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ハルはとても平凡な女の子だった。
自分ではくりっと丸い目が可愛いんじゃないかと思ったりもするけれど、美人というには何かが足りない顔立ちだし、髪もありふれた薄茶色だ。
生まれたときから父親がおらず、母親も三年前に亡くなった、という家庭環境に少し特徴はあったが、しかし世の中を見渡せば親のいない子供もそれほど珍しくはない。
今は地方の一領主の屋敷で下女として働き、地味に暮らしている。
なにもかもが普通。
それが自分の特徴であるとハルも分かっていたし、また、その特徴を受け入れていた。
しかしその平凡な人生にも、多少の良い事、悪い事は起こる。
母が亡くなった事は、ハルの人生において一番の悲しみだった。自分と違って美しく、春の女神のように柔らかで優しかった母。小さい頃は、どうして自分は母親に似なかったのかと悲しんだものだ。それならもっと美しい容姿を持って生まれてこれたのに、と。
『あなたは髪の色は私と同じだけれど、それ以外はお父さんにそっくりね、ハル』
母にはよくそう言われていた。なので、ハルの中の父親像というのは、自分とそっくりの平凡な男だ。美人の母がどうしてそんな男を選んだのだろうかと、今でも不思議に思ったりする。
***
「ハル、これ洗濯終わったよ! 持ってっとくれ」
「はーい」
先輩下女に声をかけられ、ハルはパタパタと彼女の元へ駆けつけた。桶に水を張って洗濯をしている彼女から綺麗になった衣類を受け取り、かごに入れて運ぶ。ここから少し離れた、日当りのいい南側の庭に干すのである。
濡れた衣類は結構重い。体力も平凡なハルが息を切らせながら屋敷の外回廊を横切った時、同じくそこを通りかかった二人の人物と出くわした。
領主の息子のアルフォンスと、彼に仕える魔術師のカミラだ。
アルフォンスは少し垂れ目の甘い顔立ちの美青年で、性格も温厚。それ故この屋敷で働く侍女や下女、それに市井の婦女子からの人気も高い。
一方その隣にいる魔術師のカミラも、外見はなかなかに麗しい。よく手入れされた長い髪と、魅惑的な赤い唇が特徴的な女性だ。
仲良く談笑しながら歩く二人の間には、単なる“領主の息子とそれに仕える魔術師”以上の空気が流れている。ハルはふと、よく下女の皆がしている噂話の一つを思い出した。
最近入った魔術師のカミラはアルフォンス様のお気に入りらしい、とかなんとか……。
自分には全く関係のない話なのでしっかりとは聞いていなかったのだが、今、目に映る光景を見るに、結構信憑性のある噂だったらしい。
アルフォンスは優しげな笑みを浮かべてカミラを見つめ、彼女もまんざらではない様子でその視線を受け止めている。
お似合いの二人で結構結構。ハルはそう思いつつも、どこか釈然としない気持ちもあった。
なぜなら今カミラに熱を上げているアルフォンスは、ほんの数年前まで、ハルの母であるフレアに熱烈なアプローチをしていたからだ。
生前、この屋敷で働いてハルを養っていたフレアは、確かに三十代にしては若く美しかった。その時はまだ十九歳だったアルフォンスが、年の差を考えずに惚れてしまうのも仕方ないと思えるほど。
しかしハルからすれば、若い男が自分の母に言い寄っている場面を見るのは、あまり気分のいいものではない。母が少し困っている様子だったから尚更。
ハルはマザコンなのだ。
その時からアルフォンスの事はあまり好きではなかったのだが、母が死んだ後すぐ、彼が他の見目の良い侍女と親しくしているのを目撃してから、さらに少し嫌悪感を抱くようになった。
ハルの中で、『アルフォンスは女好き』は決定事項だ。しかも口説いているのは美人ばかり。
ハルは眉をひそめて、その場から立ち去ろうとしたのだが、
「ハルか?」
ふと、アルフォンスがこちらに気づいて声をかけてきた。ハルは彼が自分の名前を覚えていた事に軽く驚きつつ、見つかってしまったなら無視する訳にはいかないと、ぺこりと礼を返した。
そして、「それでは……」と何気ない振りをして早々に立ち去ろうとしたのだが、思惑むなしく、アルフォンスはカミラを引き連れてこちらにやって来てしまった。
(何の用だろう)
ハルは少し身構えた。母が死んでからというもの、めっきり声をかけられなくなったのに。
アルフォンスはハルの前まで来ると、柔らかな髪をかきあげながら、あまり熱のこもっていない声で問いかけた。
「ハル、君はいくつになった?」
その質問にどんな意味があるのだろうと思いながら答える。
「えっと、十四……です」
「十四か」
アルフォンスは「ふむ」と顎に手を当てながら、少しがっかりした様子で話した。
「君はあの美しいフレアの娘だ。成長するにつれ母親に似てくるのではと思っていたんだが、期待外れだったな」
「えっと……すみません」
それ以外に、ハルには返す言葉がなかった。
(というか私、美人になるかもって期待されてたんだ)
と驚きさえする。
そして「それはもう期待に応えられず申し訳ない」と謝るほかない。父親の方の血が頑張っちゃったもんだから仕方ないのだ。
「あの……私、仕事に戻ります」
「ああ」
そう言ってうなずいたアルフォンスの目は、もうハルから一切の興味を失っているようだった。
きっとそのうち名前も忘れられそうだな、まぁいいけど。などと思いつつ、ハルが改めて洗濯物を干しに向かおうとした時だ。
