12
ハルの中で弾けて消えたものは、きっと恐怖だ。
自分を組み敷くこの男は最低な人物だと改めて思ったら、何故だか乱暴される事に恐怖を感じなくなった。だってこんな事、ハルにとっては何でもないことだから。
相手は最低の人でなし。そんな奴に何をされたって痛くも痒くもない。虫に刺されたようなもの。
この男では、ハルの心を汚す事はできない。
――自分は、こんな事では汚されない。
そう思ったら冷静になれた。目の前で興奮している愚かな男を、じっと見つめる。
「悲鳴くらい上げろよ。盛り上がらねぇだろ。口の布、取って……」
ハルの服を脱がそうとしていた男は、ふとハルと目を合わせて言葉を呑み込んだ。
澄んだ緑金の瞳には、恐怖も怯えも、怒りすら浮かんではいなかった。
ただ真正面から相手を見つめ返すのみで、ただそれだけなのに圧倒されて息苦しくなる。
敵わない。
何が?
分からない。
けれど自分ではこの少女を屈服させられない。
「おい……やめろ」
金髪の男は思わずたじろいで、独り言のように呟いた。
少女の瞳の中に映り込んだ自分が、とても陳腐で小さく見える。
――まるで虫けらだ。
「何だよ、その目は……何なんだよ……お前は」
うわ言のように呟きながらハルから離れていく金髪の男。
不思議に思った他の仲間が声をかける。
「どうした?」
ぽんと肩を叩かれて、金髪の男はハッと目を見開いた。
仲間の顔へちらりと視線をやった後、緊張した面持ちでハルに目を戻す。手首を縛られ、猿ぐつわをかまされて、汚い床に転がっている平凡な少女。
けれど今、自分は確かにこの少女に対して恐怖を感じた。
金髪の男は苦虫を噛み潰したかのような顔をしてハルから顔を背けると、仲間に命令を下した。
「……こいつに目隠しをしておけ」
「は? 何で?」
「いいから、早くしろっ!」
なんだよ、とブツブツ文句を言いながらも、バンダナを巻いた男がどこからか布を持ってきてハルの瞳を隠す。それを見届けると、金髪の男は密かに詰めていた息を吐いて言った。
「おい、もう行くぞ。こいつを大通りまで運べ。あの黒髪の男をおびき出したら、一緒にさっさと殺しちまうんだ」
「結局やらないのかよ」
「いいから早く――」
「わかったって。何怒ってんだよ。子竜は置いて行くんだな?」
魔賊の男たちは、暴れてころころ転がり続けるラッチにさらに鎖を巻き付け、長椅子の足と繋いだ。そしてバンダナの男がハルを担ぎ上げる。
クロナギをおびき寄せるため、外へ出るらしい。
目を塞がれ大人しくなっているハルを見て調子を戻した金髪の男が、再び悪い笑みを浮かべた。
「俺たちはこれから、街で暴れていた悪い竜人を始末するんだ。街の住人たちから後でたっぷり謝礼金を頂かないとな」
気を取り直した魔賊の男たちは、そんな話をしながら愉快そうに笑い合っている。
ハルは担がれて運ばれながら、これ以上街の住人から搾取するするつもりかと憤慨した。
というか、彼らのせいであの美味しいタルトを売るおばちゃんが店を畳んでしまったらと考えると、ハルは怒りのあまり暴れ出しそうだった。
まだチーズのやつとナッツのとカボチャのを味わっていないのだ。
(あのタルトたちが二度と食べられなくなるなんて……。あのもっさりした昔ながらのドーナツが……カスタードパイが、バターマドレーヌが、苺ジャムクッキーが、キャラメルオレンジケーキが……)
街で見かけた甘い物の数々を思い出して、絶対に魔賊の奴らの思い通りにさせる訳にはいかないと思うハルだった。
街の大通りに出ると、竜人――と思われる少女を抱えた魔賊の男たちに、住人の視線は一気に集まった。
「その子はさっきの……一体彼女をどうするつもりだ?」
ハルには見えなかったが、中年の自警団員が恐る恐るといった様子で魔賊の男たちに話しかけてきた。周りの住人たちも不安そうにハルたちの方を眺めている。
(魔賊に捕まって人質になるくらいなら、街の人たちに捕まっておいた方がよかったかも)
と、今更ながらハルは思った。色々と事情を聞かれて面倒な事にはなっただろうが、危険な目には遭わされなかったはず。
「うるせぇよ。自警団とは名ばかりの役立たず共は黙っとけ。俺たちはこれからこいつを餌に、街で暴れる竜人をおびき寄せて退治してやろうとしてんだからよ。お前らは大人しく、俺たちに貢ぐ金を用意してりゃいいんだ」
犬のように「邪魔だ。しっしっ」と追い払われ、自警団員たちは怒って何か言い返そうとしていた。が、魔賊の男に杖を向けられると悔しそうに顔を歪めて引き下がる。
魔術を全く使えない者にとって、それは十分な脅しだ。
街の住民たちにとっては、ハルやクロナギたちもまた厄介者かもしれない。ソルやオルガに攻撃されてクロナギは家の壁に穴を開けてしまったし、ハルはラッチと空を飛んで無用な騒ぎを起こした。
