ハル、海へ行く
ハル15歳の頃の話。
ギャグ回です。
おかげ様で『平凡なる皇帝』の3巻が本日(2/15)発売になります。書き下ろし短編に加えて加筆もありますので、web版を読まれた方も楽しんでもらえれば嬉しいです。
また、コミカライズも決定しました。
『ヤングエースUP』様での連載です。
連載開始日などはまた活動報告でお知らせします。
「え? 海に連れて行ってくれるの?」
ハルがドラニアスの皇帝になって一年ほど経った頃だろうか、部屋を訪ねてきたレオルザークの提案に、ハルはパッと顔を明るくした。
「今までは微妙な反応だったのに、急にどうして?」
海に遊びに行きたいと言ってもレオルザークは上手くはぐらかしてきたのに、とハルは疑問に思った。岩場ばかりのドラニアスの海はハルには危ないとレオルザークは思っているのだ。
レオルザークは言う。
「陛下の海に対する興味はいつまで経っても褪せないようですので、一度くらい行ってもいいかと思ったのです」
「やった!」
ハルは執務机から立ち上がって喜んだ。
レオルザークに貰った貝殻をビンに貯め、それを眺めながら「いいなー、海……」などと寂しげに言い続けてきたのがよかったのだろうか。
「嬉しい! ありがとう、レオルザーク!」
「いいえ」
ハルがはしゃぎながら抱きつくと、レオルザークは表情を緩めて少しほほ笑みを見せた。
「いつ行く? 今日? 今日行くの?」
「いえ、明日の午前に……」
「明日かぁ! 楽しみ~!」
嬉しすぎてレオルザークの手を取ったまま適当なダンスを踊ってみたが、レオルザークは乗ってくれなかった。同じ部屋にいたクロナギやアナリア、ヤマトと侍女たちは笑っている。
レオルザークは続ける。
「明日は海の生き物を研究しているという学者も一緒に連れて行きますから、彼に尋ねれば何でも答えてくれると思いますよ」
「そうなんだ! 分かった、ありがとう!」
ハルは笑顔で答えた。明日が楽しみすぎて、今日は一日浮かれたままになりそうだ。
そして翌日。
クロナギ、アナリア、オルガ、ソル、ヤマト、コルグ、トウマという紫の七人とレオルザーク、それにレオルザークの部下の竜騎士たちと一緒に、ハルはドラニアスの東の海に来ていた。
話に聞いていた通り、そして空からドラゴンに乗って見ていた通り、海岸は砂浜ではなく、ごつごつとして歩きにくそうな岩場だった。
海の波も穏やかではなく、何度も海岸の岩にぶつかって白波を立てている。
「波がすごいね」
「これでも今日は穏やかな方です。ですがハル様はあまり海の近くには行かないようにしてくださいね」
「分かった」
クロナギに言われて、ハルは大人しく頷く。
できれば浅瀬で遊びたいと思っていたのだが、この海には浅瀬なんてないのかもしれない。あの岩場の先の海はもう、ハルの足がつかないくらい深そうだ。
(岩場ばかりだって事は聞いてたけど、実際にこの場に来ると、思ってたよりもなんか……地味……)
ハルは密かにそう思った。海の色は暗く、岩も黒や茶色だ。
なのでとりあえず、『青い空の下に広がる白い砂浜と、陽光にきらめく美しい海。砂浜に散らばる色とりどりの貝殻』という想像上の海の光景は、頭の中から消し去る事にした。そんな海は夢でしかなかったのだ。
とはいえ、念願の海に来る事ができたハルの喜びは薄れなかった。わくわくしながら、転ばないように注意して岩場を進む。
「カニいるかな? カニ探そう」
岩場には窪みがいくつもあり、そこに海水が溜まっているので、海に入らなくても可愛い魚やカニが取れるかもしれない。
「あ、ハル様! いいもの見つけましたよ!」
とそこで、近くにいたコルグがハルを手招きした。コルグも海水の溜まった窪みで何か見つけたようだ。
「何? カニいた?」
「カニではないですけど、面白い生き物ですよ」
コルグは嬉しそうに言った。これを見たらハルが喜ぶと思っているのだろう。
「イソギンチャクです」
「イソギンチャク?」
ハルはコルグが指差す先を覗き込み、「ひっ!」と声を上げた。
そこにいたのは、赤紫色の見たこともない触手生物だった。円筒形の小さな体のてっぺんに、いくつもの触手が生えている。
