「ごちそうさま」の多い飲食店
この世界では、いいや、少なくとも飲食店と名のつく店舗がある街では、人は二つのタイプにわかれる。「ごちそうさま」と、明るく店員に言葉をかけて通りにでてゆけるカタギの人間と、まるでなにかの罰でもうけるみたいに無言のまま店をあとにしてゆく招かざるべき客とに....。
サトルはいつのころからかそんなふうに考えるようになっていた。
そして、彼の一風変わったその人生感は、歳を重ねるにつれ強固なものになっていった。
サトルが生まれ育った福島の田舎町には、駅前の寂れた喫茶店とスナック以外、外食産業らしきものは存在しなかった。彼がそれにまつわる自身の呪われた運命に気がついたのは、正確に東京での一人暮らしをはじめてからのことだった。
下宿先から駅までの道のりをぼんやり歩いていた梅雨時の朝のことだ。彼の頭の中は、ゼミの授業で発表する『百貨店の歴史』に関するレポートのことでいっぱいだったのだが、駅前の牛丼チェーン店のまえをとおりかかったおり、それとはまったく関係のないある疑惑がとうとつに思いうかんだ。
それは、ありたいていの人々にとって『百貨店の歴史』以上にどうでもいいことだったのだが、サトルにとっては、もしや大学のゼミよりよほど自分の将来を左右する問題なのではあるまいか、と思えた。
そのとき彼の脳内では、こんな独り言がまことしやかにささやかれていた....これまで僕という人間は、飲食店の店員から「ありがとうございました」と、気持ちよく声をかけられたことがはたして何度あっただろう....。
もちろん彼の耳は、駅へ急ぐほかの人々同様、幾度となく店員の礼の言葉を聞いていたはずだった。ただ、サトルの足どりがにぶくなったのには、もう少し複雑な個人的事情があったのだ。
彼は上京してからの数ヶ月をふりかえり考えた....たしかに僕は「ありがとうございました」と、背中ごしに聞いたことはある。けれどもそれは、いつもきまって僕が無言で店をでていくときにかぎってのことではなかっただろうか。
僕が「ごちそうさま」と言って店をでたとき、そこに店員からの礼の言葉がかけられたことが何度あっただろう....いいや、まるでなかったような気がする。僕の「ごちそうさま」は、あるいは僕の存在は、それを少しでも主張しようとすると、逆につねに無視されてきた....。
それはコペルニクス的発見といってもよかった。あたりまえのように過ごしていた日々の営みが、突然、その姿をかえようとしていたのだ。
しかも、大学で経営学を学んでいるサトルは、将来は花の百貨店マンになることを夢見てもいた。はたして、店の従業員たちから、いわれのない沈黙の対応をうけているような男が、無事、接客業の職に就けるものだろうか。
そこでサトルは急遽予定を変更し、一時間目の講義は遅刻することにして、目の前の牛丼店に足を踏み入れることにした。
おそらく自分とそう歳のちがわないフリーターらしい店員にたいして、それが正しい行動であるかどうか少し不安ではあったが、サトルは自身の運命をあずけるような心持ちで朝限定のセットメニューを注文した。
そして大急ぎでそれを平らげると、フリーター君がカウンター席の前をとおるタイミングを見計らって、まるで親戚の家に招かれた子供みたいに「ごちそうさま」と、はっきりと丁寧に言って席を立った。
答えは帰ってこなかった。店内にはもう二人の店員もいたが、どちらも反応をしめさなかった。フリーター君はまるでサトルの姿が見えないかのように、目の前にいる律儀な客には視線をむけることなく、機械よりもさらに機械的にカウンターの食器をかたづけはじめた。
自動ドアがサトルを外にしめだした。彼が吐いた言葉と一緒に。
百貨店マンを夢見ていたうら寂しい若者は、つとめてなにも考えないように歩きはじめた。まだ単なる悪い偶然ということもありうるし、それに将来ある青年がこれしきのことで人生に絶望してはならない。
しかし、ある雨の朝、彼の中でなにかが萎れようとしていたのは事実だった。