竜人やドラゴンなんて早くこの街から出ていってほしい、とは思っているだろうが、しかし魔賊の男たちほどには嫌われてはいないはずである。
それは住人たちがハルに向ける目と、魔賊に向ける目の違いを見れば明らかだった。
それでも魔賊の反感を買ってまでハルたちを助けようとは、誰も思っていないらしい。人々は遠巻きに騒動を見ながら、自分たちに被害が及ばない事を願っているようだ。
けれどそれも仕方のない事。住人たちは魔賊の男たちが操る強力な術を、嫌というほど目にしてきているのだから。
「さぁ、のろしを上げようぜ」
金髪の男が意気揚々と言う。
呪文を唱え、杖の先を空へと向けると、真っ白な煙を出しながら、小さな黄色い光の玉がしゅるしゅると天へと登っていく。周囲の家の屋根を越え、ある程度の高さまで上がったそれは、パンと大きな音を立てて弾けて散っていった。
後には一本の白い煙が風に揺られている。
きっとすぐにクロナギはやって来る。
目隠しの布の下でハルはそっと目を閉じ、耳を澄ませた。
足音は聞こえなかった。
「来たな」
しかし自分を抱えている魔賊の男がそう呟いた事で、目隠しをされていたハルでもクロナギが来た事を知る事ができた。
ソルやオルガは上手くまけたのだろうか? 怪我をさせられていないといいけど。
魔賊の男たちは、一人きりでやって来たクロナギを見てにやにやと笑った。ただでさえ十八対一という人数の差があるのに、こちらには人質もいるし、魔術への自信もある。自分たちの勝利を確信しているのだ。
周囲に集まってきたこの街の住民たちは、皆息をひそめて成り行きを見守っている。
こちらに近づいてきているはずのクロナギの足音は相変わらず聞こえない。しかし視界を遮られているせいで感覚が鋭くなっているのだろうか。ハルはクロナギの感情を肌で感じ取る事ができた。
彼はこれ以上ないくらい、怒っている。
燃え盛る炎のような激しい怒りではない。もっと重くて、もっと静かな怒りだ。
じわじわと水位を上げながら、確かな圧力を持ってこちらに迫って来る津波のよう。
きっとクロナギは今、険しく威圧的な顔をしているに違いない。そう思ったハルだったが、実際は真逆の表情をしていたようだ。
「何笑ってやがる」
金髪オールバックの男の声だ。どうやら魔賊たちだけでなく、クロナギも笑っていたらしい。
「いや、ハル様が目隠しをされていてよかったと思っただけだ」
そう答えたクロナギの穏やかな声は、奇妙な響きを帯びていた。内に秘められた熾烈な感情、つまり怒りを、巧みに抑えているような口調。
しかしスラリと長剣を抜いてから放った次の言葉は、それこそ鋭い刃のようだった。
「遠慮なくお前たちの首を落とせる」
魔賊の男たちはクロナギの言葉に一瞬顔を引きつらせた後、ハルの存在を思い出して余裕を取り戻した。
「おいおい、竜人ってのは本当に頭が足りねぇんだな。こっちには人質がいるのを忘れたのか? こいつを傷つけられたくなけりゃ、大人しくしてろ。そこで動くなよ」
金髪オールバックの男が杖を構えた。
「首が飛ぶのはテメェの方だ。だが、まずはその剣を落としてやる――右腕ごとな」
男が詠唱を始めると、クロナギに向けられた杖の先に魔力が集まり始めた。拳ほどの大きさの、密度の高い魔力の塊。それが金髪の男の合図と共に勢いよく放たれ、一直線にクロナギの肩を狙う。
「んーッ!」
ハルには何も見えなかったが、クロナギの危機を感じて声を上げた。「逃げて」と叫びたかったが、口も塞がれているため叶わない。
弓矢数本分もの威力を持った魔力の塊は、空間を斬り裂くようにしてクロナギへと向かい、そして――
「……さすがに頑丈だな。前に同じ攻撃を別の奴にやった時は、玩具みてぇに簡単に腕が吹き飛んだのによ」
金髪の男が僅かに顔を曇らせた。攻撃は確かにクロナギに当たったが、剣を持つ彼の腕は、まだ無事に胴体にくっついていたのだ。服は多少破れたが、皮膚が裂けたりしている様子もない。
とは言え、骨や筋肉にはダメージがあったはず。人間なら腕が吹き飛ぶほどの威力なのだから。
けれどクロナギは、まともに攻撃を喰らった後も動かず、顔色ひとつ変えなかった。
「じゃあこうしよう。何発当てれば腕が飛ぶか、調べてみようぜ。右腕が飛んだら、次は左だ」
黄ばんだ歯を見せ、金髪の男は残忍な発言をする。
「お前はそこで的になるんだ。動いてこっちの攻撃を避けたりすれば、こいつがどうなるか分かるな?」
バンダナの男は担いでいたハルを地面に下ろして立たせ、片手で後ろから拘束した。もう片方の手には杖を握っており、その杖の先はハルの頭に突きつけられている。
「んんー!」
ハルは何とかして自由になろうと体をよじったが、拘束は強まるばかりだった。
(クロナギ、逃げて! こいつらの言いなりになっちゃ駄目!)
