10
翌日、ハルは何故かアルフォンスと一緒に朝食をとるはめになっていた。
彼はハルがドラニアス帝国の次期皇帝になるかもしれないと知って、態度を変える事にしたようである。
今まで食べた事のないくらい柔らかなパンを口に押し込みながら、ハルはうんざりした目でアルフォンスを見ていた。
「いや、ハルの事は以前から普通じゃないとは思っていたんだ。皇帝のオーラがある、とね」
嘘をつけ、とハルは思った。
ハルに帝位継承権があるとクロナギが言った時、アルフォンスは「何を馬鹿げた事を」とか「この娘はうちで働くただの下女だぞ」とか言ってたはずだ。
(ちゃーんと覚えてるんだからね!)
ハルのしらけた視線に気づいたのか、アルフォンスは肩をすくめて言った。
「まぁ、それでも最初はやっぱり信じられなかったが……しかしその指輪! それにその瞳!」
急に大きな声を出されて、ハルは大きく肩を揺らした。
ずっと後ろに控えていたクロナギが腰の剣に手を置く気配がしたので、「こんな事で剣を抜いちゃだめ! ちょっとびっくりしただけだから!」と、視線で制する。
クロナギは静かに剣から手を離した。
護衛に徹している彼の顔は、ハルと二人で話していた時と違って無表情で冷厳だ。そしてすごく無口。刺すような視線で常に周囲に目を光らせている。まさに番犬。
自分を守ってくれているとはいえ、こんな人に背後に立たれると恐いな、と護衛され慣れていないハルは冷や汗をかく。
ハルと向かい合ってテーブルに座っているアルフォンスも、さっきから何度かハンカチで額の汗を拭いている。そこの位置まともにクロナギと目が合うもんね、と同情した。
「指輪と目ですか……」
ハルは食事の手を止めて、左手を少し上げた。その中指で、カミラから取り戻した母の形見の指輪が輝いている。
今朝、クロナギが説明してくれた話によると、この指輪は代々皇帝一族に受け継がれてきた由緒あるものらしい。
皇帝は自分の伴侶と決めた人物にこれを贈り、求婚する。求婚された方は指輪を受け取り、はれて皇帝の妻や夫となる。
そして二人の間に子供ができると、指輪はその子に受け継がれるのだ。
サイズを合わせるため、金の台座はその時々で新しいものに変えられるが、指輪につけられている大きな緑金の宝石はずっと同じものが継承されている。
そして宝石と同じ色のハルの瞳も、皇帝一族にだけ遺伝する特別な色なのだそう。
指輪についている緑金の美しい宝石は、人間たちの間では『竜の石』と呼ばれているが、竜人たちの間では『皇帝の石』と呼ばれているらしい。皇帝の目と同じ色だからだ。
昨日、あの森でハルが意識を失った後、アルフォンスもクロナギからこれらの話を聞いたのだろうか。だから私が帝位継承者であることを急に信じたのかな。
ハルがぼーっと考えているうちに、膝に乗せていたラッチに朝食のハムを奪われた。
「ところでカミラ様……カミラさんはどこに?」
続いて奪われそうになった目玉焼きを死守しながら、ハルがアルフォンスに訊く。
「地下牢にいるよ。ちゃんと杖を取り上げて、監視もつけてるから安心して」
ウインクと共に答えを返されて、ハルは彼からちょっと体を引いた。
「カミラの処分は君の望む通りに行おう。なんせ彼女は、指輪を奪うために君を殺そうとしていたんだからね。ドラニアスの皇帝の血を継ぐ君を! 恐ろしい女だよ、まったく。僕もすっかり騙された」
自分も被害者だというようにアルフォンスが言う。
カミラの事は別に恨んでいない。結局自分は無事に生きているし、指輪も返ってきたからどうでもいいというか……。
「なら完全に許したのか」と聞かれると、そうでもないような気がするし、「カミラとこれから仲良くしたいか?」と聞かれると、それは絶対嫌だとも思う。
ハルは言う。