その日からサトルが牛丼屋の旗に近づくことはなくなったが、店をかえて、ささやかな店員とのコミニュケーションは試みてみた。
ただ、どこへいっても結果は彼の意志をくじくものばかりだった。サトルの「ごちそうさま」は、あるいは彼の小市民的な善意は、なぜだか急にそこだけ真空地帯になってしまったみたいに、蕎麦屋のおばさんにも、ラーメン店の大将にも、定食屋の看板娘にも、さっぱりとどかないのだ。
それでいて、サトルが無言のまま店をでるときには、かならずといっていいほど「ありがとうございました」の声が、無邪気な商店街の悪戯のように彼の背中に投げかけられるのだった。
これはもはや悪い偶然ですまされるような状況ではなかった。どんな星の下に生まれたかは知らないが、たとえ百貨店マンにはなれないにしても、サトルは自分の将来全般に大きな不安を感じずにはいられなかった。
そんなわけで、サトルはまだまだ最後のコミニュケーションをあきらめるわけにはいかなかったのだが、彼がそれをあっさり捨て去ることにしたのは、くしくも鬼門になっていた駅前の牛丼屋でのできごとがきっかけになった。
やはり雨の日中だった。悪い予感はとうぜんあった。しかし、良薬口に苦しともいう。サトルはこれまでのせち辛い経験が、すべて悪い夢だったかのようにリセットすることができるとしたなら、この状況で、この場所で、ほかにおいてはありえないと、自分を奮い立たせてふたたびそこへ足を踏み入れた。
厨房に二人の店員と、カウンターにいつかのフリーター君がいた。サトルの緊張感は否応なしに高まったが、フリーター君はもちろん彼のことなど何一つおぼえていないかのように元気よく、そしてやはりどこか機械的に注文をとった。
おそらく天候のせいで仕事がはやく終わったのだろう、カウンター席には二人の建築作業員ふうの男たちがならんでビールを飲んでいた。サトルは彼らの斜めむかいに腰をおろした。
そのあと、六人の男たちによって繰り広げられることになった店内の光景は、およそ人の失笑を買うような代物ではあった。ただ、サトルにしてみれば、それは自分の将来を潔く白紙にかえしてしまえる節目であった。
サトルは二度も「ごちそうさま」と言った。それにたいする答えは一度もなかった。フリーター君をふくめた店員たちは、まるで天敵がすぎさるのを待つかのように身動き一つしようとしなかった。
災難だったのは、その場に居あわせた作業員の男たちだろう。せっかく昼間から気持ちよくビールを飲んでいたのに、二人の視線はテニス観戦の観客よろしく、サトルと店員たちの間を忙しく行き交うはめになってしまった。
彼らにはちゃんとサトルの声が、小市民の魂が、とどいていたのだ。
男たちは思っていたはずだ。ここの店員はどうして食後の客の挨拶を無視するのか、と。また、いくら無視されたといっても、あの青年も意固地になって二度も「ごちそうさま」とくりかえす必要があったのだろうか、と。
そしてまた、ビールの残りを気にしながらこんなふうにも考えていたかもしれない....はたして、自分たちの番がまわってきたとき、「ごちそうさん」と口にすべきか、やめとくべきか....。
いずれにしてもその日、サトルの奇妙な人生感は、その哲学は、ついに完成をみた。悲しいかな、とにもかくにも無言で店をでてゆきさえすれば、誰に迷惑をかけることなく、店員たちの明るい声が、彼を通りへと送りだしてくれることはたしかなのだ。
これまでもそうではあったが、サトルの辞書には、今後もさらに『馴染みの店』という言葉は存在しないことになった。
しかし、それでよかったのだ。自らすすんで『招かざる客』を装うことにした彼は、もうどんな店にだって気後れすることなく出入りができるようになった。鬼門であった旗のゆれるチェーン店でさえ。
もっとも、慣れないうちは、店員たちの「ありがとうございました」の言葉が、「『ごちそうさま』を言わないでありがとうございました」と聞こえてならないサトルではあった。