「なにあれ……」
「イソギンチャクです」
コルグはにこにこしながらそれしか言わないので、ハルは解説を求めてある人物を呼んだ。
「先生ー! こっちに来て」
ハルに先生と呼ばれた人物は、護衛の竜騎士たちの奥からのっそり歩いてきた。彼が、昨日レオルザークが言っていた海の生き物を研究しているという学者なのだ。ハルはここに来る前にすでに彼の紹介を受けていた。
学者の名前はノーマンと言って、歳は三十半ばくらい。髪はボサボサで猫背だ。ちょっと怪しい容貌をしている竜人である。
けれどハルは人見知りする事なく、ノーマンに話しかけた。
「先生、このイソギンチャクっていうのは何? どういう生き物なの? 何を食べて生きてるの?」
「これは小さい魚なんかを取って食うんですよ」
ノーマンはハルの隣にしゃがみ込んで説明する。
「イソギンチャクは毒を持っていましてね、あの触手に魚が触れると、魚は麻痺して動けなくなるんです。それでその間に丸呑みにするんです」
想像通りの怖い生き物だとハルは思った。
ノーマンは立ち上がると、「こっちにもっと大きなものもいますよ」と、ハルを海の近くに連れて行く。
危ないのでクロナギと手を繋ぎながら海に近づくと、確かに波の下で大きな触手が揺れていた。
色は灰色で、触手の長さはハルの指先から肘くらいまである。しかもそれが数え切れないほど――何百本と海の底に張り付いているのだ。
「きゃあ!」
ハルは思わず悲鳴を上げてクロナギの腕に抱きつく。
しかしノーマンは冷静にこう言った。
「こいつはでかいですが、どうやら肉食ではないようなんです。まだ研究中なんですが魚を襲う様子はなく……植物みたいに光を浴びて生きてるんじゃないかと予想しています。大人しいやつですよ」
「大人しくてもちょっと怖いよ……」
ここに落ちたらと思うとゾッとしてしまう。
首をすくめ、自分で自分の体を抱きしめているハルを見て、今度はトウマが声を上げた。
「コルグ。馬鹿か、お前は。イソギンチャクなんてあんな気持ち悪い生き物、ハル様は怖がるに決まってるだろ。ハル様は海の生き物に慣れてないんだ」
トウマはコルグにそう文句を言うと、次にはハルを見てにこっと笑顔を作って続ける。
「ハル様、こっちに来てください。俺がコルグよりも面白い生き物を見つけましたよ」
トウマに手招きされるまま、ハルはそちらに歩いて行く。
「面白い生き物って何? カニいた?」
「カニじゃないです。ハル様はダンゴ虫って知ってます?」
「石の下とかにいる小さい虫でしょ? 丸くなるやつ。知ってるよ。それがどうしたの?」
「海にもダンゴ虫みたいなやつがいるんです」
「へー、溺れないの?」
ダンゴ虫にあまり興味はないけれど、小さい頃はよく捕まえて遊んだりしていたので、イソギンチャクと違って怖くない。
しかしハルがトウマの指さす岩の窪みを覗き込むと……
「ひーっ!」
「ね、ダンゴ虫みたいでしょ?」
そこには平べったい巨大なダンゴ虫が五匹も寄り集まって、岩に張り付いていた。
ハルは顔を引きつらせて、しゃがんだ体勢から後ろに尻もちをつく。
確かにダンゴ虫に似ているが大き過ぎる。ダンゴ虫はあのサイズだから触れるのであって、それが大きくなると恐怖の対象だ。
「これはヒザラガイですね」
そこへノーマンもやって来て言う。
「普通のヒザラガイは陛下の手のひらよりも小さいですが、ドラニアスの海に生息している奴はその三倍はあるんですよ。こいつらもそうですね。大人の手のひらからはみ出すくらい大きいです」
岩場の暗がりに張り付き、じっと動かない巨大な五匹のダンゴ虫。
その光景を見ていると、ハルは無性に不安になり、全身に鳥肌を立てた。
「こわい……。イソギンチャクもヒザラガイもこわい」
「え、これも怖いですか? 虫っぽいから大丈夫かと思ったんですが……」
トウマは申し訳なさそうに言った。
虫っぽいから、しかも巨大だから怖いのだ。
「私……私は可愛いカニを探して……」
ハルはふらふらと立ち上がって、心を癒やしてくれるような生き物を探した。いつかレオルザークが獲ってきてくれたような、小さくて可愛いカニが見たい。小さいハサミを上手に使って何か食べたり、ちょこまかと歩いているところが見たい。