「カミラさんの事は恨んでいません。でも何かしらの罰がなければ、また同じような事を繰り返してしまうのかなぁとも思います。それで他の誰かがまた被害を受ける可能性もあるし……。だけど彼女の処分を私に一任されても困るので、そこはアルフォンス様のお父上、ご領主様に任せます。カミラさんは私を普通の下女だと思っていた、ドラニアスの帝位継承者だとは知らなかった、という事を考慮してあげてください」
ハルは淡々と言った。今は所用で屋敷を出ているアルフォンスの父は、息子に比べればまともで公平な判断ができる人物だ。カミラにも、重すぎず軽すぎない罰を与えてくれるだろう。
「分かった、父に伝えよう」
食事を終え、口元をナプキンで拭ったアルフォンスは、ぐいとテーブルに身を乗り出すと、
「ところで相談なんだが。君が故郷に帰ったら、ドラゴンを少し売ってくれないか? 欲しがる者はいっぱいいるから、いい商売になると……」
内緒話をするようにコソコソと伝えられた提案は、ハルが口を出すまでもなく、ラッチの唸り声とクロナギのひと睨みで却下された。
「さて、と」
使用人部屋に帰ったハルは、自分の持ち物を全て鞄に詰め込み、一息ついた。
昼間の今、下女たちは皆仕事中で、部屋にはラッチ以外誰もいない。部屋が狭いので、クロナギは扉の外で待機中だ。
ハルがドラニアスの帝位継承者であることは、屋敷中の人間に広まってしまったらしい。廊下を歩くと、すれ違う使用人たちが好奇心もあらわに皆ちらちらとこちらを見てくるのだ。後ろにクロナギとラッチを引き連れているせいもあるだろうが。
「さぁ行こうか、ラッチ」
貯めていたお金を全部詰め込んで、ハルは鞄を背負う。ラッチは「きゅん」と可愛く鳴いて後をついてきた。
扉を開けて使用人部屋を出ると、ハルが中で何をしていたのか知らなかったクロナギが、彼女の背にある荷物を見て聞いた。
「その荷物は……?」
ハルは軽く肩をすくめて言う。
「私、ここを出るから」
「ドラニアスの皇帝になっていただけるのですか?」
「や、違う」
急いで否定する。
「ドラニアスには行くつもりだけど……でも、それはラッチを故郷に帰すため」
もうこの屋敷には居づらくなってしまったし、ちょうどいい機会だとハルは思った。
とりあえずドラニアスにラッチを送り届けて、その後の事はまた考えよう。
強い竜人ばかりがいるドラニアスで弱いハルが無事に生きていけそうにはないから、人間の国に戻って何か違う仕事を探すことになるだろうけれど。
「そうですか」
クロナギが言う。
そのあっさりとした反応にハルは拍子抜けした。別に反対されたい訳ではないのだが。
「あれ、いいの? 私皇帝にはならないよ?」
念を押すと、クロナギは苦渋の表情で答えた。
「……ええ、ハル様がそう望まれるのなら仕方ありません。昨晩、ハル様と話をした後で考えたのですが、貴方が皇帝になる事に反対する者は確かに出てくるでしょう。そういう者たちもハル様の事を知るうちに感化されていくと私は確信していますが、それまでに貴方を排除しようと行動を起こす者もいるかもしれない」
「昨日言ってた話だね。混血の私の事を、殺そうとしてくる人もいるかもって」
「はい。ですから、そういった危険があると分かっているのに、嫌がるハル様に『皇帝になってくれ』とは言えないと思ったのです」
「そっか」
皇帝にならなくてもいいのなら一安心だ。はっきりとした覚悟がないのに、皇帝という重い地位には立てない。
ハルは少し寂しそうに言った。
「じゃあクロナギとはもうお別れかな?」
次期皇帝でもなんでもないハルに、クロナギが付き従う理由はない。そう思ったのだが、彼の気持ちは違ったようだ。耳をくすぐるような低音の声で言う。
「何故です? 皇帝になられなくとも、ハル様が私の主人である事に変わりはありません。ハル様がラッチをドラニアスに帰すおつもりなら、私も共に参ります。常にお側に」
「えー! 私、いつの間にクロナギの主人になってたんだろ」
途方に暮れるハルの顔を見て、クロナギはくすりと笑った。
彼女の前で跪いて手を取ると、あわあわと慌てるハルの指輪に口づけを落として言う。
「私は貴女だけの騎士です、我が君」