7
クロナギ、オルガ、ソルの戦闘は続き、周囲の人間たちは不安そうにそれを眺めている。
二対一ではクロナギも簡単には勝てないのだろう。ソルの剣を弾き、オルガの拳を避けながらチャンスを窺っているが、なかなか決め手となる攻撃を打てずにいた。
――と、戦闘の狭間に、ふとクロナギが二人から注意をそらした。目を見開いて通りの奥を凝視した後、表情を険しくする。
「あーあ、気づかれたか」
オルガも攻撃の手を止め、ニヤッと笑って言う。
クロナギは奥歯を噛んだ。
「ここへ来たのはお前たちだけじゃなかったのか」
「総長から命令を受けたのは俺ら二人だけだけどな。アナリアが自分も行くっつって、ついて来たんだよ」
アナリア?
また新しい竜人だろうか?
ハルは袋に入ったラッチを抱えたまま、クロナギたちの視線の先を見た。
高いヒールのついたブーツがカツカツと音を立てて、雨に濡れた石畳を踏みしめる。
オルガやソルと同じ黒い軍服はアナリアなる人物の体型にぴったりと合っており、彼女の艶かしい体の線を浮き彫りにしていた。
ほどよい筋肉のついた脚は美しく、きゅっとくびれた腰が豊満な胸を引き立たせている。
ハルはこの羨ましすぎる体を持つ人物の顔を見るべく、深くかぶっていたフードを上げようとした。
が、そこではたと気づく。
アナリアという名の彼女の足は、こちらへ真っ直ぐに向かってきていないか? と。
通りの中央にいるクロナギたちの方ではなく、端の方で見物人に紛れている自分の方へと。
ハルはフードを上げようとした手を止めたまま、小さく息をのんだ。野性的な本能というものが自分に備わっているのなら、今それは間違いなく警鐘を鳴らしている。
ぞくりと背筋が泡立つ。
アナリアの顔を見なくても、彼女がこちらを鋭く睨んでいるであろうことは想像がついた。
ハルはアナリアという人物を知らない。名を聞いた事も会った事もない。
だが、どうやら自分は彼女にひどく嫌われているらしい。彼女から発せられる空気でそれが分かるほどに。
クロナギもそれを感じ取ったのだろうか。ハルに向かって歩いていくアナリアに攻撃を仕掛けた。
しかし、それをオルガとソルが放っておくわけはない。
「待てよ、お前の相手は俺らだろうが」
駆け出したクロナギの外套をオルガが後ろから掴み、引っ張った。しかし単に『引っ張った』と言っても、相手がオルガではただでは済まない。
クロナギは後ろへ吹き飛ばされて、通りの南側にあった家に激突した。大きな音を立てて茶色いレンガの壁が崩れる。周囲の見物人たちから悲鳴が上がった。
「クロナギッ!」
ハルも悲鳴を上げて叫ぶ。
オルガは爽快な笑みを浮かべていて、ソルはクロナギにとどめを刺すべく、穴の開いた家に突っ込んでいく。
アナリアだけが周囲の騒動に気を散らす事なく一定のテンポでヒールを鳴らし、ハルに近づいて来ていた。しかしハルはクロナギの安否を確認しようと必死で、逃げるどころではない。
ソルがクロナギの元へ突っ込んでいってすぐ、キン、という金属音と共に、壁に開いた穴から曲剣が一本飛び出してきた。ソルの剣をクロナギが払ったのだ。
クロナギは崩れたレンガを下敷きにして倒れているが、大きなケガはなく、意識もはっきりとあるらしい。残る一本の剣を使って放たれるソルの攻撃を弾きながら、大声で叫ぶ。
「ラッチ!」
ハルの腕の中で麻袋に入っていたラッチがピクリと反応する。
「ハル様を連れて森へ逃げろ! 急ぐんだ!」
え、何? 森へ?