そんな彼もまだ在学中だったころ、一度だけ自身の掟をやぶったことがある。それはアルバイト先の学習塾で知り合った女子大生のガールフレンドと、外で食事をしていたときの出来事だった。
いつもなにかに追われているかのようにそそくさと飲食店をあとにしようとするサトルに、教育学部の学生であり、将来は教員になることを目標としていた彼女が、いくらか社会性の欠如しているようにも見うけられるボーイフレンドの素行を更正すべく、一人立ちあがったのだ。
ただ、その母性的な情熱は、サトルだけがもっているであろう特異な環境には何一つ効を奏さなかった。
教育熱心なガールフレンドに、彼は自分なりの哲学を拾得するにいたった過程をはじめて打ち明けた。そして彼女の目の前でそれを実践してみせた。
二人がいたのは、下宿先の近所にある焼き肉店であったけども、サトルは精算をすませると、店の従業員の女の子にむかって久しく発音してこなかった禁句の言葉を口にした。「ごちそうさま」と。
すると一瞬、女の子のうつむいたまつ毛がピクリと動いたように見えた。サトルはもしや長い封印がとけたのかと淡い期待をいだいたが、女の子はそのあと、とつぜんレジから逃げる去るかのように店の奥へとかけだしていったのだ。
これにはさすがのサトルも呆気にとられてしまったが、ガールフレンドのほうはそれよれもはるかにショックをうけている様子だった。
サトルは突っ立ったままの彼女の腕をとって店の外へと連れだした。
このバイト帰りの夜の一件は、若いカップルにいくばくかの教訓をもたらした。
サトルのガールフレンドは、なにか彼に人生の応援歌的な励ましのメールをよこしたあと、なにも告げずに塾のアルバイトを辞めていった。
サトルはサトルで、自分の哲学をさらに強化すべく、たとえ誰にせがまれたとしても、今後いっさい、禁句の言葉は口にしないことをかたく心に誓った。
ただ、二人がさずかった教訓の、そのどちらにより多くの徳があったかといえば、それはおそらく、焼き肉店の女店員を見習うかのように彼のもとを立ち去っていったガールフレンドのほうになるだろう。
サトルはその後も何度か意中の異性と食事をともにする機会には恵まれたし、たしかにそのとき禁句の言葉は公にはしなかった。
けども、結局、女たちは彼女らの性にだけ特別な感覚がそなわっているかのように、言葉は耳にしなくてもなにかを感じとるかのこどく、まるで冬の到来を予知した渡り鳥みたいに、ある日、彼のもとから飛び立ってゆき、季節がめぐってももどってはこなかった。
大学を卒業したサトルは、百貨店マンならぬ百科事典の訪問販売員になった。
そのころの彼は、もうすっかり、むかしの夢のことなど忘れていたのだが、自分にかした人生哲学だけはしっかりと守りつづけていた。
電話帳ぐらいの厚さもあるサンプルを鞄にしのばせ、若い百科事典マンは電車を乗り継ぎ、毎日のように街から街へと、人の家の玄関から玄関へと、歩きつづけ、日中、飲食店に立ちよっては、綺麗にそれを平らげ、必ず無言のままに店をあとにした。
そして、店員たちの暖かい言葉を背中ごしに聞いていた。
そんな生活を数ヶ月送っているうち、サトルはある環境の変化に気がついた。
それは第二のコペルニクス的発見といってもよかった。まるで時代が彼においついたかのように、外食産業の荒修行僧のごとき無言で店をあとにする若い男性客が増えているのだ。
たしかにそんな客は以前からもいたはずだけども、サトルが学生だったころには、もっとその数は少なかったような気がする。
店員たちから無言の餞別をうけとる『招かざるべき男たち』。もしやそれは自分だけではなかったのかもしれない。サトルは最近そんなふうなことをよく考えながら営業回りの途中に飲食店に入る。
そしてそこで、誰の目にもとまらぬように、静かに店の外へでてゆく寂しい男たちの後ろ姿を感じとるたび、それから、彼らの慎ましやかな行為をめざとく見つけだすや、出来のよい弟妹みたいに明るく言葉をかける店員たちの声を耳にするたび、サトルはこれまでの個人的な因縁を越えて、そこになにか時代の宿命めいたものを感じずにはいられなかった。
