私たちが世界の終わりに歌うとき
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。まるで嬉しそうに、ビジネス用ではない、自然な笑顔で。
私は画面に近づき、その笑顔を嫉妬まじりに覗き込む。彼の瞳の奥に二つの赤い光が輝いているのが確認できる。たぶん三等星ぐらいだろう。そうに違いない。
「ただ今の彗星が一週間後に地球に衝突する確率は97.5パーセントです」
三等星キャスターは天気予報の降水確率みたいにニュースを読み上げる。
「ダーリン、その素敵なお顔を見せて頂戴」
BBが言う。それは私たち二人の毎朝の日課だ。寝巻き姿の彼女が玄関でこちらの顔を引き寄せ、私のサングラスを眉まで持ち上げる。二人の異なる色の瞳が交差する。彼女の赤い瞳の奥に、私の黒い瞳が映しだされる。
BBはなにより朝が苦手だ。それでも彼女の瞳はすでに赤々と輝いている。ニュースキャスターよりもずっと明るいやつが。当たり前だ。その輝きに私は一目惚れしたのだから。
悲しいのは、その素晴らしい瞳の奥の一等星を、なんの取り柄もない、頭の髪がいささか寂しくなってきたオッサンが、たとえ一瞬であったとしても、不吉な知らせのごとく曇らせてしまう点だ。もっとも、それもまた私たちの毎朝の日課ではあるのだが。
「公園に六時。忘れないでね、ダーリン」
BBはそう言って私のサングラスをもとにもどす。寝癖でカールした長い髪が私の頬をくすぐる。
そのサングラスはデパートの眼鏡店でBBが選んでくれた逸品だった。つまりそれが彼女の仕事なのであり、私たち二人のはじめての出逢いでもあった。
その日、私は新宿の職場をでて、昼下がりのデパートに立ち寄った。売り場の鏡の前で値札のつけられたままのサングラスを試着したスーツ姿のオッサンを覗き見て、彼女は「素敵。ジャン=ルック・ゴダールみたいです」と言った。
それ以来、彼女は私をジャン=ルックと呼ぶ。「私の愛しいジャン=ルック!」と。私はそのお返しに彼女をBBと呼ぶ。
BBはいまも新宿にあるデパートの眼鏡店で働いている。私も変わらずに新宿の職場に通勤している。大勢の人々が以前とほとんど変わらない生活を送っている。あと七日間で世界が終わろうとしているのに。まったくどうかしている。しかも私は、いいや私たちは、かつてないほどの幸福感に包まれているのだ。
私はいま語ろうと思う。世界の終わりに愛と苦渋を告白することについて。いま語らずにいったいいつ語るのか。
ある時期、ある噂が、人々の口から口へと、目から目へと、指先から指先へと、まことしやかにささやかれはじめた。そこに共通して含まれるキーワードは、「略奪」であり、「暴動」であり、「シェルター」であり、「巨大彗星」だった。
街の広場に人々が集まりはじめた。夜になるとさらにその数は増えた。周囲を厳しい格好をした機動隊の列が、城を守る中世の騎士よろしく取り囲んでいた。
それは世界の終わりの前夜祭のような光景だった。賢そうな人々はとっくに田舎に疎開していて誰も参加していなかった。ただ、科学者たちの予測が正しければ、私たちの惑星は半年後に巨大彗星にきれいに吹き飛ばされることになっていて、都会にいようが、田舎に逃れていようが、シェルターに隠れていようが、すべて同じことなのだが。
世界の終わりの前夜祭は大勢の人々の夜空の鑑賞会によってはじまり、暴力対暴力によってそのクライマックスを迎えるはずだった。人間は地球が吹き飛ばされる前に、自分たちの手で世界を終わらせるつもりでいるらしかった。誰もがそう信じて疑わなかった。
でもその夜、暴動は起きなかった。略奪もなかった。それどころか一人の逮捕者すらでなかった。前夜祭の一夜は、むしろ人類史に残る安全で平和な記念すべき一日となった。しかもそれはそのあとになってからもずっとつづいている。
日常がもどりはじめた。ただそれは昨日までの日常とはどこか様子が違っていた。人々はみんな早めに仕事を終え、夕方になるとまた広場に集まるようになった。ただし今度は暴動や略奪をめぐる世界の終わりの前夜祭のためではなく、大勢で祈りを捧げるために。
疎開先の田舎で噂を耳にした人たちが街にもどりはじめた。シェルターに隠れていた人たちも地上に帰ってきた。世界の終わりは回避された。つぎは地球の終わりを防ぐ番だ。それにはできるだけ多くの人々の協力が必要だった。