「お、見てみろハル。ナメクジがいたぞ」
そこで今度はオルガに腕を引かれた。
「ぎゃあ! なにそれ!?」
オルガが掴んでいたのは形も色もナメクジにそっくりな、けれど大きさは三十センチほどもある気味の悪い生き物だった。
またノーマンが解説をしてくれる。
「アメフラシですね。海藻などを食べる、穏やかな生き物です。毒もないですから触っても大丈夫ですよ」
「だってよ。触ってみろよ、ハル」
巨大ナメクジにおののいているハルを、オルガは完全に面白がっている。
「いいよ、遠慮しとく……! だってなんか、紫色の汁が出てるし……本当に毒ないの? これ」
「敵に襲われると紫色の汁を出すんです。アメフラシは毒素のある海藻を食べる事によって毒を持つ者もいるんですが、この辺のアメフラシは毒のない海藻を食べているので、毒は持っていないですよ」
ノーマンはオルガの持っているアメフラシを可愛がるように、頭を指で撫でながら続ける。
「アメフラシとよく似た生物にウミウシというのがいますが、地味なアメフラシを比べて、ウミウシは形や色がとても多彩なんです。綺麗で見ていて飽きないものも多いですよ。体もアメフラシより小さくて可愛らしいですし」
「そっちが見たかった……」
ハルはしょんぼりして言った。何故ここには地味で奇妙な生き物しかいないのか。
今度こそカニを探すべく視線を巡らせると、岩にびっしり張り付いているツブツブを見つけて、ハルはじんわりと手に汗をかいた。
「何、あれ」
「フジツボです」
ノーマンはフジツボを見慣れているらしく、淡々と答えた。
「なんか……見てたら背中がぞわぞわする」
大量のツブツブはちょっと気持ち悪いなと思いながらそこから目を逸らす。
と、トウマが何か捕まえたらしく、小さな生き物を手のひらに乗せてこちらに走ってきた。
「ハル様! 見てください! フナムシ捕まえましたよー!」
「虫はもういいよ!」
「フナムシはすばしっこいのに、よく捕まえましたね」
フナムシを持つトウマから目を背けるハルとは対称的に、ノーマンは感心したように言う。
するとトウマに対抗したのか、コルグも磯にいた小さな生物を捕まえて駆け寄ってくる。
「ハル様! 俺も虫っぽい何かを捕まえました!」
「イソヘラムシですね」
ノーマンが言い、
「虫はもういいんだってば!」
ハルが嘆く。
「カニを……カニを探してよぉ……」
「陛下、見てください。ナマコです」
「カニ……」
ノーマンが差し出してきたのは、赤黒い棒状のブヨブヨとした生き物だった。ハルはちょっと泣いた。
「ナマコは毒がないですし、噛み付いたりもしてきませんから、素手で触っても安全ですよ。陛下、是非触ってみてください」
「え……」
「せっかくですから」
「うう……」
これも勉強と思って、ハルは意を決してナマコを触ってみた。
しかし触ってみると、お尻から――どっちが頭なのかお尻なのかはハルには分からなかったが――勢いのない水鉄砲のようにちょろちょろと水が出てきた。
ノーマンはハルの手に自分の手を重ねてナマコを握りながら言う。
「こうやってもっと強く刺激すると……ほら」
「いやぁぁ! 何か出てきた!」
「これは腸です」
「いやぁぁ!」
ナマコから内臓が出ているのにノーマンは楽しそうに笑っている。学者は何を考えているのか分からない。
「ハル様……」
「うぅ、クロナギ……」
クロナギが慰めるように肩に手をおいてきたので、ハルは振り返って抱きついた。海には恐ろしい生き物がいっぱいいる。
しかし今まで見つけた生き物たちはまだ可愛い方だったのだと、ハルは次の瞬間に思い知る事になる。
「……え? 先生っ――!!」
視界の端にうごめく何かが映ったかと思えば、それはノーマンの足を掴んで、彼を勢いよく海へと引きずり込んだのだ。
「先生! 先生がっ!」
あっという間に引きずり込まれたノーマンを追って、ハルは海を覗き込んだ。隣ではクロナギとアナリアがぴったりくっついて、ハルが海に落ちないように支えてくれている。
「行け」
