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今日は空が低い。
分厚い灰色の雲が天を覆っているせいだ。
「雨が降りそうだね。やだな、私雨具持ってないのに」
空を見上げてハルが言う。つられてラッチとクロナギも頭上を見上げた。
ラッチを故郷に帰すため――ドラニアス帝国に向けての旅は、今日で六日目。
屋敷を出る時、アルフォンスは少なくない額の金と、立派な馬、そして護衛の騎士を用意してくれた。ハルがドラニアスの帝位継承権を持っていると分かってから、やけに優しいのである。
しかしそれを受け取ってしまったら、ハルが皇帝の地位に就いた後にそれ相応の見返りを求められそうだったので丁寧に断っておいた。そもそも皇帝になるつもりもない。
アルフォンスは最後の最後までハルの出発を渋った挙句、ハルが考えを変えないと分かったら、
「これで君とお別れだなんて耐えられないよ。ドラニアスに着いたら必ず手紙を書いてくれ。これからもずっと仲良くしていこう」
などとも言っていたが、それも下心満載のセリフだという事は明白なので、もちろんもう二度と仲良くするつもりはない。
母にしつこく言い寄っていた事は忘れないし、母を困らせる人間はハルにとって敵なのである。
一応ご領主様には手紙を残して――直接話した事はほとんどないので名前を覚えられているか微妙だったが――今までお世話になった感謝と最後の挨拶ができなかった謝罪を綴っておいた。
そしてそこには、これまでのアルフォンスの女好きな態度やら、今回の一件に関してまったく頼りにならなかった点を控えめにだが詳細に書いて告げ口しておいたので、再教育を施してくれる事を祈るばかりである。
さて、そんなアルフォンスとも無事に別れて、今ハルたちは『平和の森』と呼ばれる森の中にいた。
魔獣の出現が少ないから『平和』などという名称を付けられているらしいが、その名の通り平穏無事にここまで来ることができた。森を切り開いてつくられた一本道を歩いていたから迷う事もない。
そしてこの広大な森を抜ければ、今日の目的地トチェッカに着くはず。トチェッカは人口の多い比較的栄えた街で、今夜はそこで宿をとるのだ。
クロナギは不安定な空からハルに視線を戻し、言った。
「トチェッカに着いたら雨具を買いましょう。雨に降られて体が冷えたら大変です」
「うん、そうしよう」
ハルは頷いた。自分は竜人の血を引いているとはいえ、体の弱かった母親の血も継いでいるわけで。
今まで風邪をひいた事はなかったが、これからはどうか分からない。旅の途中で体調を崩せばクロナギにも迷惑がかかる。そう思った。
「あ、前から人が来たよ」
ハルが声を上げる。森の中の一本道を、正面から人が歩いてきたのだ。ハルたちと同じく、旅の途中と思われる風貌だった。
ハルの隣を飛んでいたラッチが、急いでクロナギの背中に戻る。
クロナギは自分の荷物の他に空の麻袋を背負っていて、人の目がある時はそこにラッチが隠れるのである。体力のあるクロナギにとっては、子竜を背負って歩く事など何の負担にもならないらしい。
彼に任せてばかりでは悪いからと、一度ハルが交代を申し出たのだが即座に却下された。
実際ラッチは結構重いので、クロナギの協力にはかなり助けられている。彼が一緒に来てくれてよかった。
旅人とすれ違い、二組の間の距離が離れると、ラッチが袋からひょっこりと顔を出す。
「街に入ったら宿の中以外では袋から出ちゃだめだよ。窮屈だろうけど我慢できる?」
ハルが尋ねると、ラッチは『できる!』と言うように高く鳴いた。
***
「この外套、どう思う?」
「よくお似合いです」
店の商品を試着したハルに、クロナギが迷いなく答える。
「いや、お似合いかどうかじゃなくて品質的な事をさ……」
照れて赤くなった顔を隠すため、ハルは外套のフードを深くかぶった。
平和の森を平和に抜けてトチェッカに着くと、ハルたちはまず雨具を探す事にした。今にも雨が降り出しそうだったからだ。
そしてちょうどいい店を見つけて中に入ると、可愛い若草色の外套を見つけて試着した。
他のものは黒や紺といったものが多いが、雨の日くらいは晴れやかな色を着たいと思っての選択だ。
たぶん十二才位の子ども向けのものだという事は知らない振りをしよう。大きさがぴったり合うのが悲しくなるから。