狼狽するハル。
しかしラッチはクロナギの指示を受けると、迷う事なく麻袋から飛び出した。
「うわぁッ! ドラゴンだ!」
「こ、子どものドラゴンか?」
橙色の子竜を見て、周りの人たちが驚きの声を上げる。場はいっそう混乱した。
ハルは思わず、もう一度ラッチを袋に隠そうとした。ここに密猟者なんていないだろうが、あまり人目に晒したくはない。
が、ラッチは何やら興奮した様子で――『やっとおれの出番!』と意気込んでいるみたいだ――パタパタと羽を慣らした後、ハルの背負っていた荷物を後ろ足で掴み、持ち上げた。
「えぇー!?」
ハルは自分の足が地面から浮いた事に驚愕した。ラッチってば、すごい力持ち。
っていうか、どんどん地面が離れて――
「いやぁっ!!」
ハルは叫んで、ちょっと泣いた。
でも怖いので体は動かさない。なぜならラッチとハルは、すでに周囲の家の屋根と変わらぬ高さを飛んでいるからだ。ラッチがハルの荷物を離せば、ハルは大ケガをする事になるかもしれない。
小さいけれど、ラッチも立派にドラゴンだったらしい。予想以上のパワーでハルを持ち上げたまま、思いも寄らぬスピードで雨の中を飛ぶ。
かぶっていたフードが取れそうになって、ハルは慌てて片手で押さえた。雨粒が当たって目が開けられなくなる。
「クロナギは……っ」
快適とは言いがたい飛行を続けながら、ハルは後ろを振り返った。しかしクロナギの姿はもう確認できない。離れて小さく見える見物人たちが、唖然とした表情でこちらを見上げているのは分かったが。
ハルはクロナギの事が気にかかったが、どうやら彼の心配ばかりはしていられないらしい。
「あの人! アナリア……!」
ハルたちの背後、少し離れた民家の屋根に彼女は立っていた。いつの間に登ったのだろう。
遠目にも、雨に濡れて輝く彼女の髪の美しさに目を惹かれた。艶やかで色っぽい、濃い金色の髪。
アナリアはハルたちを追って、屋根の上を身軽に移動してくる。
「どうしよう、こ、こっち来た! ラッチ、頑張って!」
運ばれているだけのハルは応援する事しかできない。ラッチは「ぎゃう」と鳴いて速度を上げた。
「おい、何だあれ!」
「女の子が空を飛んでるぞ」
「いや、何かに捕まって……ドラゴンか!?」
空は厚い雲に覆われているとはいえ、今は昼。さして高くない位置を飛んでいるハルたちの姿は、街の住人たちからもよく見える。ハルたちが通り過ぎた後で、下は大騒ぎになっていた。
「目撃情報のあったドラゴンよりも小さくないか?」
「奴らの子どもなのかもしれない。森には二頭いるって話だろ? 番なのかもしれん」
「ドラゴンの子どもめ! あの子を攫ってどうするつもりだ?」
「まさか食べるつもりじゃ……」
どうやらハルは子竜に攫われた人間の女の子だと勘違いされたらしい。「その子を離せ」と、下からラッチに向かって石が飛んでくる。
「わ、わ! ちょ、ちょっと待っ……痛い! 待って、全部私に当たって……痛いっ!」
助けてくれようとしてくれるのは有り難いが、完全に意味のない攻撃なのでどうかやめてほしい。
しかしハルが体を張って石を防いだおかげで、ラッチは傷つく事なく飛行に専念した。
昨日今日と通り抜けてきた街を逆走していくと、やがて東の端に『平和の森』が見えてきた。鬱蒼と茂った緑の葉が、雨に濡れて青々と輝いている。
クロナギが森へ逃げろと言ったのは、そちらの方がアナリアをまきやすいと思っての事だろうか? 広い森の中では、下手したら自分たちが遭難してしまいそうだとハルは心配した。
しかし遭難する暇もなく、街を抜けて森へ入ると同時に高度を下げたラッチが木の枝に派手にぶつかる。
そのはずみでハルは荷物を離されてしまい、雨で湿った柔らかな土の上へ投げ出された。
「うぷっ……!」
地面が街の中のような硬い石畳でなくてよかったと思いながら起き上がり、雨用の外套にへばりついた落ち葉を払う。
「って、こんなことしてる場合じゃ……」
ハッと気がついて後ろを向くと、アナリアは森の入り口近くまで迫ってきていた。
「ラッチ、こっちだよ!」
ハルは重くて邪魔な荷物を置き捨てると、ラッチを伴って森の奥へと駆けた。