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フードが邪魔で前が見えにくい。だけどフードを外せば、今度は雨がまつげを濡らす。
落ち葉を踏みしめ、密集して茂る雑草をかき分け、小石につまずきながら走る。
ハルは荒く息を吐きながら、がむしゃらに足を動かした。ラッチもすぐ隣を飛んでいる。
背後に迫ってきているはずのアナリアの足音がほとんど聞こえないのが恐ろしい。
だけど彼女は確かに後ろにいる。振り向いて確認する暇さえないほど、すぐ後ろに。
「あっ!」
最悪にも、最低なタイミングで、ハルは地面に顔を出していた木の根に足を引っかけた。前のめりに体が傾き「転ぶ!」と思った瞬間に、強い力が背中にかかる。
アナリアの手が後ろからハルを捉え、そのまま地面に押し倒そうとしているのだ。
結果、ハルは転ぶよりもさらに強く、地面に体を打ちつけた。
「……うぐッ」
前から倒れたので顔面も思い切りぶつけてしまった。痛みにうめきながら、鼻がこれ以上低くならないといいけど、などと余計な心配をする。
背中にははっきりとした重みを感じた。アナリアが乗って、押さえつけているせいだ。左肩と後頭部に手を、さらに背中に膝を置かれているので起き上がれない。
倒れた拍子にフードが脱げたらしい。頭に当たった雨が、地肌の方まで入り込んできている。
「この髪……っ」
アナリアがハルの髪を見て憎々しげに呟いた。女性にしては少し低めの魅惑的な声だが、残念ながらその声音には嫌悪感がたっぷりと詰まっている。
ハルは後頭部を押さえつけられたまま顔をよじり、地面とのキスを強要されていた唇を解放した。なんとか呼吸はできるようになったものの、背中に乗っているアナリアの顔は見えない。
が、彼女の視線が自分の薄茶色の髪に注がれているのは分かった。ちくちくとした痛みすら感じるほど強く。
「ガルルッ……!」
と、その時。ラッチがハルを助けようと、猛獣――の赤ん坊みたいな唸り声を上げてアナリアに牙を剥いた。
しかし彼女も戦闘民族と称される竜人だ。ハルを押さえつけたまま子竜の攻撃を軽くかわすと、逆にラッチの尾を片手で捕まえ、放り投げた。
ハルには何も見えなかったが、ラッチの体が木にぶつかった鈍い音だけは聞こえてきた。
「ラッチ!」
息をのんで叫ぶが、何の返事もない。気を失ってしまった? ケガをしたの?
「ラッチ!」
力の限りに暴れようとしているのに、アナリアに押さえつけられた体はいうことを聞かない。
「離してよっ!」
「この髪の色……」
抵抗するハルをものともせずに、アナリアはもう一度呟いた。
「さすがは娘だわ。あの女と全く同じ色。まるで生き写しね。きっと顔もそっくりなんでしょ。見たくもないけど」
彼女の声は、氷の刺のように美しく冷徹だった。
ハルがぴたりと動きを止める。
「母を知ってるの?」
「知ってるも何も、大嫌いよ」
大嫌い? 優しい母のことを大嫌いなんて言う人、初めて見た。信じられない。本当に?
