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「ドラゴン……岩竜ね」
短剣を握ったまま、アナリアは冷静に言った。
「え、ドラゴン? ドラゴンがいるの?」
地面にうつ伏せに押さえつけられているハルには、正面にいるらしいドラゴンたちが見えなかった。
街で屋台のおばさんが言っていた話を思い出す。平和の森には、魔獣よりも恐ろしいドラゴンが出るって。
「やや、やばいよ! 早く逃げよう、食べられちゃう!」
「うるさいわね、少し黙っていて」
アナリアは眉根を寄せて、ビビりまくるハルを見下ろした。
また雰囲気が変わった、と感じる。さっきまで私相手に言い合っていたくせに、今はただの情けない小娘。
「第一、ドラゴンが人間を食べる事はほとんどないわ。そんな事も知らないのね。こいつらの獲物のほとんどは魔獣よ。魔獣を補食して数を減らしてくれているっていうのに、人間たちはそんなこと何も知らずにドラゴンを嫌うんだわ」
「え……じゃあドラゴンは人間を襲わないの?」
ハルが目を丸くして聞いた。
アナリアはすげなく返す。
「襲わないとは言ってない。ほとんど食べないって言っただけで」
「じゃあ、襲うし、食べるんじゃん!」
ぎゃああ、と悲鳴を上げるハル。
「一緒に逃げよう、アナリア! 早く!」
「どうして私がおまえと一緒に逃げるのよ」
なんだかこの娘のペースに巻き込まれている。アナリアの眉間の皺がさらに深くなった。だいたい自分を殺そうとしている相手と一緒に逃げようだなんて、どうかしてる。やっぱりただの馬鹿かもしれない。
二体いるドラゴンは、どちらも低い唸り声を上げながらハルたちの元へ近づいてきた。
一体は緑色、もう一体は黄土色のごつごつした硬い皮膚を持っている。
その内の片方がアナリアに狙いを定めたらしい。ギラリと光る牙をむき出しにし、彼女に飛びかかったのだ。
「……っ!」
「いやぁぁぁ!! 何何何ッ!?」
アナリアが後ろへ飛び退り、ドラゴンもそれを追う。自分の体のすぐ上をドラゴンの巨体が通り過ぎ、ハルは恐怖と混乱の悲鳴を上げた。
なんかすごい風圧を感じたし、ドラゴンのしっぽらしきものがちょっと背中を擦った気がする。
アナリアが退いた事で体は自由になったが、今まで地面に強く押さえつけられていたせいで、色々な箇所がピキピキと痛む。特に背中と肩と首。
「いたたた……」
ハルが関節痛に苦しむおばあちゃんのごとくゆっくりとした動きで起き上がろうとしている間にも、アナリアはドラゴンと交戦していた。
こちらから攻撃を仕掛けたり、勝手に巣に近づいたりしない限り、野生のドラゴンでも竜人にはほとんど牙を剥かないはずだ。しかしこのドラゴンは、あきらかな敵意を持ってアナリアに攻撃してきている。
(近くに巣でもあるの? 今は繁殖期ではないはずだけど)
アナリアは噛み付こうとしてくるドラゴンの大きな牙を避けながら考えた。
(もしかしたら……いいえ、まさか……。だけどあの娘が本当にエドモンド様の血を継いでいるのなら、可能性は……)
アナリアの胸の内に、複雑な感情が広がった。「腹が立つ」というのが九割。「嬉しい」というのが一割。
なんとか上半身を起こしたものの、地べたに座り込んだまま俯いて「いたたた、早く逃げないといけないのに」と背中をさすっているハルに、アナリアは言った。
「私の手でおまえを殺すのは止めにするわ。その代わり、全てをこの野生のドラゴンたちの本能に任せる。ここで彼らに殺されたのなら、やはりおまえはそれまでの存在なのよ」
「何? どういう意味……」
しかしハルが顔を上げて振り向いた時には、アナリアはもうその場から消えていた。彼女が去ったと思われる方向へ、ドラゴンが一体飛んでいく。吠え声を上げ、進行方向にある邪魔な木の枝をその巨体でバキバキと破壊しながら。
「大丈夫かな、アナリア」
竜人の戦闘能力があれば、大きなドラゴン相手でも負けないだろうけど。
「なんて、人の事心配してる場合じゃない!」
ドラゴンはもう一体残っている。黄土色の皮膚のそのドラゴンは、大きな瞳で、食い入るようにハルを見つめていた。
人ひとり乗れるくらいの大きさの飛竜と比べて、岩竜はさらに大きい。がっしりとした体つきに太いしっぽ、岩のような硬い皮膚。間近で見るとすごい迫力だった。
「人間をほとんど食べないって、ほ、ほんとかなぁ……」
ハルは震える足に力を込めてなんとか立ち上がり、冷や汗を垂らしながらじりじりと後ずさった。薄く開いたドラゴンの口から、太い牙と真っ赤な舌が覗いている。
ドラゴンが大きな足で大地を踏みしめ、こちらへ一歩近づいてきた瞬間、ハルはくるりと方向転換して駆け出した。
はっはっと短く息を吐きながら、アナリアに追われていた時より必死に走る。雨が顔に当たろうが、ぬかるんだ地面の土がはねてブーツにかかろうが、どうでもいい。ドラゴンに食いちぎられて死ぬなんて、そんな悲惨な死に方したくない!