この外套は防水性の高い糸で織られており、雨を弾く。どしゃぶりの雨だった場合は水が染みてきてしまうが、それは仕方がない。雨を完璧に防いでくれる外套など、魔術を使わなければ作れないのではないだろうか。
「まぁ、これでいいや」
ハルはこの外套を買う事に決めた。ちなみにクロナギはすでに黒い外套を持っていて、雨具はいらないらしい。
領主の屋敷では竜騎士の軍服を着ていた彼だが、今は当たり障りのない服装で人間たちに紛れている。
が、やはりその鍛え抜かれた体や、鋭くも整った顔立ち、隙のない所作は隠しきれるものではない。
さすがに一目見て竜人だと気づく者はいないが、人間ばかりの街ではクロナギは少し目立った。
ハルは何か言いたげな目でこちらを見てくるクロナギを無視し、自分の金で外套を買った。彼は金銭的にもハルを助けたいと思ってくれているらしいのだが、そこまで甘える事はできない。
基本的に旅の費用は折半にして、自分のものは自分で買う。それがハルの理想だ。ハルも給料を貯めていたし、僅かだが母が遺してくれたお金もある。クロナギに依存しなくても贅沢しなければやっていける。
「だいたい、私の事『主』とか言うなら、金銭的に頑張らなきゃいけないのは私の方だよ。従者におごってもらう主人なんていないもの」
財布を出す機会を与えられず、何故か恨めしげな表情をしているクロナギにハルが言ったが、こう返されて終わりだった。
「それとこれとは別です」
えー、別なのかなぁ。そう思いつつもハルは口をつぐんだ。「じゃあ奢って下さい」と返されても、今の自分にはクロナギを養う甲斐性なんてないからだ。
心配するまでもなく、彼はそんな事言わないだろうが。
その日はもう夕暮れが近かったので、適当な宿を選んで体を休めた。
「ハル様と同じ部屋で眠る無礼をお許しください」と大げさに膝をつくクロナギに、「毎回毎回謝らなくていいから! 私気にしないから、そんなの」と慌てる。
「だいたい私は皇帝にならないんだから。堅苦しい敬語とかやめてさ、友達のようなノリでいこう」
ベッドに腰掛けたままそう言って軽く誘ってみたが、厳しい視線で一蹴された。クロナギは真面目だ。
(というか同じ部屋で寝るんだから、主従の部分より、男女の部分を気にしてほしい)
などと一旦は思ったものの、しかし冷静に考えてみれば、クロナギにとってはハルなど女ではないのかもしれない。
クロナギは二十五、六歳に見えるし、きっとハルのような小娘は子どもに見えるのだろう。
だから男女の部分を気にする必要は無いし、薄い寝間着姿でも恥ずかしがらなくていいのである。そうハルは判断した。
「ハル様」
「うん?」
「毛布を……」
しかしそろそろ眠ろうと思っていたハルが、二の腕や膝の出た寝間着でベッドに座っていると、クロナギが何やら複雑な表情で早く毛布をかぶるようにと進めてくる。
そうして座っているハルの体を毛布で頭までくるくると包むと、ものすごく真剣な顔でこう訴えてきた。
「いいですか。同じ部屋に男がいるのに、上着も羽織らずにそのような格好でおられるのは感心しません。特に他の男の前では絶対に駄目ですよ、そんな無防備な姿を晒しては」
「ハーイ」
適当な返事をしたハルに、クロナギの瞳が厳しさを帯びる。
「ちゃんと分かっておられるのですか? 私がお側にいる限りは下心のある男など近づけさせませんが、ハル様ご自身にも警戒心を持っていただかないと」
毛布できっちり梱包されたハルの肩をクロナギが両手で掴み、言い聞かせる。
「特にハル様と同年代の少年などは異性に対しての興味が深まる年頃ですから、年が近そうだからといって気安く話しかけたりなさらぬよう。しかし、かといって年上もいけません。人間の男はいくつになっても邪な事を考えて生きているのです」
「すごい偏見」
「十代から六十代くらいまでの男には最大限の注意を怠らぬようになさってください」
ハルの呟きはきれいに無視された。
「それじゃ私、幼児とお爺さんとしか話せないよ」
「それで十分です」
「……そんなんじゃ恋人できない」
「恋人?」
地を這うような声で返されて、一瞬びくりと肩をすくめる。薄暗い部屋の中で、クロナギの目が鋭く光った。
「恋人などハル様には早過ぎます」
ぴしゃりと言い切られてしまったので、ハルはもうそれ以上反論しなかった。どうやらクロナギは、男女関係については母よりも厳しいらしい。