巨大彗星の脅威が消え去ったわけではなかった。それは依然として、恐竜を滅ぼしたチクシュルーブと同じ秒速19キロでもって地球に向かっていた。私たちはその彗星版チクシュルーブをすでに日中でも肉眼で確認することができる。太陽がでているとき、新チクシュルーブは青空を染める小さな黒点に見え、日が落ちると、それは赤々とした夜空のレッドダイヤモンドのように輝きはじめる。情熱であり、希望であり、博愛であり、つまりそれは光という奇蹟が、長い間、私たちにメッセージとして送りつづけてきたものを更に強調していた。
空の光がすべて星だとしたなら、その星々は太古の昔から私たちに多くのメッセージを送ってきた。私たちの祖先はその多くを物語化し、また科学を発展させるのに役立てた。
しかし新チクシュルーブぐらい人々に強力で直接的なメッセージを送ってきた天体はかつて存在しなかっただろう。太陽でさえも。
世界の終わりの前夜祭が開始される前に、恐怖の大王を確認するために夜空を仰いだ広場の群衆は、ハレー彗星めいた白い天体があった場所を、そのときになってはじめて火星よりも赤々と燃える彗星が占めているのに仰天し、同時にその紅の閃光に魅了された。
世界の終わりの夜、ようやく新チクシュルーブは本当の姿を人々の前にあらわした。
BBは言う。赤い彗星が人々に「団結せよ」と言ったのだと。「隣人を愛せ」と言ったのだと。ついでに「公園に集まり、歌を歌い、みんなでマイムマイムを踊れ」とも言ったのだと。とても無邪気そうに。
信じがたい話ではある。もうすぐ地球を滅ぼそうとしている彗星が、かつては恐竜を絶滅に追いやった天体の兄弟が、マイムマイムはいいとして、人間に向かって「団結せよ」とか、「隣人を愛せ」とか、メッセージを送ってくるなんて。百歩譲って仮にそんなことが起こったとしても、知ったこっちゃない、というのが筋というものだし、なんて身勝手で、自己矛盾に満ちた彗星なんだろうと考えるのが道理だ。
だが、ほとんどの人々が新チクシュルーブからのメッセージを額面どおりに受け入れたのだった。より正確に言ったなら、ほとんどの人々が一夜にして、あるいは一瞬にして、彗星の赤い閃光に感染した。瞳の奥に赤い光を灯らせた。体内になにかしらの抗体をあらかじめ持っていて、感染から逃れられたのは人口の1パーセントだった。
しかし、こと新チクシュルーブに関して述べるなら、「感染から逃れられた」という言い方は正しくはないだろう。だって感染してしまった方がよっぽど得だし楽しいのだから。
従来どおり感染者はポジティブと呼ばれ、1パーセントの非感染者はネガティブと呼ばれた。この呼び名には、新チクシュルーブ禍においては二重の意味がある。ポジティブな人々はまさにポジティブな人々のことであり、ネガティブな人々はまさにネガティブな人々のことであるといった。
彼らポジティブな人々は、自分たちの祈りが赤い彗星に届き、その願いが、星という無人格な存在に聞き入れられると頑なに信じている。まるで太陽が地球の周囲を回っていると信じていた大昔の人たちのように。彗星からのメッセージが我々に届いたのだから、我々のメッセージが彗星に届かないはずはないという了見なのだ。そうして日が暮れる頃になると人々は広場に集まり、『The End of the World』を歌い、『今日の日はさようなら』を歌い、みんなで手を繋ぎ、いつ果てるともなくマイムマイムを踊って夜を明かす。天真爛漫だった子供時代にかえったみたいに。まったくどうかしてる。狂ってる。
BB、君は歌い、君は踊る。それなのに世界はもうすぐ終わろうとしている。せめて私の瞳が君と同じ色だったならと思う。ああBB、私たち1パーセントは、君たち99パーセントが、大きな過ちを犯しているような気がしてならない。でもBB、私にできることはなにもない。私にできるのは、君たちと共に歌い、踊ることだけだ。
電車を降り、すでに車中から大声で陽気に歌っている群衆に揉まれながら駅の外にでると、大通りに架かった、公園につながる、人であふれた歩道橋の上で、夕暮れどきの空を背景にした君が手を振り、こちらに向かって叫んでいるのが見える。「ダーリン、私のジャン=ルック!」と。
私の瞳の色が君と同じなら良かったのに、とふたたび思う。そうすれば私たちはもっと深く分かり合い、愛し合えたのかもしれない。でも分からない。もしかしたら彼女は、私の瞳が黒く、ジャン=ルック張りに底抜けに暗いからこそ、この男を愛したのかもしれない。毎朝、こちらの瞳の色を確認しながら、それが赤みを帯びていないのに落胆するようにみせて、じつのところ内心ではホッとしていたのかもしれない。ああ、ならばBB。歌おう、BB。踊ろう、BB。世界に終わりがくる日まで。
おしまい