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あなたの埋れた才能見つけます⑪

その街にはじめてたどり着いたのは、とある保険会社の若き営業マンだったそうです。

これは校庭キャンプの夜に、キャシーさんから直接聞いた話です。

当時世の中はバブル真っ盛りのころで、その若き営業マンが勤めていた、東京にある小さな小さな、吹けば飛ぶよな、崖の上の掘ったて小屋めいた保険会社ですら、右肩上がりの売上げを計上していたそうな。

ただ彼個人の営業成績だけは、入社以来ずっと来たるべき近未来を先取りしたかのような不景気の寒波に覆われつづけていたようで、まるで地上げバブルを終わらせるべく、本人も知らぬままに花の都の土地土地に不景気の種を撒くミッションを背負わされているかのごとく、仕事あとに我が世の春を謳歌するためにネオンきらめく繁華街へと繰りだす同僚たちを尻目に、ノルマ達成をめざして毎晩遅くまで残業しては、眠け眼の終電に揺られ、シャッターの下りた商店街をプライベートな不景気寒波に吹かれつつ、トボトボと独身寮へと帰る日々を送っていたとか。


そんな弱小企業のダメ営業マンだった彼を、大学まででておきながら結局何者にもなれず、人より長けているものといったらトイレの長さぐらいな彼を、大手企業に勤めるトップクラスの営業マンが羨むほどの花形営業マンに変身させる事件が起きたのは、仕事帰りに乗った山の手線での出来事が発端になっていたそうです。

ただ発端とか事件とかいっても、ハタから見たなら、そこでなにか目を見張る特別な光景が展開したわけではなく、むしろそこではなにも起こらなかったといった方が差し使いないのですけど、いつも山の手線から中央線へと乗り継いで杉並区にある独身寮へ帰る彼は、その夜にかぎって運よく座れた山の手線のシートで、ぐっすり寝込んでしまったのです。


それでもそこはぐるぐる回る山の手線です。寝込んでも途中運良く目が覚めた駅で降りるか、最悪でも終着駅で車掌さんに肩を叩かれて起こされたあとに、駅前のタクシー乗り場の列にならべばいいだけの話です。終着駅であっても、そこは間違いなく東京の二十三区内であって、目が覚めたらお隣り県の最果ての街にたどり着いていたなんてことはないわけです。

毎日のように土地と株が高値を更新していた時代です。終電あとのタクシー乗り場には、心強いお仲間である勤め人たちが大勢いたはずです。

しかし途中駅で目覚めることもなく、終点駅で車掌さんに起こされることもなかった彼は、見知らぬ駅のプラットホームに停車した車内で一人、凍える朝を迎えることになったのです。そこはお隣り県の最果ての駅よりもさらに遠くにありそうな、置いてきぼりにされた一頭の痩せた野良犬だけが駅周辺を徘徊している風景を妄想させる、淋しい場所でした。


「そのとき季節はもう初夏になってたらしいんだけど」

白い湯気の立つブラックコーヒーが入ったステンレス製のカップを口に運びながら、キャシーさんは言います。それは小学校の校舎前に設けられた水飲み場から、持参した小さなヤカンに水道水を拝借し、焚火の炎で沸騰させた、淹れたての校庭キャンプコーヒーです。

二つのテントの上には満天の星が瞬いています。それは私が経験した中で最も暗くまた最も明るかった、遠い記憶に仕舞わている特別な夜によく似ていたような気がします。あるいはそんなふうに感じるのは、生まれてはじめて小学校の水道水を沸かして淹れたコーヒーの、その思いがけない苦さのせいもあったかもしれません。そこではあらゆるものが小学生化して、はじめてブラックコーヒーを口にした子供に還ったみたいな錯覚が起きるのです。そしてその錯覚が、仕舞われていたはずの記憶の自動再生を芋ずる式に引き起こすのです。


日に日に夏が近づき、子供たちがウキウキしはじめる初夏の朝、若き営業マンは自分のくしゃみで目を覚ましました。

目を開くと、眩しい朝日と季節外れの寒気が、開いたままになっている山の手線の車両のドアから入り込んできます。彼は黒鞄に入れておいたスーツの上着を着込むより先に、慌ててプラットホームへ飛びだします。最終電車の車内で予定外の寝落ちから目覚めた際には、たとえ夜が明けていようとも、イの一番に寝過ごしを考えるのが電車通勤者の鉄則です。

ただ彼がスーツを着込み、暦がひと月以上もどったかと勘違いさせる朝の空気に思わずその襟を立てたあとにも、緑色の長い車両に発車の振動が伝わっていく様子はありません。ホームの発車ベルは鳴らず、ドアもまったく閉まる気配がありません。彼は腕の時計を見て、その日が土曜日だったのをようやく思いだして少しホッとします。


黒鞄を手に、最果てのそのまた最果てなプラットホームに立つ、その若き営業マンの名字は田中といいました。

その名がタイムカードに刻印された男がでてくるのはこれで三人目です。一人目はあなたです。二人目はキャシーさんの相方であり、ゲームキングの田中さんです。そして三人目となるのがこの若き崖っぷち保険営業マンであり、のちに大手本社の副社長にして社長女史のボス的存在となる、初代田中、田中の中の田中です。彼の名前もまた、あなた方と同じぐらいに平凡です。三つの名前を交換し合っても誰も気がつかないぐらいです。

私はあなたに話して聞かせます。水晶掘りという職業がどのようにしてこの世に誕生したのか、その短く掻い摘んだ昭和から平成へと繋がるおとぎ話を。それは好景気が産み落とした、バブルによく似た水晶をめぐるお話です。


