6
ハルはそろそろと後ずさり、クロナギから距離を置いた。
ラッチが麻袋の中できゅんきゅんと小さく鳴いている。まるで「おれも参加したい」と言っているよう。
「駄目だよ」
ハルはラッチをぎゅっと抱え込んだ。竜人もドラゴンも喧嘩好きというか、戦いを楽しむ傾向があるのだろうか。
「おい、喧嘩か?」
通りの端に身を寄せたハルに、通行人のおじさんがちょっとわくわくしながら声をかけてきた。こんなところにも喧嘩好きがいた。
「いっちょ、加勢してやるか!」と腕まくりをしそうなおじさんに、ハルは警告する。
「喧嘩というほど可愛いものじゃないと思うけど……少なくとも私たちにとっては。危ないから近づいちゃ駄目だよ」
と、その時。
おじさんへ顔を向けていたハルの視界の端に、地面を蹴って走り出すソルの姿が映った。慌てて視線をクロナギに戻す。
両者の間には十分な距離が空いていたはずなのに、ソルは一瞬でそれを縮めた。ハヤブサの滑降を思わせるような速さと迫力。
彼はその勢いを保ったまま、左手に握った剣でクロナギに斬り掛かる。
「クロナギ……!」
思わずハルが叫ぶが、クロナギは冷静にソルの剣を受け止めていた。キィンという高い音が、遅れて雨音の中に消える。
ハルがホッとしたのもつかの間。次、ソルは右手に持っていた剣でクロナギを攻撃した。
彼は少し湾曲した剣を、両方の手に握っているのだ。
クロナギは受けていた片方の剣を弾き返して、もう片方の剣を受ける。しかしまた、ソルは自由になったもう一方の剣で攻撃を仕掛けてきて……。
ソルの手元の動きは速すぎてよく見えない。矢継早に攻撃が降ってきて、クロナギはなんとかそれを凌いでいるという状況。剣と剣がぶつかり合う激しい音が周囲に響く。
ハルも、隣にいたおじさんも、周りの通行人たちも、目を見張って固まった。
「お、おいおい……何モンだ、あいつらは」
冷や汗を垂らしながらおじさんが言う。喧嘩に混じらなくてよかったと思っているんだろう。
空から振り落ちる無数の雨粒も、戦闘中のソルは気にならないらしい。服や髪が濡れる事もいとわずに、止まることなく斬撃の嵐を繰り出している。
クロナギは上手くそれを受け流しているように見えるが、ときおり擦った切っ先が、彼の服や頬に小さな傷をつけていた。
――と、受け身のクロナギに近づくのは、もう一人の厳つい竜人。
オルガはクロナギの背後に回り込むと、籠手と形容するにはごつすぎる鋼をつけた右の拳を振り上げた。
ただでさえパワーのありそうなオルガが腕に金属の塊をつけているのである。一体威力は何倍になるのか。あれで殴られたら頭蓋骨が砕けそうだ。
ドスの利いたかけ声と共に、オルガはクロナギに殴り掛かった。拳は雨を弾き、恐るべき重量感を持ってクロナギに突っ込んでいく。
「……っ!!」
ハルは悲鳴をのみ込んで、胸に抱えている麻袋をぎゅっと抱きしめた。中でラッチが「ぐえ」と声を漏らす。
しかしクロナギはソルの剣を弾くと同時に地面を蹴り、間一髪、オルガの拳をよけた。
よよよよかったぁ、と息をつくハル。
一方、オルガの拳の先にはソルがいて、その攻撃は図らずも彼に向かってしまった。
チッと舌を鳴らしたソルは持っていた二本の剣を交差させ、こちらへ突っ込んでくる重い拳を受け止めた――と同時に、派手に後ろへ吹っ飛ぶ。
雨に濡れた石畳を滑って滑って転がって、やっと止まったかと思うと、眉間にしわを寄せてゆらりと立ち上がる。
「もう少し考えて攻撃しろ、馬鹿力……」
恨めしげに言うソルに、オルガは意地悪く笑って言い返す。
「お前に『考えて攻撃しろ』とか言われたくねぇよ。本能だけで生きてるくせに」
「殺す」
「やってみろ」
あれ?
ハルは口をぽかんと開けて戸惑った。クロナギ抜きで戦闘が始まりそうな雰囲気だ。
「総長の人選は間違ってたな」
しかし、呆れたようにクロナギが言った一言で、二人の注意はまた彼に戻った。
「お前らじゃ俺に勝てない」
余裕の笑みを浮かべて、クロナギが相手を挑発する。
そしてこの分かりやすい挑発に、気持ちいいほど素直に乗るのがオルガとソルだった。
「んだと!?」
オルガが唸るように言い、ソルは殺意を滲ませて剣を握り直す。
戦闘能力だけで言うと、二人は竜騎士の中でもかなり上だ。
が、いかんせん単純なのである。
二人は怒りのまま、一直線にクロナギへ向かっていった。
「だ、大丈夫かな、クロナギ」
ハルはそわそわと体を揺らす。オルガとソルの攻撃は激しさを増し、息つく暇も無い。
防戦一方に見えるクロナギは、しかし冷静に相手の攻撃の隙をついて反撃をしているようである。何もかもが速すぎて、ハルにはよく見えないが。
「あいつら……竜人なのか?」
周囲の見物人の一人が、ふいにそう呟いた。彼の声は雨音と戦闘音にかき消える事なく、周りの人たちの耳に届いた。
「竜人? 竜人がどうしてこの街に?」
「知らねぇよ。でも、確かに彼らは竜人みたいだ。見てみろよ、あの動き。人間じゃない」
「最悪だ……。魔賊に、平和の森のドラゴンときて、今度は竜人かよ。この街は一体どうなっちまうんだ」
人々が恐怖に引きつった声で囁く。
やばい、皆が竜人だってバレちゃった。ハルは緊張気味に息をひそめた。
「でも噂通りの戦闘種族だわ。彼らにとっては、私たち人間を殺す事なんて簡単なんでしょうね。怖い……」
「ああ、奴らはきっとなんの躊躇もなく他人の命を奪うんだろう。性格は惨忍で冷酷だと聞いたことがある」
人間の中で、実際に竜人と会ったことがあるという人は少ない。
ここにいる見物人たちも、今日生まれて初めて竜人の姿を見たのだろう。
クロナギたちの事を知らない街の住人からすると、本気で戦う彼らの姿はとても恐ろしく見えるはずだ。ハルにはその気持ちがよく理解できた。
だけどクロナギは本当は優しいんだよ。そう周りの人たちに教えたくなる。理不尽に人間を傷つけたりしないから、怯えなくても大丈夫だと。
今だってクロナギは、ちゃんと周りを見て動いている。ハルや見物人たちを巻き込まないように、オルガとソルを上手く誘導して。
人間はあまり竜人の事を知らない。
知らないから怖いのだ。