それでは彼らの思うつぼだ。金髪の男は、最終的にハルの事も殺すつもりでいるのだ。クロナギが魔賊の言う事を大人しく聞いたからといって、ハルが無事に解放される事はない。二人とも死ぬだけ。
けれどここでハルを見捨てれば、クロナギだけは無事に逃げ切る事ができる。
決して「自分が犠牲になるから!」などと崇高な事を思った訳ではないが、クロナギに怪我をしてほしくないとは思った。だからハルは塞がれた口で「逃げて」と叫び続けた。
「んーッ、んー!」
金髪の男が楽しそうに杖を構える。
「さぁ、次は血くらい出るだろ」
魔力が集まり、二発目が発射される。
しかしそれと同時にクロナギの姿はその場からかき消えていて、かと思うと、ハルを拘束していたバンダナの男は斬られて倒れ伏していた。
少なくとも鈍い人間の目には、それら三つのことは一瞬のうちに行われたように見えたはず。
「なん、だ……? どこに行った?」
魔賊の集団の一番先頭にいてクロナギと退治していた金髪オールバックの男は、束の間、消えた敵を探して周囲に視線をさまよわせた。
的に当たらなかった魔力の塊が、遠くで家の壁を破壊して消える。
きょろきょろと辺りを見回していた男は、「こ、こっちだ!」という仲間の言葉にぐるりと後ろを振り返った。
十八人いる魔賊の集団の中心で、バンダナの男は痛みに呻いて地面にうずくまっていた。金髪の男は目を見開く。
「いつの間に……」
どんどんと広がっていく血溜まりが、すぐ隣に立っていたハルのブーツに接触しかけた時、その軽い体はふわりと持ち上げられた。
ハルはクロナギの匂いを嗅ぎ取って、彼の腕の中でホッと息をつく。自分に触れる手がバンダナの男からクロナギに変わった事への安心と、クロナギが金髪の男の攻撃を避けた事への安堵。
「恐ろしい思いをさせてしまい、申し訳ありません」
囁かれたクロナギの言葉に、ハルはぶんぶんと首を横に振った。自分が魔賊に捕まったのは彼のせいではない。
今思えば、クロナギが迎えに来てくれるまでドラゴンたちと森に隠れておくべきだった。大きな岩竜二匹は、アナリアからだけでなく、魔賊からもハルを守ってくれただろう。
「ドラゴンたちは、あなたを慕ったでしょう?」
ハルの思考を読んだかのように、クロナギがほほ笑みかけた。
「それはあなたが皇帝の血を引いているからです。野生のドラゴンたちは、ハル様が帝位継承者であることなど全く理解していないでしょうが、本能で自分が従うべき人間を嗅ぎ分ける」
自由に空を飛んでいけるにも関わらず、ドラニアスに住む野生のドラゴンたちが外国へと出ていかないのは、そこに皇帝がいるからだ。ドラゴンたちは実際に皇帝に会った事などなくても、皇帝という存在を知らなくても、遠くで何となくその存在を感じ取って生きている。
皇帝の血を持つ者に惹かれるのは、竜人たちだけではないのだ。
しかしハルの父が死んでから、つまりドラニアスに皇帝という存在がいなくなってからは、執着をなくした野生のドラゴンたちが外へと出ていってしまう現象がたびたび起きている。
皇帝という存在を中心にしてまとまっているのもまた、竜人たちだけではない。『平和の森』にいた岩竜二匹も、皇帝が死んでから、ドラニアスから出てきたドラゴンたちだった。
もっとも、彼らは皇帝の死など知らないが。
ただ何となくドラニアスにいると落ち着いたのに、その安心感、充足感みたいなものがなくなってしまったから、気まぐれに海を越えてみただけ。
「やはりあなたは皇帝になるべき人物だ」
命を狙われる危険がある以上、無理強いはしないと言ったのに、クロナギはハルを皇帝とする事を諦めきれないようだった。
瞳を塞がれているというのに、ハルはクロナギからの熱い視線を感じた。ちょっとドラゴンに懐かれただけなのにな、と尻込みする。
「おい!」
突然荒っぽく声をかけられて、ハルはハッと魔賊の存在を思い出した。
そう、今は彼らに囲まれて一触即発の危険な場面だったと。