はじめて呑んだ校庭キャンプコーヒーの苦さは、慣れてくると深く透明なコクを持った、校庭の古い水飲み場の水道水を使用して淹れたとは思えないほど豊かな味わいに変化していきます。

「深い森に入っていくような感じがするでしょ」

キャシーさんは言います。本当にそのとおりで、実際のところ森の中でコーヒーを呑んだ経験があったかどうか、その記憶が定かではない私でさえ、そんな感じがしてきます。私の教育係に言わせると、コーヒーとテントでの夜の読書のセットは、校庭キャンプの大きな愉しみになっているんだとか。

そういえば、ヘッドハンターを引退していた時期に、キャシーさんは数冊の童話の本を書きあげて、出版もされているそうです。

私はまだテントの中で本を読んだことがないのでよく分かりませんけど、コーヒーの方はこの小学校の水道水を持ち帰って〈森の缶コーヒー〉と偽りのラベルを貼って売りだしたなら、肝心の水晶よりもヒット商品になるような予感がしていました。校庭キャンプコーヒーの味覚には、私たち自身が忘れてしまっている、遠い記憶を呼び覚ます成分が含まれているかのようです。ただ本当にそんな商品名で売りだしでもしたなら、私たちのゲームキング田中さんが怒り狂って大魔神に変身し、「クソが、クソが」と念仏さながら唱えつつ、私を踏み潰しにやってきそうなので、やりませんけど。


私たちが見知らぬ街の見知らぬ小学校の校庭でコーヒーに舌鼓を打っていた四半世紀以上前、初代田中は、キャシーさん曰く「昔、流行ったのよ」という、〈24時間、戦えますか〉のキャッチコピーが踊る黄色いステッカーの貼られた自動販売機に、かろうじて一銘柄だけ残っていたホットの缶コーヒーを、プラットホームで一人飲んでいます。キャシーさん曰く、「バブル期のサラリーマンは、暇さえあれば缶コーヒーを飲む生き物だったの」だそうです。

それはまったく普通の銘柄の缶コーヒーなのですが、その飲みなれた普通の味がかえって彼に自分の置かれた不可思議な状況の不可思議さを優しく教えてくれるのです。


時計の時刻と太陽の位置からして、線路は南北に向かって延びているようです。レールの東側には黄緑の葉をつけた木立が一列に並んでいて、その向こうは広い芝生の公園になっています。西側は郊外のそのまた郊外めいた、それが住宅地と呼べるのならば一応住宅地といった様子の寂れた風景が広がっています。

駅にも、改札の外に見える自転車置き場が併設されたロータリーにも、人影はありません。野良犬一頭さえいるかどうか怪しい感じがします。

そこはとても山の手線内の通過駅とは思えない静けさなのです。ホーム上の白い駅名看板には駅名が入っておらずに空白のままになっていて、ただ行き先駅の場所にだけ「たばた」の平仮名三文字が黒インキで描かれています。ちなみに田端駅は山の手線の終点駅です。


もしかしたら山の手線には終電の役目を終えた車両が待機するための駅があって、自分はそこに運ばれてきたのではないかしらん。初代田中の頭にはそんなふうな考えが思い浮かびます。そこは待機するためだけの駅だから、たとえ都内であっても一般的な駅周辺のようには栄えておらず、まるで休日の倉庫街のような静けさなのだ、と。

そのアイデアは彼に一定の納得感を与えます。しかしそうすると、今度この駅から電車が発車するのは、いったいいつのことになるのか分かったものではありません。


当時はまだスマートフォンなど姿も形もなく、ようやくインターネットが普及しはじめた時代です。初代田中が最果てのプラットホームで所持していた情報はひどく限られています。そこで頼りになるのは、情報より、むしろおのれの経験と勘なのです。

彼はズボンのポケットに手を入れて、指先に硬い感触を探します。それをずっとポケットに入れたままにしていたのを、缶コーヒーを買ったときに思いだしたのです。すぐに彼の指は、立方体の形をした小さな灰色の石ころをポケットからとりだしてみせます。

もしかしたら体内に補給した、一見したところごく普通の缶コーヒーは、味はいつもと同じようでいて、じつのところ校庭の水道水が混ざっていたのかもしれません。すでにその街の自動販売機では、〈森の缶コーヒー〉が売りだされていたのかもしれません。


飲み干した缶コーヒーをホームのゴミ箱に捨てると、将来の副社長は自分の未来を占うかのように、コインを指で弾くかのように、イカサマと呼ばれた一匹のネズミよろしく、サイコロめいた立方体の小石をホームの屋根に向かって放ります。小さな彼の将来が、その足下に音をたてて転がって止まります。

初代水晶掘りとなる男は屈んで小石を摘みあげます。ノッペラボウな立方体の六面には、どこにも読みとるべきメッセージなど一文字も浮かんではいません。ただ彼が小石をもとのポケットにもどしたとき、一人の少女の声が風のささやきのごとくやんわりと耳もとに聞こえてきたのです。

「駅をでて、北にいきなさい」

少女は命令します。その言葉の調子は、大人の女性の心が宿っているみたいにしっかりしています。

若き営業マン田中は頷いてみせると、メッセージに従って改札口へと繋がったホームの階段へ歩きだします。彼が少女の声に抵抗することはできないのです。頭の中ではすでに記憶の自動再生が引き起こされていて、彼の存在は少女の存在を呼び覚ましはじめています。ずっと以前から、その少女を知っていたかのように。


つづく

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