そしてレオルザークが短く指示を出すと、護衛として付いて来ていた黄の竜騎士たちが剣を手に次々に海に飛び込んでいった。
面白そうだと思ったのか、オルガとソルまで飛び込んで海に潜っていく。
「少し離れましょう」
クロナギに促されて後ろに下がりながら、ハルは顔を青くして尋ねた。
「今の何だったの? 大きな触手が先生の足を掴んだように見えたけど……」
「タコの足のようでした。けれどあんなに大きなものは見た事がありません」
「タコ……?」
ジジリアの内陸部で育ったハルは、小川でカニを目にする事はあってもタコは見た事はなかったし、その存在も知らなかった。
「タコって何?」
「あれです。上がってきました」
クロナギはハルをさらに下がらせながら、海の方を目で指し示す。
そこではオルガやソル、黄の竜騎士たちが、巨大なタコを陸へと引き上げていた。タコは吸盤のついた八本の足を持つ、ぐにゃぐにゃとした骨のない不気味な生き物だった。海の中で竜騎士たちと格闘して負けたのか、タコはすでにほとんど動かなくなっている。
ハルは今日何度目かになる悲鳴を上げてクロナギとアナリアの体の陰に隠れたが、すぐにハッとして言う。
「先生! 先生は!?」
「……ここです」
ノーマンは黄の竜騎士に支えられながら海から上がってきた。ゲホゲホと海水を吐いてはいるが、怪我はなさそうだ。
「先生、大丈夫?」
「大丈夫です、陛下。私も一応竜人ですから」
心配して駆け寄ってきたハルを安心させるように、ノーマンは少し笑ってみせた。そして髪や服から水を滴らせながら、動かなくなった巨大なタコを見て興奮気味にこう言う。
「しかしこんなに大きなタコがこの辺りの海に潜んでいたとは。飛竜よりも大きいじゃないか」
そこでハルの方を見て続ける。
「沖の方へ行くと巨大な魚もたくさんいるんですが、タコでこれだけ大きいのは初めて見ましたよ。しかもそのタコに襲われるなんて……貴重な経験ができました」
トラウマになるどころか、ノーマンはタコに襲われた事に感動しているようだった。
「いやー、やっぱり海の生き物は面白いなぁ」
「おい、こいつ持って帰って食おうぜ」
しみじみと言うノーマンと、タコを指さして言うオルガに、ハルは気が遠くなった。ノーマンはタフ過ぎるし、オルガはこんな不気味な生き物を食べるなんてどうかしている。
けれど他の竜騎士たちもオルガの言葉には頷いているので、ドラニアスではタコを食べるのは普通なのかもしれない。
ハルは文化の違いを感じながら、涙目で後ろにいるレオルザークを振り返った。
「レオルザーク……。もう帰る……」
「陛下、これを」
両手で包むように何かを持っているレオルザークにとぼとぼと近寄って行くと、レオルザークはゆっくり手を開いた。
すると中には、暗い赤色の甲殻を持つ、二センチほどの小さなカニがいた。
「わぁ! 小さい! 可愛い!」
「カニの子どものようです」
「よく見つけたね、こんな小さいの」
ハルが指先でちょんと触ると、カニは驚いてレオルザークの手のひらの上をわたわたと逃げ回り、最終的に指の付け根の隙間に入り込もうとしていた。
「レオルザークはカニを見つけるのが上手だね」
「お褒めに預かり光栄です」
ハルがニコニコ笑って言うと、レオルザークは真面目にそう答えた。後ろの方でヤマトやトウマが「カニ総長」「カニ総長だ」などとひそひそ言い合っているが、後でレオルザークに叱られるだろう。
「癒される……」
レオルザークの手の上でそろそろと動き出したカニを見て言う。探るようにレオルザークの皮膚をハサミでつまんでみたりしているが、あまりに小さなハサミなのでレオルザークは何も感じないようだ。
「可愛い」
最後に子ガニを見られた事で、イソギンチャクから巨大タコ襲撃までの衝撃を幾分回復する事ができ、ハルは満足して海を後にした。
……ちなみにその日の夕食に巨大タコの刺し身と唐揚げが出たのだが、勇気を出して食べてみると意外と美味しかったのだった。
「フナムシ」ってどんなんだったっけ?と思っても、虫が苦手な人は画像検索してはいけない…
(この話を書くにあたって画像検索してしまった作者より)