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「人間に見つかるなよ」
そう言いながらクロナギが宿の部屋の窓を開ける。ラッチはぎゃうと鳴いて羽を広げると、そこから夜空へ飛び立った。
『平和の森』へ今日のごはんを調達しに行ったのである。
宿で出たハルの分の食事を少し分け与えたのだが、やはり足りなかったようだ。
ラッチの明るい橙色の体も、夜の闇には簡単にまぎれた。あれなら人間には見つからないだろう。
ハルはクロナギの望み通り毛布を首までかぶって、ベッドに横になった。狭い部屋の反対側にはもう一つベッドがあり、ラッチを見送ったクロナギが腰をかけている。
彼も今は上着を脱ぎ、少し楽な格好をしていた。黒い肌着の下で、しなやかな筋肉が隆起している。
「もうお休みになられますか?」
「うん」
クロナギが蝋燭を消すと、部屋は完全な暗闇に包まれた。
目をつぶって眠りにつこうとしたハルだが、しばらくしてゆっくりと目を開けた。
クロナギは自分のベッドに座って地図を広げている。旅の行程を確認しているのだろうか。
「申し訳ありません。煩かったでしょうか」
「ううん、違うの」
実際、紙を広げる音なんて全然しなかった。
こちらを見たクロナギの瞳が、暗闇の中で優しい輝きを放っている。
ハルは毛布を口元までかぶったまま聞いた。
「地図、ちゃんと見えるの?」
「竜人は夜目がききますから」
「ふぅん」
自分はそれほどでもないけどな、とハルは思った。混血だからだろうか。
まぶたを閉じる事なく、じっとクロナギを見ていると、彼は地図を畳んでこちらへ近寄ってきた。ハルのベッドの隣に膝をつく。
「眠れないのですか?」
「……ん」
クロナギは迷うように手を彷徨わせた後、遠慮がちに枕の上のハルの頭を撫でた。
髪に触れられる感触が気持ちよくて、猫のように喉を鳴らしたくなる。撫でている方のクロナギは別に気持ちよくなんてないだろうに、何故か幸せそうな顔をしていた。
「ねぇ、クロナギ」
「はい」
「私の父さまと母さまは、どうやって出会ったの?」
クロナギは一瞬過去に思いを馳せた後で、静かに説明した。
「我々が人間と交流を持ち始めて間もない頃のことです。人間の国で評判の音楽団をドラニアスに招いたのですが、フレア様はそこにいました。彼女は竪琴の奏者でしたから」
「へー! 知らなかった」
ハルの目が丸くなる。
母はよく歌を口ずさんでいて、それがとても上手だったのは覚えているが、竪琴を弾けるとは初耳だった。
「それがお二人の出会いです。最初はエドモンド様の方がフレア様に惹かれたようですね。一目惚れだとか」
無理もない。ハルはにんまりと笑った。母は超美人なのだ。
「身分を気にしてでしょうか、フレア様は初め、エドモンド様のアプローチを丁寧にかわしておられました。しかしそのうち、エドモンド様の気さくで優しい人柄に惹かれていったようです。お二人は心を通わせ、音楽団が国に戻っても、フレア様はドラニアスの城に残られました」
クロナギの低い声は耳に心地よく、ハルは本の中の物語を聞くように話を聞いていた。
「臣下の中にはエドモンド様が人間の伴侶を持つ事に反対する者もいましたが、元々これから人間と仲良くしていこうとしていた所でしたし、エドモンド様の説得やフレア様の人柄もあって、反対する者の人数は減っていきました。エドモンド様はフレア様に指輪を贈り、二人の結婚も近いと思われていたのです」
そこでクロナギの表情が暗くなり、ハルもつられて眉を垂れた。
父と母は結婚し、幸せに暮らしました。という結末なら、自分は今ここにはいない。ドラニアスで育っていたはずだから。
「しかしフレア様は突然エドモンド様に別れを告げられ、指輪を持ったまま、逃げるようにしてドラニアスから去っていかれました」
「何があったんだろう」
心配そうにハルが言った。当時の母の心情を想う。
クロナギはゆっくりと首を振った。
「分かりません。けれど推測する事はできます。私はその頃まだ未熟な竜騎士でしたが、フレア様の護衛を任されていました。近くでお二人の事を見守っていましたが、やはり種族の違いに悩まれていたのではないでしょうか。つまり――」