マザコンのハルは、アナリアは理解できない未知の生物のように思った。
「ど、どうして嫌いなの? 母があなたに何かした?」
母が他人を傷つけるような事するはずない。そう信じているが、一応確認してみた。
アナリアは相変わらず強い力でハルを押さえつけながら言う。
「私は何もされてないわ。あえて言うなら『エドモンド様を奪われた』って言うところだけど、私の事はどうでもいいの。あの女はエドモンド様に酷い事をした。私の敬愛するエドモンド様に! それが許せない」
「母が……父に?」
「エドモンド様の事を父だなんて言わないで! どうせちっとも似ていないくせに。だいたい本当にエドモンド様の子どもか疑問だわ。淫売なあの女の事だもの。男をたらし込むなんてわけなかったはず」
胸の奥が、真っ赤に燃え上がった気がした。
こんな風に強烈な怒りを感じた事は今までない。
母を、侮辱された。
大切な母を。
視界の端に見える金髪を引っ張り、アナリアを引きずり倒して罵倒したい。
あなたが母さまの事どれだけ知ってるっていうの!? と。
しかしそれを実行して、いい結果が得られるとは思えない。そう考えるだけの理性はかろうじて残っていた。
それに、ここで相手を罵ったら負けな気がする。それでは母を罵ったアナリアと一緒だし、彼女に「やっぱりあの女の娘ね。口汚いわ」なんて笑われたら、悔しすぎて噛み締めた奥歯を砕いてしまいそう。
アナリアはきっとなにか誤解をしているのだ。
ならばその誤解を解きたい。
母の名誉を取り戻したい。
「あなたは何か誤解しているのかも。だって、あなたの知る母と私の知る母では、人物像に違いがありすぎるんだもの。どうして母の事をそんな風に言うのか、理由を教えて」
意外にも落ち着いたハルの声に、アナリアは一瞬戸惑いを覚えた。相手に敵意を持たせないような言い回しに、柔らかくもはっきりとした声。
少しだけ、エドモンドに似ていた。
アナリアは首を振る。
いいえ、ただの勘違いよ。
「あの女は、人を疑う事を知らない純粋なエドモンド様をたぶらかして、指輪を奪ったのよ。皇帝一族に代々伝わる大切な指輪を!」
「指輪……」
それはまさしく、ハルが持っている指輪のことだった。母の形見の指輪。屋敷を出る時に新しい鎖をつけて、今もハルの首にかかっている。
たしかクロナギも、ハルの母は指輪を持ったままドラニアスを去ったとは言っていたが。
「おまえの母親はエドモンド様から指輪を受け取ったにもかかわらず、その直後にエドモンド様に一方的に別れを告げたのよ。私の大切な主を酷く傷つけた。おまけに、本来エドモンド様に返すべき指輪も持ち逃げして……」
当時の怒りが蘇ったのだろうか。ハルの後頭部を押さえるアナリアの手に、さらに力が込められた。
「あの女は指輪の価値に気づいたのよ。売れば、一生楽に暮らせる価値のある指輪だって。人間の女なんてそんなものよ。薄情で、欲深くて――」
「ちょっと待って」
ハルはたまらず話を止めた。
「やっぱりあなたは勘違いしてる。母が指輪を返さなかったのは――」
「勘違いなんかじゃないわ!」
今度はアナリアが遮った。ハルには見えなかったが、きっと今彼女は目を吊り上げて、怒りで顔を赤く染めているはず。
彼女はある意味素直だ。自分の感情をそのまま相手にぶつける。
「あの女が指輪を持ってドラニアスを去った後、エドモンド様がどれほど落ち込んでおられたか分かる? 私たちの前では何でもないような顔をしておられたけれど、ふとした瞬間に哀しげな瞳で遠くを見つめられて……。エドモンド様のその表情を思い出すだけで、胸が引き裂かれるわ。あの女の裏切りがよほどショックだったのか、その後二度と恋をされる事もなかった」
絞り出すようにして言うアナリアに、しかしハルは少し好感を持ち始めていた。
母の事を悪く言うのはいただけないが、それは彼女がエドモンドの事を一途に想っているからこそなのかもしれない。
アナリアが最初に「私の事はどうでもいいの」と言ったことからも、それほど悪い人物ではないように思えた。彼女の勘違いさえ解ければ、きっとわかり合える。
そんな事を考えているハルとは反対に、
「ヤマトからの情報によると、あの女はもうすでに死んでいるようね。エドモンド様のお心を傷つけた罰を、この手で与えてやれなくて残念だわ」
