぁ』
エドモンドはよくアナリアの容姿を褒めてくれた。褒めてくれたけれど、それだけだ。他の男たちのようにアナリアを自分のものにしようとはしてくれない。
(結局、私よりもフレアの方が綺麗だと思っているのでしょう?)
フレアがドラニアスを去ってからもう随分経つというのに、未だにアナリアは彼女を意識せずにはいられなかった。
それはたぶん、エドモンドがフレアの事をまだ想っているからだ。
彼がフレアを忘れない限り、アナリアも彼女に嫉妬し続ける。
もう疲れた。
一体、何度そう思ったことだろう。他人を憎しみ続けるのには、恐ろしくエネルギーがいるのだ。
この十数年、アナリアはずっとフレアを妬み続け、そして同時に、そんな自分の醜さを思い知らされ続けている。
アナリアは疲れ果てていた。
だけどやはり、未だ嫉妬と憎しみは消えない。
消えてくれないのだ。
エドモンドとフレアはもうこの世にはいないというのに、自分だけが取り残されている。そんな感覚。
◆◆◆
「ちょっと」
アナリアはその美しい眉をしかめて、自分のすぐ目の前に着地した男に文句を言った。
「私がいるのが見えないの? 危ないでしょ。もう少しであなたのその金属のついた物騒な腕が私に当たるところだった」
「おー、アナリア。いたのか」
怒るアナリアに怯む事なく、目の前の男――オルガは屈託なく笑った。竜人の中でも恵まれた体格をしていて見た目は厳ついというのに、この男はどこか子どもっぽく憎めない面がある。アナリアはそう思っていた。
ガサツで乱暴なところは嫌いだが、オルガの持つ明るい部分には少し惹かれる。
自分もクロナギもソルも、どちらかというと陰の性質を持っている人間だ。例えるならば、太陽よりも月に近い。
対して、オルガは自分から光を放つタイプ。彼の側にいれば、その光の暖かさを分け与えてもらう事ができる。そういう所はエドモンドにも似ていた。
もっとも、二人が放つ光には大きな差があるが。
穏やかに全てを包み込むような秋の太陽。エドモンドをそう例えるならば、オルガは強烈な夏の太陽のようだから近づきすぎると暑苦しい。
しかし彼らは自分が誰かに光と暖かさを分け与えているなんて、全く気づいていないのだろう。『陽』の人間とは、大抵そうだ。アナリアにはできない事を簡単にやってのける。だから惹かれるのだ。
「それ、クロナギに?」
アナリアは、血に濡れたオルガの太ももに目をやった。クロナギの剣で斬られたのだろう。
「おう」
オルガは低く笑う。笑顔の熊を見ているようだ。幼い子どもが見れば泣くかもしれない。
竜人は強者と戦う事に喜びを感じる者が多いが、オルガとソルは特にその傾向が強い。クロナギと思いきり戦えて、楽しくて仕方がないのだろう。
視界の端で再びクロナギに突っ込んでいくソルの姿を確認し、
(まるで兄に構って欲しがっている反抗期の弟みたいだわ)
と、アナリアは思った。これを言うとソルは気分を害するだろうが。
「よし、俺ももっかい行くか!」
そう言って、オルガもクロナギの方へ走り去っていく。
オルガがクロナギに攻撃を仕掛ける様子は、不良な兄が出来のいい弟にちょっかいをかけているようにも見える。
(御愁傷様)
面倒くさい奴らから気に入られているクロナギに、アナリアは少しだけ同情した。おまけに今は、変な人間の魔術師たちにも目をつけられているようだし。
アナリアはちらりと斜め後ろを見た。
少し離れたところに、魔術師の男たちが数人で固まっている。九人はすでにクロナギにやられたらしく、アナリアが来た時には地に伏せていた。そして残りの九人は、何やら呪文を唱えては、遠くからクロナギに攻撃を放っている。
アナリアは冷めた瞳で魔術師たちを見やる。体つきはひょろりと痩せているか脂肪でぽっちゃりしているかのどちらかで、男としての魅力は全くない。
すぐに興味を失って、アナリアは視線を前に戻した。
しかしある事を思い出して、もう一度後ろを振り返る。今度は魔術師たちよりもっと後ろ、通りの脇にいる野次馬たちよりさらに奥へと視線を定めた。
さきほどまで“あの子”がいたはずの路地の暗がりには、今は人影はない。地面にあの子を拘束していた布が落ちているだけ。
確認のために周囲を探ってみたが、目的の人物の姿はなかった。
拘束を解いて、どこかへ逃げたのだろうか。
視線を再度前に戻せば、クロナギもまたあの子を探しているようだった。休む暇を与えてくれないオルガやソルの相手をし、その合間合間に放たれる魔術師たちからの攻撃をかわしつつ、目だけをせわしなく動かして少女の行方を追っている。
アナリアはクロナギの事を昔からよく知っている。年が近く、家同士の繋がりもあったから。
直接言われた事はないが、アナリアの両親はアナリアがエドモンドに見初められなかった場合、クロナギと一緒になってくれればと思っていたようだ。
もっとも、アナリアもクロナギもお互いに相手をそんな風に意識した事はないので、その話がまとまる事は永遠にないだろうが。
アナリアとクロナギは幼なじみだし、お互い若くして竜騎士団の『紫』に配属されたという共通点もある。――紫とは、皇帝の身辺警護を専門とする少数精鋭の護衛隊の事で、別名『近衛隊』とも呼ばれている国民憧れのエリート部隊だ。
けれど、特別仲が良いという訳でもない。エドモンドが生きていた頃は毎日のように禁城で顔を合わせていたのだが、話す事は仕事についての報告や連絡くらい。
良い意味で、側にいても違和感のない空気のような存在だった。
そんな風に普段はあまりクロナギの事を意識しないアナリアだが、しかし今まで何度か、彼の事を羨ましいと感じた事はある。
エドモンドがフレアを選んだ時、クロナギはアナリアのように醜い嫉妬はしなかった。彼だって――アナリアの恋心とはまた違う意味でだが――エドモンドを慕っていたはずなのに、その唯一無二の存在を人間の女に奪われても、穏やかに笑っているだけだったのだ。
クロナギはすんなりとフレアを受け入れていた。
そしてきっとそれは、クロナギが男だったからだとアナリアは思っている。
エドモンドと同性だから、アナリアのように醜い嫉妬などしないのだ。エドモンドを想う気持ちの中に、恋などという余分な感情は含まれていないから。
アナリアは、それがとても羨ましかった。
クロナギのエドモンドへの想いは、とても単純で純粋なように見えたのだ。
色恋が混ざってくるから、ややこしくなる。
フレアに嫉妬し、どす黒い感情を抱えたまま、それを上手く消す事もできずに、毎日毎日疲弊しながら生きている自分。
(嫉妬なんてしたくない。クロナギのように、もっと綺麗な感情でエドモンド様を想いたいのに)
自分も男であればよかった。
そうすればきっと上手くいったはず。
余計な感情にとらわれず、もっと楽に、もっと素直にエドモンドを愛せた。
(だけど、何もかもがもう手遅れ)
アナリアが男になる事は不可能だし、それにエドモンドはもう死んでしまっている。アナリアの力ではこの状況を変える事などできないのだ。
これからもエドモンドも想っては、嫉妬に苦しめられながら生きていくしかない。
きりきりと痛む胸を、そっと片手で覆った。