だがしかし、どんな世相も、はては哲学やら宿命やらも、それが頭角をあらわしはじめたときには、すでにその終焉がはじまっているように、サトルや荒修行の男たちにも転換期がやってきた。
あたかも、それは季節外れに舞いもどってきた渡り鳥のようにとうとつに。
その場所は、最寄りの駅はちがうけども、サトルが自身の哲学の塔を打ち建てた、いにしえの牛丼チェーン店であった。
いつもなら昼時の時間はあえて食事をさける彼ではあったが、その日はたまたま午前中に契約が二つとれて気をよくし、混んだ店内に勇ましく足を踏み入れたのだった。
だが、席について間もなく、彼は己のあさはかな思いつきを激しく後悔することになった。
そこはサトルがもっとも苦手とするタイプの店だった。
「ごちそうさま」「ありがとうございました」
「ごちそうさま」「ありがとうございました」
「ごちそうさま」「ありがとうございました」
そこには活気があった。客と店員との息のあったコミニュケーションがあった。
ただ単に混んだ店だったら、サトルだって経験はある。しかしこんな言葉のゆきかう牛丼店ははじめてだった。
客のほとんどはスーツ姿のサラリーマンたちだ。サトルはまるで外食産業の新人研修の場に、一人まちがって出席してしまったような気分がした。
そして、まだ注文したばかりだというのに、はやくも店をでてゆきたい衝動にかられていた。
しかし、逃げだすわけにはいかなかった。今では彼は一人ではない。何人もの声なき同志たちがいるのだ。
サトルはやはり『招かざる客』を貫きとおすべく、胸をはって注文した並盛りをまった。
そして、そのとき彼は見たのだった。食事を終えた一人の客が、まるで手鞠でもつくみたいに、カウンター上の得体の知れないボタンを押したのを....。
「ごちそうさま」
サトルの耳にはたしかにそう聞こえた。だが、それを発したはずの客の唇はいっさい動いてはいない。「おまたせしました」と、店員が彼の前にどんぶりをおいていったが、サトルの五感には、その言葉はおろか、牛丼の具さえもはや目に入らなかった。
ここにいたってようやくサトルも、新人研修めいたこの店の活気の秘密を呑みこむことができた。
思えば、「ごちそうさま」と席を立ってゆく客たちの声は、そのトーンもイントネーションもまるで同一なのだ。ちょうど駅のプラットホームに流れるアナウンスにも似た。
それは世間的には一つのアイデア商品にすぎないかもしれない。しかし、サトルにとっては革命や魔法にも等しかった。闇の中に暮らしていた人々が、思いもかけず、一筋の光を手に入れてしまったようなものだ。
サトルはまぶしい閃光をさけるかのようにして目を細めた。彼の視線は並盛りをとびこえ、カウンター上のプラスチックめいた白いボタンへと注がれた。その側面には、製品の名前がシールになって貼られていた。『ごちそうさまくん(特許出願中)』と。
午後の日射しが、若いセールスマンの背中を照らしていた。彼の胃袋は満たされていたが、その心境には複雑なものがあった。
サトルはあのボタンを押した。『ごちそうさまくん』の頭の部分を。
もしも、そうまでして店員たちから無言の対応をうけたらどうしようかとも思ったが、そういったことはなかった。店の従業員たちはほかの客たちと同じように彼をあつかった。
サトルは「ありがとうございました」の言葉を耳にし、安堵に胸をなで下ろしながら牛丼店をでてきたのだ。
そうして放心状態のようになりながら、駅前のロータリーのベンチに深く腰をおちつけた。
べつに嬉しいわけでも、悲しいわけでもなかった。店員たちの言葉に一喜一憂するには、彼はこれまで代償を払いすぎていたし、すでに歳もかさねていた。
サトルはただ、これまで経験したことのない目眩を感じていたのだ。
彼の人生観はようやく本来の軽さをとりもどしつつあるのかもしれなかった。それがどんなに軽薄な方法ではあったにせよ。いいや、むしろまさにそれゆえに。