アナリアは憎しみを込めてこう言った。
「だけどおまえがこのままドラニアスに向かおうとするなら、今ここで殺すわ。あの女の血を引く子どもなんて、ドラニアスには入れたくない。絶対に」
自分に向けられる殺気にハルは身を震わせた。アナリアの本気を感じ取って全身が緊張している。
けれど、このまま押し潰されてはいけないような気がした。
「ドラニアスへは行くよ」
声は少し震えていたけれど、ハルは笑っていた。
「ラッチを帰さなきゃいけないし、今になってちょっと、父が育った国を見てみたいなっていう気持ちも湧いてきたから」
「おまえはあの女の子供だけあって、馬鹿なのね。そんなに死にたいなら喜んで殺してあげる」
アナリアが冷たい声で宣告した。
ハルは慌てる事なく言う。
「なら、最後にちょっと時間をちょうだい。私の話を聞いて」
「何を言われても、私はほだされないわよ」
勢いを弱めた雨が、しとしとと体を濡らす。
ハルは地面に押さえつけられたまま動かず、抵抗する事をやめた。蟻が急いで巣穴に戻っていく様子を眺めながら、ゆっくりと話しだす。
「今あなたから聞いたような話、実はこの前クロナギからも聞いたんだ。けど、彼はあなたとは全く違う見方をしてたよ」
ハルはこのトチェッカに着いた日の夜、宿の部屋でクロナギと交わした会話を思い出していた。
————
母フレアが突然エドモンドに別れを告げ、指輪を持ってドラゴニアから去った事について、「何があったんだろう」と疑問に思うハルに、クロナギはこう言った。
「分かりません。けれど推測する事はできます。私はその頃まだ未熟な竜騎士でしたが、フレア様の護衛を任されていました。近くでお二人の事を見守っていましたが、やはり種族の違いに悩まれていたのではないでしょうか。つまり――」
クロナギはそこで一旦言葉を切った。
「つまり、寿命の違いに」
ハルはベッドに身を預けたまま、暗闇に浮かぶクロナギの顔を見つめた。
「寿命の違い? 人間と竜人では寿命が違うの?」
「そうです。人間の寿命が八十年とすれば、竜人の寿命はその倍、約百六十年。エドモンド様とフレア様では、エドモンド様の方が年上でしたが、それでも人間であるフレア様の方がずっと早くに老いて死ぬのは避けられないこと。一緒に年を取っていくというのは、到底無理な話なのです」
クロナギの話によれば、竜人は十八歳で成人を迎えるまで、人間と変わらぬ早さで成長を続けるらしい。
しかし、大体そのあたりの年齢で体が完成する人間に対し、竜人は二十五歳まで成長を続ける。
その後百歳くらいまでが体力的、身体的にピークの時期で、百歳を超えてくると体力が落ち始め、人間と同じように衰えが出てくる。
ふと気になって、ハルが聞いた。
「クロナギは今、何歳?」
「私は三十二です」
「そっか、でも外見は二十五くらいに見えるね」
こんな若々しい三十代、人間にはいないだろう。体力的にだけでなく、竜人は外見が老けるのも遅いのだ。
クロナギは話を続けた。
「フレア様はエドモンド様からの求婚を受けてからというもの、寿命の事をより一層気にされるようになりました。夫婦になるという実感が湧き、二人の未来を現実的に想像されるようになったからでしょう。フレア様は、エドモンド様を残して死ぬことが嫌だったのです。自分の死後、エドモンド様を約八十年近く独りにさせてしまう事が」
ハルは体にかけていた毛布をぎゅっと握った。優しい母は、きっとすごくすごく悩んだ事だろう。
「そしてついに、フレア様はエドモンド様との別れを決意されました。人間の自分ではなく、一生を添い遂げられる竜人の女性を選んだ方が、エドモンド様は幸せになれると思われたのでしょう。まだ婚儀を上げていない今なら間に合う、エドモンド様は新しい伴侶を見つける事ができる、と」
クロナギは静かに目を伏せた。
「そしてエドモンド様も、フレア様と同じく寿命の事を気にされていました。フレア様の方がずっと早く老いる事になるわけですが、それは女性にとってあまりにも辛い事なのではないかと」
ハルは想像してみた。夫はいつまでも若いままなのに、自分だけが着実に老いていく光景を。
髪は白くなり、皮膚はたるんで皺々になる。手をつないで歩いていても、誰も夫婦だとは思わない。孫に介護されるおばあちゃんだと思われるかも。