***
「ふぁあ、眠い……」
翌日、ハルたちは朝食を食べた後で宿を出た。相変わらずの曇天が続いているが、雨は降っていない。はっきりしない天気だ。
ラッチはクロナギの背の麻袋の中でぐっすりと寝ている。近づくと小さないびきが聞こえてきた。
「今日は少しこの街を見て回りましょうか。真っ直ぐドラニアスに行こうとすると、ジジリア国内ではこのトチェッカほど大きな街に寄ることはありませんから」
クロナギが言った。
「それにトチェッカは美味しいものが多い街として有名なのです。ここでしか食べられない物もたくさんあります」
「そういえば酒場が多いなぁって思ってたんだよね。ここの道沿いなんて食べ物の屋台がずらっと並んでるし。実は私もちょっと気になるものがあって、昨日どこかの屋台で見たんだけど……」
「眠い」と言っていたハルの足取りがいきなり軽くなった。昨日、屋台で見たドーナツが食べたいのだ。
最近流行のふんわり軽い食感のものではなく、昔ながらのしっかりした生地のドーナツのようだった。
ハルはふんわりドーナツをドーナツとは認めていない。ドーナツとは口の中の水分を奪われながら食べるものなのである。
(それか、カスタードのたっぷり入った甘いパイでもいい)
これも昨日屋台で見つけて目を付けていたものだ。確か上には刻んだアーモンドが乗っていたはず。
ハルは甘い物が大好きだった。
今ならラッチもお腹いっぱいで寝ているから、自分だけ美味しい物を食べているという罪悪感も味わわずに済む。
ハルはわくわくと財布を握りしめた。予算を決めて、その範囲内でどれだけ食べられるか考えるのも楽しい。屋台の食べ物はみんな安いのだ。
急に瞳を輝かせたハルに苦笑しつつ、クロナギも彼女の後を追った。
「ちょっと思ったんだけどさ」
カスタードのパイをかじりつつ、片方の頬をリスのように膨らませたハルが、後ろを歩くクロナギに声をかけた。ちなみにクロナギは甘い物が苦手らしく、ドーナツもパイも買っていない。もったいない。
「何でしょう」
「この街の人ってさ、あんまり活気がないよね」
「そうでしょうか?」
クロナギが首を傾げる。それは彼がこの街に対して抱いた印象とは真逆だったからだ。
「トチェッカは食の街ということで栄えていますし、どちらかというと活気があるように見えますが……」
特にハルとクロナギが今歩いてきた大通り周辺は、トチェッカの中でも最も賑わっている場所である。人通りも多く、活気が無いとは言いがたい。
ハルは口の中のパイを飲み込んでから言った。
「確かに私たちみたいに大きな荷物を持った人たち、つまり他の町からやってきた人たちは美味しい物を食べてトチェッカを満喫してる様子だけど……でもほら、見てみて。この街の住人たちはあんまり元気が無いみたい」
言われてみると確かにそうかもしれないとクロナギは思った。
この通りに店を開いている住人たちの顔を見ると、皆一様に少し暗い表情なのである。
客は多く、儲かっているようだから、店をやっていくのが苦しいわけではないだろうに。
クロナギはハルの観察力に軽く驚いた。失礼だが、甘い物にしか目がいっていないと思っていたから。
「よく気づかれましたね」
クロナギが言うと、ハルは手に持ったパイを見つめて悲しそうに説明する。
「だってこんなに美味しいもの売ってるのにさ、その屋台の人は全然幸せそうじゃないんだもん。甘いお菓子に囲まれて仕事するの、私にとっては夢みたいな事なのに」
ハルらしい理由にクロナギは笑いそうになったが、本人はごく真面目に言っているようなので懸命に堪えた。
ハルは前方にある屋台を指差し、続ける。
「ほら、あそこでタルトを売ってるおばさんも何だか暗い顔して…………って、何あれ? ナッツのタルトに、林檎タルト、チーズにカボチャ……ああ、種類がいっぱいで迷う! 何買おう!?」
「ハル様……」
キラキラした笑顔でタルトの屋台に駆けていくハルを止めることなど、クロナギにできるはずもなかった。