ドラゴンは翼を広げてハルを追ってきた。飛びながら走る、といった感じで、時折足で地面を蹴っている。そのたび森が揺れている気がして、ハルは「ひぃぃ!」と悲鳴を上げながら、半泣きで逃げた。
真っ直ぐ逃げていてはすぐに捕まる。
ハルはなるべく木が密集して生えている方向を選び、その隙間を縫うようにしてジグザグに走った。
と、その効果はすぐに現れた。ハルを追ってきたドラゴンは、無理矢理通ろうとした木と木の間に挟まれて、身動きが取れなくなったのだ。
「はぁ、はぁ……」
ハルはその場にへたり込んだ。足がつりそうだ。これ以上、全力疾走はできない。
しかしドラゴンが身をよじるたび、木はミシミシと嫌な音を立てている。
やめて、出てこないで。もう走れない。
だがハルの願いも虚しく、ドラゴンは一度鋭く吠えて暴れると、自分の体を挟む木を破壊した。折れた二本の木は、大きな音を立てて地面に倒れる。
「うう……」
ハルはお尻を地面につけたまま、ずりずりと後退した。腰が抜けたように、下半身に力が入らない。
ドラゴンがゆっくりとハルに近寄ってくる。
もう駄目だ。
そう思った時だった。
「ぎゃう!」
岩竜のものにしては高く、迫力に欠ける鳴き声がハルの耳に響いた。しかし聞こえてきたのは確かに岩竜の方向からだ。
混乱しつつ、注意深く岩竜を見つめていると、
「ラッチ!?」
岩竜の頭から、ひょっこりとラッチが顔を出したではないか。
「ラッチ! 危ないから早く降りて……あ! っていうか置いてきちゃってごめん! ケガはない? アナリアに投げられてたみたいだけど大丈夫なの?」
ラッチは「きゅん」と鳴くと、こちらに向かって呑気にパタパタと飛んできた。岩竜がパクッと食べてしまうんじゃないかと心配になる。
大人と子供、岩竜と飛竜という差もあって、二匹の体格はかなり違うからだ。
しかし岩竜は目の前を飛んでいくラッチを襲う事なく、のんびりと目で追うだけ。
同じドラゴンだから? それともラッチが子供だから?
ハルは戸惑いながら、飛んできたラッチを受け止めた。ラッチは「きゅんきゅん」と鳴いて、なにやらハルに説明しようとしている。
「……逃げる必要ないって言いたいの?」
ハルにはラッチの言葉がなんとなく読み取れる。初めて会った時からそうだったから、ハルに竜人の血が流れていることに何か関係があるのかもしれない。
「もしかして、ラッチがこのドラゴンたちを連れてきた?」
半信半疑でそう言うと、ラッチはにっこり頷く。ドラゴンの笑顔はちょっと怖い。鋭い牙が剥き出しになるからだ。
「でも、どうして……」
ラッチを見つめて考え込むハルの頭上に、暗い影が落ちた。ハッと見上げると、岩竜がすぐ目の前まで迫っている。
思わず体を反らすが、自分と違って全く緊張している様子のないラッチを見て、ハルも少し警戒を解いた。
岩竜はハルに鼻を近づけ、フンフンと匂いを嗅いでいる。
と、そこへアナリアを追って行った緑色のドラゴンも戻ってきた。アナリアは遠くへ逃げたのか、姿は見えない。
緑のドラゴンも、ハルの首元に大きな鼻をくっつけ匂いを嗅ぎ出した。ハルはこわばった表情で、ひたすら固まるしかない。
やっぱり美味しそうな匂いがする、と噛み付かれるのでは? そうハルは怯えたが、匂いを嗅ぎ終わったドラゴンたちは特に何か行動を起こすこともなく、ハルの側でどっしりと座り込み、くつろぎ始めたのだ。
黄土色のドラゴンなどリラックスした様子で地面に伏せて、しっぽの先をご機嫌に揺らしている。体が大きくても、こうしているとラッチと変わらない。
ハルは恐る恐る手を伸ばし、雨に濡れたそのドラゴンの鼻先を撫でた。ドラゴンは少しくすぐったそうにしながらも、怒るどころか、「ぐるぐる」と低く喉を鳴らした。
ちょっとびっくりしているハルに、ラッチと緑色のドラゴンも『おれも』というように鼻を突き出す。
(もしかして私ってば、ドラゴンに懐かれるという才能でもあるんじゃなかろうか)
ハルは半分冗談でそんな事を思ったが、森の中でドラゴン三匹に取り囲まれているこの状況を見るに、冗談では済まないかもしれない。
これは……果たして喜ぶべきことなのだろうか……?
そういえば初めてラッチと会った時も、ラッチはすぐにハルにすり寄ってきた。
森で一匹でいた寂しさや親から離された不安感から、そのようにすぐに懐いたのだと思っていたが、もしかしたら違う?
誰かに説明してほしい。そう思いながら、ハルはどんどん寄ってくるドラゴンの鼻先を黙々と撫でた。