そう考えると、なんだか惨めな気分になった。
「エドモンド様も、自分はフレア様にふさわしくないと思っておられたようです。同じ時を生きられる人間の男と結婚した方が、フレア様は幸せになれるのではないかと。ですからフレア様に別れを切り出された時、エドモンド様は黙ってそれを受け入れられました。お互い、寿命がどうとか言い出すこともなく。もちろん内心、胸がえぐられるような悲しみを味わっておられたのでしょうが、お二人はお互いの事を想うが故に別れを決められたのです。傍目には、随分とあっさりした別れに映ったかもしれません」
ハルは母や父の心境を想いながら、黙って話を聞いていた。
「そしてフレア様が指輪を返さずにドラニアスを去られたのは、エドモンド様のことを忘れたくなかったからだと思います。ハル様もご存知の通り、指輪にはエドモンド様の瞳と全く同じ色の『皇帝の石』が使われていましたから。フレア様は、指輪がドラニアスの皇帝に代々受け継がれる大切なものだとは知らなかったようですし」
クロナギは続けた。
「一方でエドモンド様は、もちろん指輪が大切なものであるとちゃんと分かっておられました。しかしそれでも、フレア様に返せとは仰らなかった。エドモンド様もまた、彼女に自分を忘れてほしくはなかったのでしょう。たとえ他の男と結婚したとしても、エドモンド様の瞳と同じ色の宝石を見て、時々は自分のことを思い出してくれたらと思っておられたようです」
そうして母はドラニアスを去り、父もそれを止める事なく見送ったのかとハルは思った。
きっとその時、母はまだ自分が妊娠していることに気づいてなかったのではないだろうか。人間の国へ帰ってから、愛する人との子供ができていたと分かってどんな気持ちだっただろう。少なくとも、ハルを生んだ事を後悔はしていないようだったが。
自分の愛した人に似たハルの事を、目一杯可愛がってくれた。
母の心境に想いを巡らせているうちに、ハルは深い眠りの中へと落ちていった。
————
「信じられないわ」
ハルの話を聞いて、アナリアが言う。
「それはクロナギの推測でしょ。あいつもあの女にほだされていたから、見方が偏ってるのよ」
負けじとハルも言い返す。
「だけどあなたの言い分も、結局はあなたの推測でしかない。そしてあなたの見方も、だいぶ偏っているように思えるけどな」
「黙りなさい」
ムキになったアナリアが、ぐっと手に力を込める。ハルの顔が濡れた土に強く押し付けられた。
キッと眉を上げて、ハルが言う。
「図星だから怒るの? 言っておくけど、別れた後で悲しみに沈んでたのは父だけじゃないんだよ。母だってすごく悲しんでた。これは推測なんかじゃない。私には見せないようにしてたけど、夜、母が一人で泣いてたのを知ってる。切ない表情で指輪をじっと眺めてたのも、寝言で『会いたい』と呟きながら涙をこぼしていたのも見たし、生涯恋人をつくる事も再婚をする事もなかった。ドラニアスにいたあなたが知らなかっただけで、母も苦しんでたんだよ」
ハルの強気な口調に、アナリアはまた戸惑った。
この子どもの性格がいまいち掴めない。馬鹿なのか聡いのか、純粋なのかずる賢いのか、気弱なのか気丈なのか。
少しだけ、エドモンドを思い出す。
太陽のように楽天的で何も考えていないのかと思えば、実はしっかりと事態を解決するための算段をつけていたり、優しさゆえに気弱で恐がりなのかと思えば、身を挺して臣下を守るような無茶もする。
次の行動が読めない、でもだからこそ魅力的な人だった。
アナリアが尊敬し、心から愛した人だった。
「嘘よ……そんなの」
疲れたような声でアナリアが言った。
「嘘じゃない」
はっきりとハルが断言する。
アナリアはカッと目を見開いた。
「嘘よ! だったらあの指輪はどこにあるっていうの! どうせ、もう売ってお金にしてしまったくせに!」
言うと同時に、腰にぶらさげていた短剣を抜いた。膝をハルの背に乗せ、片手で後頭部を押さえつける。濡れた薄茶色の髪の隙間から、白いうなじが顔を出す。
アナリアはハルの首に向かって、怒りのままに短剣を振り下ろそうとした。
しかし、その瞬間――
静かに森の木々が揺れ、大地が震動する。
迫力のある低い唸り声と共に、大きなドラゴンが二体、森の奥から姿を現した。