アルフォンスの後ろに佇んでいた魔術師カミラ。彼女の手の指に、ハルの視線は縫い止められた。
大きく目を見開いて叫ぶ。
「そ、それっ!」
「!? 何よ、びっくりさせないで」
持っていた洗濯かごを放り出し、血相を変えて自分の右手に飛びついてきたハルにカミラは驚き、後ずさった。
「これ! なんで……これ、あなたがっ……」
動揺しながらそう言って、カミラの手をぎゅっと握る。彼女の指には、とても美しい指輪がはめられていた。
金の台座に大きな宝石がついたものなのだが、その宝石は珍しい色合いをしていた。ぱっと見、エメラルドのような澄んだ緑色をしているが、よく見ると中央の部分が太陽の光を閉じ込めたように金色に輝いているのだ。
「何なの? 触らないでちょうだい」
カミラがハルの手を振りほどくと、ハルは泣きそうな顔をして言った。
「それ、私のです。私が落としたものなんです!」
カミラとアルフォンスがそろって眉をしかめる。言っている意味が分からないという風に。
ハルは必死で説明した。
「その指輪は私の母の形見なんです。母は父から貰ったらしいんですけど……とにかくとても大事なもので……私、鎖を通してその指輪をいつも首から下げていたんです。だけどいつの間にか鎖が切れていて、指輪も落としてしまっていて」
指輪がないと気づいた時、ハルはショックで凍りついた。高そうな宝石のついた指輪だったからじゃない。母がとても大切にしていた指輪だからだ。
それを自分がなくしてしまっては、天国にいる母に申し訳が立たない。
「なくしたのはつい最近で、ずっと探していたんですが見つからなくて……カミラ様、どうかそれを私に返して下さいませんか?」
ハルがおどおどとそう告げると、カミラはカッと顔を紅潮させて怒った。
「あなたまさか、わたくしが落ちていた指輪を盗ったと言いたい訳!?」
「いえ、そんな……」
ハルが言いたいのは、実際そんな事ではなかった。盗ったとか盗らないとか今はどうでもいいのだ。返してくれるのかくれないのか、そこが重要。
落ちていた指輪を拾ってくれた事に関しては、ハルはカミラに感謝すらしている。
だが、一度損ねてしまったカミラの機嫌は戻らない。しかも彼女は、この指輪は落ちていたものを拾ったのではなく、元から自分のものだったと言い張った。
「あなたが落とした指輪を私が盗っただなんて、とんでもない言いがかりだわ。あなたこそ『この指輪は母の形見』だなんて嘘を言って、私から指輪を奪おうとしているんじゃないの?」
ハルは目を丸くした。まさか逆に自分が責められる事になるとは。
『あ、それ私が落とした指輪なんです』
『あら、そうだったの。じゃあ返しておくわね』
『はい、ありがとうございます!』
これで簡単に済む話だと思ってたのに、自分はだいぶ甘かったらしい。
少し太めの金の台座には細かな模様が彫られており、全く同じものはそうそう無いし、緑と金の不思議な色合いの宝石も、おそらく珍しいものであるはずだ。
少なくともダイヤやルビー、パールやサファイヤといった、よく宝飾品につけられている石ではない。
カミラがつけている指輪は、母が遺したもので間違いはない。ハルにはそう言い切れる自信があった。
「ど、どうかお願いです。それを返して下さい」
小さく震える声でハルが懇願する。その指輪には母や父の想いが詰まっているのだ。諦める訳にはいかない。
「まだ言うの!? とんでもない嘘つきね!」
一方でカミラは少し不自然なくらいに怒っていた。鋭い者なら彼女の目が少し泳いでいる事に気がついたかもしれないが、あいにくアルフォンスはそうではない。彼は怒るカミラをなだめると、ハルに向かってこう言った。
「ハル、君が嘘を言っているとは思いたくないが、僕もこの指輪が君のものだとは思えない」
カミラの手をそっと取って、指輪についている宝石をハルに見えるように掲げて続ける。
「この宝石は『竜の石』と言って、竜の国でしか採れない貴重なものだ。僕も生まれて初めて見たし、貴族や王族でも、欲しいからといって簡単に手に入れられる宝石じゃない。入手するためには竜の国まで行かなければならないが、なにせそこに住む竜人たちは排他的だ。人間である我々に自分の国で採れる大事な宝石を売ろうとはしないだろうからね」
竜の石……。
ハルは心の中で呟いた。母の形見の指輪の石が、それほど珍しいものだったとは知らなかった。
母は何故……いや、母に指輪を贈った父は何故、そんな貴重な石を手に入れる事ができたのだろう。
ハルが思いを巡らせている間にも、アルフォンスは話し続けた。
「カミラは貴族だ。竜の石を手に入れられる伝手を持っていてもおかしくはない。しかしハル、正直、君がこの宝石を持っているのはおかしい。不自然だ。客観的に見て、この指輪はカミラのものであると結論づけるのが正しいと思うよ」
「ありがとうございます、アルフォンス様」
アルフォンスが自分の味方であると分かって、カミラは安心したように笑って言った。指輪を隠すように胸の前で手を握り、ハルを睨みつけると、
「なんて図々しい下女かしら。信じられないわ」
そう吐き捨てて、
「参りましょう、アルフォンス様」
アルフォンスの腕をとり、ハルの前から足早に立ち去ってしまった。まるで、これ以上ハルに余計なことを言われては困る、というふうな様子で。
「そ、そんな……! 待って下さい!」
ハルは叫んだが、カミラは母の形見の指輪を持ったまま、屋敷の中へ消えてしまったのだ。