「調子にのるなよ」
奥歯を噛みしめ、憎々しげに金髪の男が言う。しかしクロナギはそれには答えず、視線さえやることはなかった。ハルを抱えたまま跳躍し、一瞬で通りの端へ移動すると、路地の陰にそっとハルを立たせて言った。
「不快でしょうが、しばらく目隠しはそのままに、ここを動かないでください。すぐに終わらせますから」
「んー!」
ちょっと待って! と言ったつもりなのだが、クロナギには伝わらなかったようだ。あるいは伝わっていて、聞こえない振りをしたか。
彼はハルの側から素早く移動し、魔賊たちのいる通りの中央へと戻ってしまったらしい。そちらから戦いの始まった“音”が聞こえた。
魔賊たちの怒声、呪文を紡ぐ声、何かの破壊音。
ハルはそわそわと地団駄を踏んだ。戦況を見たい。クロナギの無事を確かめたい。
しかし手と目、口を縛られたこの状態で動き回っては、彼の邪魔をするだけだ。
ハルはなるべく冷静になって耳を澄ませた。そうすると、ほんの少しだけだが不安が消えた。たまに聞こえてくるくぐもった悲鳴はクロナギのものではなく、魔賊たちのものだったから。
クロナギはそう簡単には悲鳴など上げそうにないから、見えないだけで負傷している可能性はあるけれど、それでも魔賊を斬りつけられるほどの体力は残っているということだ。
魔術というものは、とても便利なものだ。人の体だけでは生み出せないパワーを秘めた攻撃を繰り出す事ができる。
しかしそれには杖と呪文、あるいは魔法陣が必要で、考えようによっては、魔術というのはとても分かりやすい攻撃でもある。
術者は目標に向かって杖をかざさなければならないが、それではどこを狙っているかが丸分かりだし、呪文を詠唱すれば、攻撃を仕掛けるタイミングがバレバレになってしまう。
簡単な術なら、あるいは難しい術でもあらかじめ魔法陣を構成しておけば、発動の呪文はほんの一言で済む場合もある。
けれど今のこの状況では魔法陣を描いている暇などないし、簡単な術では竜人のクロナギは倒せない。
ぎりりと歯ぎしりする金髪オールバックの男は、クロナギの俊敏な動きを何とか目で追いながら、できる限りの早口で攻撃呪文を唱えていった。
仲間の魔賊がまた一人、倒される。
竜人を相手にして初めて、男は魔術が至高のものではないと気づいた。攻撃する前にいちいち呪文を唱えなければならないという制約にイライラする。人間を相手にしている時はそんな事思わなかったのに。
(くそ! 詠唱を完璧に終えるまであと数秒はかかる! こんなことをやっている間に奴は――)
「ぐあッ……!」
視界の右半分が赤い飛沫で染まった。金髪の男は悲鳴を上げて己の体を見下ろした。あるべきはずのものが――杖を握っていた右腕がなくなっていた。
「お前の腕は一撃で取れたな」
クロナギは苦痛の呻き声を上げて倒れた男にとどめを刺す事はしなかった。慈悲からではない。むしろその反対だ。クロナギはハルの上着がナイフのようなもので切られていた事に気づいていた。彼女の服が僅かに乱れていた事も。
何故そのような事になったのか、誰がそうしたのか、後でじっくりと魔賊たちから聞き出せねばならない。だから今は殺さない。強烈な痛みに苦しみながら、自分たちの行動を後悔すればいい。
魔賊の人数は半分まで減った。クロナギの完全勝利は近い。
――が、そう簡単には事は運ばなかった。
「見つけたぜ、クロナギー!」
緊迫した場に似合わぬ陽気な声を出して、オルガが通りに姿を現した。そしてその後ろからは、両手に剣を持ったソルも。
せっかくまいたというのに再び現れた彼らに、クロナギはあからさまに嫌な顔をした。
そしてハルは路地の陰でひとり焦っていた。オルガとソルはクロナギを狙っている。そして彼らは魔賊ほど簡単には倒せない。
敵の人数が単純に二人増えただけじゃない。その強さは一人で魔賊数人分はあるのだから。
(クロナギがピンチだ! 何とかしなくちゃ……)




